第五十三話 春の鶴たちⅠ
縄に繋がれたルネが、子爵の隣に座らされた。子爵はルネを見ようともしない。
ただ時折、リオネルの手の中にある小さな手帳を盗み見ている。
ルネは自分の足で歩いてきた。ということは、怪我や大きな後遺症はないのかもしれない。彼の姿は痛々しいけれど、マコトは今度こそ、ルネから直接聞かねばならない。受けとめるのが、最後まで彼に付き合ったということになると思う。知らず知らず、唾を呑み込んでいた。
「我々は別件でルネを取り調べているが、どうも様子がおかしくてね。ちょっと思い当たることを聞いてみたいんだ。なあ子爵」
子爵は先ほどの懇願する態度とは全く違う様子だ。三つ目の手帳が出てきてから、口は閉ざされて目が泳ぐ回数が増えている。
「まず最初に僕がルネを見て思ったのは、夜なのに、だ」
リオネルのその言葉に、その場の誰もが怪訝な顔をした。
実は、マコトたちはここまでの流れは簡単に聞かされていた。バートン子爵を追い込んでみるから、とリオネルに言われていたのだ。
だが、その先のことは知らない。
真実も事実も、ここで明らかになるのだろうか。
「夜だから、何?」
マコトは思わず口を出していた。ルネのことなら、何でも知りたかった。
「マコトは、毎日ピッケを見ているから、そう思わないのかな。君自身もそうだし」
「そうって?」
「この国では、未成年の売春は違法だ」
「それが…」
待てよ、と息が止まる。マコトは急いで記憶の片隅を探した。
あの時、ルネはなんと言ったか。どうしておれに、体毛がないか聞かなかったか?
おれは脱毛の話をした。もちろん、この世界にもそれがあると思っていた。
ちょっと待てよ、それって、つまりどういう事だ?
その場に会した一同は黙っている。その沈黙が何を指しているか。どんな意味があり、どんな重さがあるか、マコトはただルネを見つめながらリオネルの声を捉えた。
「身体の体毛はどうにかなっても、髭は太くて濃いから、特に夜になると伸びるだろ?」
言われてみればそうだ。自分がもうその手間がなくなったので忘れていた。
ルネの場合、元が金髪で肌が白いから髭もそう濃いとは思わない。
しかし、そうだとしたら男にあるものがない。
「髭の剃り跡だよ」
男なら誰しもが目にする、髭を剃刀で剃った跡、剃刀負けしたような皮膚。
騎士マクナハンは日頃から頭髪、眉毛や髭の全てを剃っていて、首から上は白い肌に剃り跡が残っている。所々肌が荒れ、よく見ると小さな傷や赤い湿疹があった。
「夜、売春夫は仕事前に髭を剃って来る。大体その時の石鹸の香りがするんだけど、ルネはそれもなかった。化粧で覆っていない綺麗な素肌だから余計に目立つね。綺麗すぎるなって」
「まあそうだな、なかなかお目にかかれない美人だ。子爵は浮かれていたのかな」
アスクードがリオネルに続く。二人とも、目ざとくて慣れている遊び人らしい。
「ルネ、君の番だ」
リオネルはまっすぐ、座ったまま金髪のコールボーイを見下ろしていた。
※
ルネは罵倒されることにも足蹴にされる事にも慣れていた。今更なんとも思わない。
この場でどう思われようとも、軽蔑の目を向けられてもいい。腹はとうに括っていた。
ルネはもう、足蹴にされる事は少ない。店の看板、売れっ子として名高いからだ。ルネを買うにはそれなりの富裕層でなければならない、その上店側も傷つけたら多額の罰金を取る。
罰金を取りたくなるくらいの容姿で売れてきた、その実績があった。
彼は一晩ですら、おいそれと一般人が買える値段ではない。
だから自分の稼ぎを貯めれば、店から自分で自分を買い取ることができると思った。そう、自分で自分を身請けする。自由になる。
そしていつか、店ごと買ってやる。そう思っていた。
自分は足蹴にされることはないが、同輩たちは違ったからだ。同輩や弟分が酷い仕打ちを受けるのは見ていられない。自分の古傷のあたりがじくじくとして堪らなかった。
だから稼ごう。働けば、いつかは叶う。そう思ってきたのに。
