まだ平穏な頃
安っぽい配色の、ベッドとソファだけが置かれた小さな部屋。
皺の寄ったシーツの上で、麻美は男の肩に頭を乗せて聞いた。
「今度いつ会える?」
「さぁな。スケジュールが決まらないとなんとも」
男は煙草を口に咥えると、気怠げな様子でふぅと煙を吐き出す。
色あせた天井に、白いもやが広がる。
「そっか。じゃあ電話していい?」
「電話はちょっと。メールにして」
「わかった」
男は一服を終えると、左腕の腕時計で時間を確認する。
行為中も決して外さない腕時計と左薬指に光るシンプルな指輪は、男に家庭がある事を表す。
どんなに激しく麻美を求めても、愛する家族との夕食を欠かさない男。
もうすっかり「父親」の顔になっている男を、麻美はうっとりと見上げる。
昔から自分以外に愛する家族を持つ男しか愛せない。
麻美は、汗でしっとりとしている男の腕にしがみついた。
麻美の初めての相手は、幼馴染みの同級生の父親だった。
麻美の父親は小さい時に離婚、母親は年下の彼氏に夢中でほとんど家におらず、ほぼ育児放棄。
そんな麻美を、我が子のように面倒見てくれていたのが近所に住む幼馴染みの家族だった。
その長年の信頼と愛情を裏切った。
高校3年の夏、父親とベッドの上で繋がっている姿を幼馴染みに見られ、仲の良かった幼馴染みの家庭は崩壊。
離婚した父親は麻美との結婚を考えていたようだが、その時点で麻美の興味は無くなっていた。
麻美が求めるのは、家庭を持つ満たされた『父親』。
麻美だけを求めるような男には興味が無い。
全てを捨てるように上京してきた大学でも、麻美は既婚子持ちの男達とばかり付き合っていた。
見目が良く何でもそつなくこなす麻美は、同年代の男達からも声を掛けられるが全く取り合わなかった。
「あーさちゃん。遊園地のチケット貰ったんだけど、行かない?」
「行かない」
講堂の端で一人本を読んでいた麻美の横に、見るからにチャラそうな恰好の男が腰掛けた。
この男、綾瀬庄司は何となく入ったゼミで知り合い、いつからか麻美の周りをうろついては声を掛けてくるようになった。
いくら麻美が無視しても全くめげない。どころか綾瀬のしつこさはエスカレートするばかりで、今ではストーカーに近いと思う。
警察に訴えることも考えたが、簡単にはそうできない理由があった。
綾瀬は明るいこげ茶色の瞳を楽しそうに輝かせ、麻美の顔を覗き込んできた。
「ほんとに? ここにファミリーチケットもあるんだけどなぁ~。これ、パパさんにあげたら喜ぶんじゃないかな? 今のパパさんの子供、確か小4の女の子だよね? 来週新しいアトラクションがオープンするみたいだし、家族サービスには最高なんじゃないかなぁ?」
「……」
「新規アトラクションなんて激混み間違いないよねぇ。でも大丈夫。優先パスももちろんあるよ~。子供連れには最適だよね。その子も学校で自慢出来て嬉しいんじゃないかなぁ」
「……」
「どう?少し心引かれた? お昼の3時間だけでいいから、付き合ってくれない?」
忌々しげに睨めば、嬉しそうな笑みで返された。
「…何で亮平さんの事知ってるの」
「へぇ、あのパパさん亮平さんって言うんだ」
「……」
綾瀬のもっとも不気味なところは、話してないのに麻美の性癖を知っているところだ。
綾瀬と会話した記憶なんて、ほんとうに数える限り。普段は適当に相づちを返す程度。
麻美の性癖の事だって、大学の友人には話していない。
それなのに、綾瀬は麻美が付き合っている男のことをどこからか調べてくる。
そして相手が家庭持ちであることも調べた上で、その事については何も触れてこない。
気味が悪かった。
あからさまな嫌悪を示しても効果はなく、この男はヘラヘラと付きまとってくる。
こういった変な人間には、相手をせず関わらないのが一番。別に何か迷惑を被る訳でも無いし、実害は無いのだ。
反応を返せば余計に悪化する事を麻美は知っている。放っておけばそのうち消えるだろう…なんて考えたいたのに。
その期待はまんまと裏切られ現在に至る。
「あのさ、あんた何がしたいわけ? いい加減気持ち悪いんだけど、やめてくれない?」
「え~? 俺は麻ちゃんとパパさんのためを思って言っているんだけど」
「あんたに関係ないでしょ。亮平さんにも近付かないで」
