何かが動いたあの日
サラリーマンの町、新橋。
駅前の喧噪から少し離れた小さな居酒屋のカウンターで、麻美は一人飲んでいた。
あのあと亮平は、家族サービスの効果も少なく奥さんと上手くいっていないようだった。
だんだんと麻美に依存する事が増え、最近ではベッドの上では時計を外すようになっていた。
(亮平さんとも、そろそろお別れだな)
そして新しい父性を求めて、麻美は新橋に繰り出す。
六本木の遊び慣れた男でも、銀座のお金を持っているパパでもない。
麻美が求めるのは普通のお父さん、なのだから。
「あれ~?可愛い子ちゃんがこんな所でぇ~ひとりなの~?」
テーブルで数人で飲んでいたサラリーマンの一人が、酒臭い息をまき散らしながら隣に座ってくる。
目の焦点が揺らいでる。相当飲んでいるのだろう。
麻美は一瞥して無視する事に決めた。
「どうしたの~?彼氏と喧嘩したぁ?おじさんが相談のってあげよっか?」
うざいな、このおっさん。
変なのに絡まれた。このままこの店で飲んでても出会いは期待できないだろう。
そろそろ退散しようか。
カウンター内の店員さんとアイコンタクトして、伝票を用意してもらう。
鞄から財布を取り出そうとしたとき、新たな男が来た。
「ちょっと、山内先輩! 何やってるんですか、席はあっちですよ」
酔っ払いオヤジと一緒に飲んでいた男の一人が、慌てたようにやって来た。
30代中頃の男だろうか。黒髪で少し面長の、平凡な顔立ちだった。
チェーン店で売っている普通のスーツに、無難な配色の無地ネクタイに無地のシャツ。
シャツにはきちんとアイロンが掛けられ、スーツに皺も無く靴も綺麗。
清潔感のある身だしなみに、左手の指輪を見るまでも無く既婚者だと判断する。
麻美は取り出していた財布を鞄にしまった。
「すみません、ご迷惑をお掛けして。すぐに連れて行きますので」
男は眉毛を寄せすまなそうな顔をして麻美に謝る。
へべれけになっている酔っ払いオヤジの腕を引き、椅子から立ち上がらせようとしている。
「うっさぁい! 俺は今ねーちゃんと話してるんだぁ!」
「やめて下さい先輩。周りの人に迷惑ですよ!」
酔っ払いオヤジは男を振り払おうと手を振り回す。
麻美は近くにあった水のカップをそっとオヤジに近付けた。
もくろみ通りオヤジの手はカップにぶつかり、こぼれた水はテーブルを伝い麻美のスカートを濡らした。
「ああ! すすす、すみません! 大丈夫ですか! 先輩ダメですよ、ちゃんと謝って下さい!」
男は慌ててポケットからハンカチを取り出し、麻美に渡す。
それからテーブルの水をこぼさないよう、店員からおしぼりを貰って丁寧に拭く。
すぐに出てくるハンカチ。周りに対する配慮と気配り。
気遣いの良さと落ち着いた対応から子育て経験者かよほどのお人好しと考える。
まだ騒いでいる酔っ払いオヤジは、騒ぎを聞きつけた同僚達が麻美に謝りながら無理矢理引きずっていった。
「あの、本当に申し訳ありません。とんだご迷惑をお掛けしました。これ、クリーニング代です。こんなものでお詫びしきれませんが、本当にすみません」
男は本当に申し訳なさそうに、頭を下げつつ紙で包んだ一万円を麻美に差し出してきた。
現ナマじゃないことと、躊躇いなく1万円を渡してくる所に好感を覚える。
「いえ、大丈夫です。…ただ、お気に入りのシルクのスカートだったので、少し残念です…」
もちろん嘘である。
目を伏せ、悲しそうな顔をしてから、ほんのちょっぴり笑顔を作って健気さをアピール。
「し、シルクですか! それは本当に申し訳ないです。で、では、弁償させて頂く形でお許し頂けますか」
男はさらに困ったという顔で、目をキョロキョロと動かす。額にはじんわりと汗が滲んでいた。