現実は、ルネの全く知らないところで動いていた。
「私は、春鶴です」
その場が一瞬にしてどよめいた。
ルネがあまりにも、さっぱりとした感じでいうものだから、みんなのリアクションの意味もわからない。
リオネルが深いため息をついてから答えた。
「春鶴……やはりそうか」
そのままルネは目を伏せた。見世物小屋の、よく出来た人形を見ているようだ。
「綺麗な小刀だ」
先ほどジャンに見せてもらった細い刀を、リオネルが上着の内側から取り出して眺めた。
三十センチの竹の物差しくらいの大きさだ。
「僕の寝所で僕を襲うのが目的だった?」
リオネルが前かがみになって、ルネに小刀を突き出す。ルネは頭を上げて、まっすぐその細い武器を見た。
「はい」
オグライゼンの言ったことは当たっていた。
ルネの赤紫色の瞳が、リオネルの瞳と交わる。マコトは見たくなかった。ルネの瞳に、強い怒りを感じたから。そんな目をリオネルに向けないでくれと、願った。
目を逸らしたかったが、続くルネの声がそうさせない。
「こんな事を知っているかと、このような事が領内でまかり通っている事を知っているかと、そう尋ねるつもりでした」
「でも刃は潰れているね」
近衛騎士が驚いて身を乗り出した。トマは知っていたのか、ジャンはどうなのだろう。
二人に目を向けると、トマがこちらに気付いてくれた。
「…マコト様、ルネは、リオネル様を傷つけたかったわけではないようです」
「え?」
「…春鶴というのはね、売春の古い呼び名なんだよ。春を釣る、から来ているそうだが…今は別の意味で使われている」
リオネルまで、少し寂しい顔をマコトに見せた。ルネに怒りの目を向けられても、そんな顔が出来るのか。街で、ディアメの人に囲まれた時とは違う。
「別の意味って…子どもってことか? 未成年の売春は違法っていうこと? それはおれの世界でも」
「違うんだ」
リオネルが再びルネを見た。
「ルネ、歳は」
「今年で二十五になります」
「…え?」
マコトは振り返ってルネを見た。てっきり、ピッケより少し上ぐらいだと思っていた。身体はおれより細いくらいだし、こういう大人になりかけている人だと理解していた。
「…ルネ、お前…声、高いな」
マコトは最大の違和感を伝えた。ピッケの歳ならともかく、二十五でその声は珍しい。綺麗なボーイソプラノで、やさしく喋るルネ。その声で一度はマコトを怖がらせたものの、マコトは打ち解けたと思っていた。
いやきっと、自分にはわからない事情があるのかもしれない。マコトはふとそう思った。
「私たちは男らしい成長はしません。髭は生えたことがないし、子どもも生めません」
「え、え?」
「神子様、マコト様。私は、おれは、子どもの頃宮刑を受けました」
ルネの声は、少し震えていたと思う。高い、ボーイソプラノの綺麗な声はその場に響き、鈴の音と喩えられそうだった。
「キュウケイ?」
トマがおれのそばに寄った。
「今は大陸のほとんどで禁止となった、奴隷への処置、あるいは死刑の次に重い刑罰です。宮刑とは、性器を切り取るのです。若いうちに切除すると、外見の成長は遅くなるといいます。筋肉がつきづらい体質にもなりますが、何より、法の目を搔い潜ります」
この国では、未成年は守られる存在だ。売春もだめ、ということは、買うのもだめ。犯罪なんてもっての外、というのだ。
「子どものような外見でも、歳は成人を過ぎている。ならば客を取っても違法ではないという風潮があったのです。もちろん、我が国ではそれも禁止となりました」
情報量が多くて、よくわからない。
マコトは説明してくれたトマではなく、ルネを見つめ返した。
キュウケイ、性器を切除された、誰に? 何のために?
大人になれない、子どもができない? なんで?
ルネはどこでもない場所を見つめ、長い金髪を後ろに靡かせている。
いつもは美しく、しなやかに見える身体の一部だ。でも今は違う。
あの時水車に巻き付いて、ルネの居場所を教えてくれた金糸は、彼を磔にする蜘蛛の糸のように見えた。