「パパさん、最近家族サービスが悪いって奥さんに怒られているみたいだよ。このチケットが救世主になるんじゃない?」
にやりと笑って、手に持ったチケットをぴらぴらと振りかざしてくる。
麻美も知らない亮平の家庭事情をなぜこの男が知っているのか、なんてことは今更突っ込まない。
この男はいつもどこかで調べてくる。そしてそれが事実だから。
どうしてこの男はそんなことをするのかは知らない。
それを聞いたら良くない答えが返ってきそうだから絶対に聞かない。
「プライバシーの侵害って言葉知ってる?」
「パパさんの奥さんに情報売っちゃおっかなぁ~」
世間的には不倫となる行為故に、麻美が強く出れない所を綾瀬はよく分かっていた。
麻美も相手家族には知られたくないし家庭崩壊なんて望んでいない。
「…何が望みなの?」
「だからぁ、麻ちゃんとのデート」
嫌々綾瀬に付き合う事になった週末の土曜。
麻美は駅前の待ち合わせ場所で下を向いていた。
もうすでに帰りたい。
最近はこんな感じで強引に付き合わされることが多い。
本当に、そろそろどうにかしないと。
「麻ちゃん! 来てくれて嬉しいよ」
…来なければ何処までも追いかけてくるくせに。
以前すっぽかそうとしたこと3度。どこに逃げても何をしてても必ず綾瀬はやってくる。
1度目は自宅に、2度目は避難先のカフェに、3度目はバイト中に押し掛けてきた。
ヘラヘラと嬉しそうに笑う男を睨み付ける。
「それじゃあ、車に乗っちゃって」
真っ白なポルシェのドアを開けて、どうぞとエスコートする綾瀬。
学生が乗る車じゃ無い。明らかな富裕層のにおいにさらに嫌気がさす。
「遊園地に行くんでしょ。なんで車乗るの」
ここは遊園地の目の前の駅だ。少し歩けば入場口に着く。
少しでも一緒にいる時間を減らすため、家まで迎えに来ると言った綾瀬を押し切って現地集合にしたのだ。
「まぁまぁ。麻ちゃんだって遊園地って柄じゃないでしょ」
「ちょっと、触らないで」
「はーい、ドア閉めますよ~」
そうして無理矢理連れてこられたのは都内の百貨店。
方向的にはまさにUターン。待ち合わせ場所までの電車代返して欲しい。
ムスッとしながら綾瀬の後を付いていく。
何故か裏口のエレベーターに案内され、通されたのは個室。
やけにキラキラした部屋はゴージャスな内装で、百貨店の中にこんな所があるのかと驚いた。
「綾瀬様、ようこそいらっしゃいませ」
「ランチに行くんだけどこの子に似合う服を見繕ってくれる? あ、あんまりケバくないブランドでシンプルに。あと靴と小物も一揃え宜しく。1時間以内で準備終わらせて」
「かしこまりました。お飲み物はいつもので宜しいですか?」
「うーん。麻ちゃん紅茶でいい?コーヒーもあるけど、紅茶派だよね」
「いえ、結構です。すぐ帰りますので」
驚いた顔した店員さんに軽く会釈して、入って来た入り口目指して歩く。
後ろから綾瀬の声が聞こえるが無視。一刻も早くここから立ち去ろう。
「待ってよ麻ちゃん~、急に連れてきたのはゴメンだけど今日は付き合ってくれる約束でしょ?」
「はい? こんなの聞いてないんだけど。最初に嘘ついて約束破ったのはそっちでしょ」
「だって言ったら来てくれないでしょ? ブティックとかの方が良かった?それなら今から行こうか」
何なのコイツ、いつも以上に話がかみ合わない。そもそも来たくなかったの!
「こういう事、されたくないの。分かる? 迷惑なの。すっごい迷惑」
「分かったよ、ごめんごめん。俺が悪かったから~怒らないで麻ちゃん」
「気分悪い。帰る」
「それはダメだよ。パパさんの幸せ壊したくないでしょ」
歩き出した足が止まる。後ろで奴が笑った気配がした。
ああ、むかつく。
結局引きずられるようにレストランに連れていかれ早めのランチ。
そのまま食後のデザートで時間を潰し約束の3時間が経った。
帰り際には「今日のお礼。次のデートの時に着てきて」とブランドショッパーをいくつも手渡されたが、後日オークションで売りさばき現金化してやった。
しんどい。なんでこんな事になっているんだろう。
癒やしを求めて亮平にメールを打つ。綾瀬に貰ったファミリーチケットのことを話したらとても喜んでいた。
家族想いな文面に、知らず麻美の頬が緩む。
ああ、少し癒やされたかも。