プロローグ
プロローグ
「お初にお目にかかる、転移者殿」
おれの前に出てきた男は、軽い礼をとってそう言った。金の巻き毛に空色の瞳の大天使といえばいいだろうか。それにしてもなんつう台詞だろう。映画やドラマでも聞いたことがない。SFの撮影だろうか?とても流暢ではっきりと聞こえたから日本語が上手だな、と思ったがどうも頭がぼーっとする。周囲にたくさん人がいて、ざわついている。広い部屋みたいなんだが、ああもうだめだ、頭が割れそう。そうして意識が遠のいた。
*
「……良い匂い」
あったかくてふわふわした布団なんて、すげえ。滅多に味わえないぞ。
そうしてもう一回寝ようと息を吸い込むと、何の香りだろう。香水じゃない。
これは植物?とにかく落ち着く匂いだ。
そのとき、近くで身じろぐ気配がする。何か喋ってるようだが。
「―――連絡――ああ――だが―――」
男の声だ。寝かせてほしい。そう思っているとなんだが目が覚めてきた。
「…天井?」
目を開けるとたくさん布に覆われているみたいで、低いうちの木の天井が見えない。
あれ、うちじゃないのかここ。
「失礼。起こしてしまったかな」
声の方を見ると、さっき見た人だ。でっかい天使だなあ。天使って歳とるとこうなるのか。じゃあここは天国か。
返事が出来ずにいると、コップを差し出してきたので身体を起こす。まだふわふわする感覚が残っているが、仕方ない。天国だもんな。コップの水を一息で飲み干す。
「改めましてだね、転移者殿。僕はリオネル、君の名前を聞いてもいいかな」
「天使の羽がねえな」
ぼそりと呟くと、聞こえたようだ。大きな天使はにっこり笑った。
「天使、というのは霊的な世界の話かな。君は生きてるし、僕は人間だよ」
コップにもう一杯そそいで、渡してくれた。今度は少し暖かいみたいだ。
「…おれの名前」
リオネルって人に答えようとしたけど、まだ頭の中に靄があるみたいだ。
垂れ目の中の水色の瞳が、少し険しくなった。
名前、名前、なんだっけな。
―――こらてめえ! まこ! あたしのアイスはこれじゃねえって言ったろ!
一瞬、すごい声が聞こえた。
「まこ?」
それがおれの名前なんだろうか。
「マコというんだね」
そうだ、だけども少し違う。
――マコト、今夜は良かったぜ。
――マコト、会いに来ちゃった。寂しかったよ。
「そうだ、マコト。マコトって呼んでた」
手の中のコップを見つめていると、なんだか色々な声がしてきた。思い出せそうだ。
「マコト、君の年齢は?」
「二十六歳」
「…驚いたな。本当に転移者は若く見える。仕事は?」
「仕事? 酒飲んで…」
なんだっけ。酒飲んで、喋ってた。あれ、でも楽器も持ってたな。思い出そうとすると、頭の中ですごくたくさんの音がする。
「いいよ、無理しないで。君はニホンジン?」
「そう、そうだ。実家は梨を育ててる」
田舎の梨の畑が見えた。あれは用水路だ。誰か走ってきて、呼んでる。
「マコト、もういいよ。これを飲んだらぐっすり眠れる。疲れをとるといい」
疲れ、そうか疲れてるのか。そうだよな、確か体調悪くて早退したんだもんな。
天使に促されるまま、ぬるいそれを飲み干すと、またあっという間に眠くなった。
*
紐を引いてベッドの天蓋の幕を下ろすと、後ろの男が、金の巻き毛の男に声をかけた。
「大公殿下、如何でしたか?」
「やはり魔法陣に何か細工をされている。神祇官の話では前例がない」
「今一度確認を取って参ります」
言うや否や、その片眼鏡で背の高い男は部屋を飛び出していった。
見事な絨毯、家具に囲まれたこの部屋は宮殿の離宮にある。遮音の魔法陣が建物に組み込まれているので、誰かに聞かれる恐れもない。
ソファでくつろいでいた客人が、伸びをして立ち上がった。
「どれ、おれも魔法陣を見てきてやろうか」
「いや、後でいいよサイゼル。今は神祇官にやらせよう」
サイゼルは褐色の肌を見せつけるような、なんともゆったりした衣服をはためかせて、そうか、つまらん、ともう一度ソファに座りなおした。
「しかし驚きだな。この目で本当に異世界転移を見られるとは」
「それが目的だろう」
「それでもだ。皆同じ気持ちだろうよ」
半日前、儀式は成功した。魔法陣の中には黒髪黒目の男が立っていた。だが話しかけても返事がない。近寄ってみると、目の焦点が合わず、ふらついたと思ったら倒れてしまったのだ。近くにいたお陰で抱き留められたが、一瞬肝が冷えた。
「本当に黒髪黒目、伝承通りだったな。しかも髪を伸ばしているのか?見事な艶だ」
「あれで成人しているそうだ」
「まさか!さすがに冗談だろう」
「いや、文献の資料や神祇官の伝承でもそうだった。どうもあちらのニホンジンというのは幼く見えるらしい」
「いやしかし、まあいいか……なかなか美形だった、よな?」
その問いにリオネルは答えない。しばらく思案して部屋を出て、またすぐ戻ってきた。
「サイゼル殿、貴殿はこのまま逗留するか」
「無論だ」
既に本を読むのも飽きたのか、寝そべって、開いた本を顔に被せたままだ。
「わかった。僕は陛下へ報告がある。ではまた」
ひらひらとこちらを見ずに手を振るサイゼル。あれは王家の末子ならではの横柄さだ。
しかし、それは鏡のように自分を写している。
自分もああだったのだ。つい数年前までは。
その出来事が今日に繋がっている。そして今日、現れた転移者「マコト」も、異様だ。
その美しい見た目に反して、記憶が混同しているらしい。しまった、と腹の内が熱くなる。先手を取られたに違いない。だが、ひとつわかったこともある。
リオネルは平素、人好きのするように、感情的にならず穏やかに、和やかな雰囲気を自分で演出している。ただこうして一人きりになると、水色の瞳が復讐に燃えるのだった。