慌てている男の様子がおかしくて、麻美は心の中でコッソリ笑う。
「そんな、弁償していただくなど」
「い、いえ! 全てこちらの責任ですので!」
「でも…」
男の困っている様子が見えたのか、酔っ払いオヤジを連れて行った同僚達の視線がこちらに向いた。
これ以上は面倒になる、そう考えた麻美はニッコリと笑顔を向けた。
「では、一度クリーニング屋さんに相談してみますので、それで無理そうならお願いしてもいいですか?」
「は、はい! もちろんです」
「でしたら、あなたのご連絡先を頂けますか?」
「ああ、そうですね!すみません、申し遅れましたがこういう者です…」
「ありがとうございます。私は平野と言います」
男から受け取った名刺には、知らない名前のメーカー名が書かれていた。
「あの、佐々木さん。会社の電話番号しかないのですが、会社に電話するのはちょっと…」
「あ、そうですよね! 僕の携帯番号もお伝えするので、僕の方に連絡下さい」
名刺の裏に携帯番号を書くと、佐々木は何度も頭を下げながら同僚達の元へと戻っていった。
佐々木の態度には麻美に対する下心は全く見えない。
真面目で誠実なサラリーマン。容姿も可も無く不可も無く好みの分かれるところだろう。
世話好きのお人好しな佐々木に麻美の食指が動く。
佐々木の後ろ姿を眺めながら、名刺で隠した口元にはうっすらと弧を描いていた。
「あーさちゃん~送ってくよ~」
居酒屋のバイトの帰り道。時々アイツが現れる。
本当に神出鬼没で気味が悪い。
頭の中で毒を吐きながら、綾瀬には一睨みしただけで素通りした。
「家族サービス大作戦が上手くいかなかったからって、最近冷たくない?」
そうか、コイツはまだ佐々木のことを知らない。
麻美の頭は凄まじいスピードで計算し、しばらく亮平を隠れ蓑にして綾瀬を誤魔化そうと考えた。
二股なんて面倒くさいし主義じゃないけど、綾瀬に佐々木の事をほじくり回されるのはそれ以上に嫌だ。
「少しパパさんと距離置いた方がいいんじゃないかなぁ~このままだと奥さんも感づくよ?」
分かりきっている事を言う綾瀬にイラッとする。
「ね、俺と付き合ってみない? たまには同年代の男も楽しいよ?」
馬鹿かコイツは。いや馬鹿だった。
2年間何度も何度もこの話は断っているのに、コイツの脳はそれを忘れているらしい。
「パパさんの家庭が安定するまでの間でいいからさ。俺も色々協力するし?」
関わらないでくれるのが一番の協力なんだけど。
「俺以上に麻ちゃんのこと理解出来る男ってなかなかいないと思うよ?」
何も知らないくせに。
「じゃあさ、俺が他の女と結婚して~子供作って~イイ感じの家庭作ってたら俺の事見てくれる?」
思わず麻美の足が止まる。
「そんな事言っている時点で無理」
私に対して執着している時点で論外。
愛?そんなもの私に向けないで欲しい。
誰かに愛して欲しい訳では無い。
「え~じゃあ麻ちゃんのタイプってどんな男なの?」
「嫌いなタイプなら教えてあげる。金と権力で他人をストーカーして言い寄ってくる男」
「麻ちゃん、いつまでも今のままじゃいられないんだよ? 早く諦めて俺と仲良くしようよ」
その後も何か言ってたけど無視した。
結局家の前まで綾瀬は付いてきた。別れの挨拶もスルーしてアパートの自室に入る。
はぁ。今日もうるさかった。
ひき逃げとかにあって早く死んでくれないかな。
最近は本気でそんなことを考えている。
警察にストーカーで訴えたり行政手段で対応を考えても必ず無かったことにされる。
無駄に力のある男相手には何も出来ないのだ。
アイツが飽きるかアイツの死しかこの憂鬱からは逃れられない。
飽きそうにないからアイツが死ぬことしか解放される道筋が見えない。
神様、早くアイツを天に召して下さい。