漂流少年
『博物館に眠る金魚』と少しリンクしています。
♪ Blowing in the wind,
The answer is ... blowing in the wind
闇の中でくぐもった声で歌うのが聞こえてくる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここは博物館。
歌を口ずさんでいるのは少年だった。
年のころ、十五といった所だろうか。
少年の名は、ナナオ・アブラクサス。
町の皆はただ単に「博物館の少年」と呼んでいる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今でもはっきりと覚えている。
僕は真っ白な靄の中にいた。
いや、正確には倒れていた。
「ナナミ!」
声がしたかと思うと、一人の女性が駆け寄ってきた。
僕の肩をしっかり掴んで、僕を抱き起こし、
彼女は僕の顔を覗き込んだ。
途端にはっとした顔をする。
「あ!ごめんなさい。
年恰好も全然違う、男の子をナナミと間違えるなんて…私、どうかしてる。」
「きっと、あと、もう少しだからだわ。」
遠い目をしてつぶやいている女の人の顔は、寂しそうなのに、満ち足りていて、
僕は美しいなって思った。
彼女は突然、意識をこちらに戻し、尋ねてきた。
「あなた、名前は?」
僕は、答えようとしたが、真っ白だった。
声も出ず、言葉も出ず、ただ彼女をじっと見つめた。
あの時の感覚は、今でも不思議な気がする。
まるで、自分が、海に漂流する一つの空き瓶にでもなったようだった。
体のどこも動かせず、声も出なかった。
ただ、目が見え、耳が聞こえ、真っ白い靄に促されて呼吸しているだけだった。
あとは、「問いかけには答えよ」という自動的な反応があるのみだった。
感情という感情は心に浮かび上がりそうになると、
全て、周りの靄に吸い込まれてしまうかのようだった。
ここに来るまでのことを覚えてはいないが、
あの時ほど空虚でいられたことはなかっただろう、と僕は確信している。
ただ、僕という肉体が、白い靄の中を漂流していた。
―― 後に、彼女にこの時の事を聞くと、
彼女は「あの朝出ていたのは、
いつもと変わらぬ普通の朝靄だったよ」と言った。
それから優しく笑って、こう言った。
「まだ目が見え、耳が聞こえていたのなら、
あなたは本当に生きたかったのね。
よかった。
ありがた迷惑とかじゃなくて。」
後からは色々考えられるが、
あの時は本当に何も考えられなかった。
「あなた、生きたい?」
女の人は、静かな声で、尚もしゃべれない僕に尋ねる。
僕はやっぱり、ただ彼女を見つめる。
僕は、靄に飲み込まれていった。
少しずつ、靄が僕の中へ入ってきて、僕を侵し始める。
僕の意識は、少しずつ薄れていく。それは、少し気持ち良いものだった気がする。薄れていく意識の中で、目の前の女性の影だけを、僕は見つめていた。
「ナナオ。
あなたは、ナナオ・アブラクサス。」
彼女は、さっきと変わらぬ静かな声でそう言った。
その声に、靄が少し、薄まったのが分かった。
僕は目をもう一度、しっかりと開く。
「僕の名は……」 僕の口から声が漏れる。
「ナナオ・アブラクサス」
僕は自分の肉声を初めて聞き、涙を流した。
彼女はその涙を手の平で優しく拭って、言った。
「あなたは私に続く者よ。だから、ナナオ。
ナナミじゃあ、女の子みたいだし。
あなたは卵から出た雛みたいなものだから、アブラクサス。
私、ヘッセの小説、好きだったんだぁ。」
彼女はそこまで、一気に言うと、僕の顔を覗き込んだ。
僕の名前の由来を説明してくれたみたいだが、
僕には彼女の言うことが、さっぱり分からなかった。
でも、彼女の顔を美しいと思ったことは忘れない。
思い出すと、彼女はいつも僕に何かを伝えようとしていたけど、彼女の言うことは僕には難解で、よく理解できていなかった。彼女の顔の美しさに、僕はただ見とれていた。それは、彼女が倒れている僕に駆け寄ってきた時、僕が初めて彼女を見た時からだった。そして、ただの肉体になっていたときですら、彼女の顔を美しいと思っていたのだから、それは崇拝に近いものだったのかもしれない。
彼女は博物館に住んでいた。
閉鎖された博物館。彼女のためだけの博物館。
最初に僕が覚えたのは、闇を恐れることだった。
闇の中に身をおくことは、あの白い靄の中を漂流することに似ていた。だけど、そんなときは、いつも彼女が僕のそばに来て、僕の名前を読んでくれた。やさしく「ナナオ」って。
僕達は博物館の中で過ごすことが大好きだった。
数え切れない展示物を見て回るだけで、すぐに時は経った。
彼女はケイコと名乗り、
この町で生きる術の全てを僕に与えた。
ケイコは僕に、
話すことや歌うことを教え、
思い出をくれた。
ここへ来るまでの記憶のことは、どうでも良かった。
この町、ケイコと博物館があるこの町が僕の全てだった。
最後に、彼女はこの博物館を僕にくれた。
そして、彼女はいなくなった。
この町を出ること、それは永遠の旅立ち。
肉屋のジョン、彫物師のキム、花屋のネスマ。
この町の他の人々がそうであったように、
彼女も跡形もなく消えた。
僕は町に出なくなった。
ケイコがいなくなった町のことなんて、どうでもよかった。
博物館の闇の中で、僕は彼女のお気に入りの曲を歌う。
♪ blowing in the wind...
The answer is... blowing in the wind
いつか、僕もここを去る日が来るのだろうか。
最近気づいたことがある。
僕はここへ来てから、年をとっていない。
何年も経ってるはずなのに、僕は未だに少年だ。
ケイコは言っていた。
「ここでは、何でも自分で決めなければならない。」
その時、僕は「『何でも決められる』の間違いだろう」と言ったんだ。すると、彼女は「だから、ここへ来ることになったのね」と少し悲しそうに言った。
ケイコは優しいから、言えなかったんだ。あの靄の中に倒れていたとき、全ては既に終わっていたんだって。あとは、「その時」を決めるだけなんだって。
そして、僕はもう少し、このままでもいいか、と思ってる。
そう、もう少し。このままで。
一人は静かで気持ちいいから。
僕は、今、海に漂流するクラゲみたいな気分だ。
そう考えて、僕はククッと笑い声を上げてしまった。
長い年月の間に、僕も空き瓶からクラゲに昇格したんだな。
支離滅裂なこと、お詫び申し上げます。
ナナオ君は死んじゃってるんですかね。
流されるままに生きてきた、生きざるを得なかった少年の行き先みたいなものを書きたかったのですが、彼に残された生き方がケイコみたいに消えてなくなるか、この町に居続けるかの二者択一って、少し悲しいような気もします。なんで、彼が記憶をなくしてしまったのか、なども時間があったら、書きたいですね。