第五十話 錆びた車輪に蟷螂の斧Ⅰ
売春夫を買うということは、一夜限りの相手すら見つけられないと揶揄される。それでも特殊な嗜好の者、魔力切れを起こした急病人などからしたら居なくては困る。
特に魔力の枯渇は問題だ。
魔力量が低くパートナーがいないという人は少なくない。
そういう人が魔力を使い過ぎて魔力交換の為に他者を求めると、どうしても生存本能に従い粗野な振る舞いになるのだ。素人より玄人、売春夫がいいと救護院や薬師から急な依頼を受ける。
成人の儀を済ませているとはいえ、経験が少なく危機が迫っているとなれば、獣が空腹を満たすために餌に食らいつくのと同じだ。それだけ必死に相手を求める。そうした急患は昔からいるのだ。
だから人が行き交う町にはどこにでも売春宿がある。
そうだといっても、売春は他の仕事の傍ら副業としてやる、或いは借金を返すための金策として生業にする者が多い。
表立ってではないものの、売春夫は野良仕事や金回りの良い人足でもない、誰にでも出来る仕事として見下される。わざわざ仕事にしなければならないほど、余程生活に困っているのかと、そういう具合だ。
中でもルネたちは“春の鶴”だ。身体の一部が欠損している最も卑しい獣だと言われる。
店の石細工の看板は、わかる人にだけわかるように、花と釣り針が描かれていた。
彼らはより、日向には出られない。生物として劣っていると見なされて、人並みの生活を望むことすら叶わず一生を閉じる。
ルネはぼんやりとシーツの波を見ていた。もう日が高くなっているのだろう。普段の生活からすればまだ早いが、ここ最近マコトという異世界人に付き合っていたせいで、朝起きるようになってしまった。それがいけなかったのかもしれない。
余計なものを見てしまったのだから。
自分が見聞きしたこと、この身に起きたことが思い出される。
この家の家令はマコトの持ち物を見ていた。マコトがいない隙をついて物色したのだろう。仕事柄、手癖の悪い男がいるというのは知っている。この家令も後ろ暗いに理由があるに決まっている。
そう思って、つい見入ってしまったのだ。
家令が見ていたのは薄い本のようなものだった。
この時の判断はルネの誤算だった。
覗いている家令を自分が覗いているのが見つかってしまった。彼がルネの気配に気付いたのだ。逃げようとしても無駄だった。
恐ろしかった。急に、老齢の家令が目を剥いて襲いかかったのだ。
殺されると、本能的に感じた。
そうして取り押さえられている所を、部屋を掃除にきた使用人に見られた。その使用人と、目が合った。酷く驚いた顔をしていた。
そこで記憶は途切れている。
朧げに覚えているのは暗さだった。ひたすらに暗い。
暗さと冷たさと、苦しさだけ。他のことはわからなかった。
目が覚めて、あらゆる事を把握するのに時間を要した。枕下に忍ばせたはずの小刀もない。
溜息をついてから、のろのろと身体を起こした。とても重たく、自分の身体とは思えなかった。
どの道、もう踊れはしない。
おれはどうして踊っていたのか。
そう、青い蝶になりたかったから。身体が欲しかったから。
居ないことにされる春の鶴ではなく、どんなに軽くても、命ある蝶になって飛んでみたかったのだ。
※
「小刀?」
マコトが首を傾げると、ジャンが持ってきて、抜いて見せた。
とても細い刀身で、鞘も細長いがやけに綺麗な彫り物がしてあった。
「ルネの部屋から見つかったそうです」
あのオグライゼンの声が思い出された。おれはなんと言ったか。
お前の事なんて誰が信じるか、そんな風に食ってかかったのだ。
オグライゼンが言っていたことが正しかったのだろうか。
そのマコトの不安そうな眼に気付いたのか、リオネルが答えた。
「まだルネの物と決まったわけではない。子爵とルネを呼んで聞いてみよう」
リオネルはいつもの灰色のベストに、揃いのジャケットとパンツを着ている。ちょっと装飾やボタンが多いけど、だいぶ見慣れた服装だ。
この服に包まれて、金の巻き毛が光っていると、ああリオネルだ、とマコトはどこかで安堵する。
復讐もリオネルの一部。でも全てではない。
街で起きたことと、オグライゼンを追い詰めたこと。川辺で楽しそうにしていた姿も、どれもがリオネルだ。
無敵ではないけれど、この世界で一番頼れる男がそう言っている。
まだ、ルネの物だと決まったわけじゃない。
そう自分に語り掛けた。
けれど、過度な期待をしてはいけない。いつも裏切られて傷ついて、みっともない自分が出てきてしまうから。