婚姻破棄の成れの果て
「離縁して頂きますわ、殿下」
淡々と告げられた妻の言葉に、アーデウス王国王太子ウィリアムは思わず目を剥いて驚いていた。
確かに、彼女と婚姻関係を結んで三年余り、妻の事を愛したことは無かったし私的に関係を持とうとは一切思わなかった。彼女と結婚したのは、単なる政略によるものだ。その重要性はウィリアムだって十分に理解している。
だからこそ、いきなり離縁を、しかも懇願ではなく確定で告げられる意味が分からなかったのだ。
「なぜ、いきなりそのような事を……」
「いきなりでは御座いませんわ。もう半年も前から、陛下やお父様にも相談しておりますし、殿下にもお話をしようとしておりました」
「そんなにも前、から? 何故だ」
確かに、結婚して以降妻を徹底的に避けてきた事実はあった。かつて彼らが通っていた学園で、彼の溺愛する愛妾のアンを妻が苛めていたという話があった為隔意があった、と言うのは言い訳にしか過ぎないだろう。
だが、だからなんだと言うのだ。これは政略なのだ。多少冷遇されたところで王室と縁続きになれるのだから諸手を挙げて喜ぶべき事ではないのか。
「半年前、でお分かりになりませんか? わたくしが、貴方様に嫁いで半年前で三年になりました。その間、初夜を含め一切のお渡りがありませんでしたので、陛下に白い結婚を申立てましたの。既に陛下の御前にて宣誓も済ませておりますわ」
「な、それは……」
白い結婚。それは本来離婚が許されておらず、王侯貴族でさえ一夫一婦制であるこの国においてただ二つ、離婚が許される条件の内の一つである。要するに、結婚して三年の間一切の夫婦生活が行われなかった場合に妻の側から申立てられる。もう一つの条件は、夫婦生活があったとしても子を成せなかった場合だ。どちらの場合も申請は義務化されているわけではないが、血を残さねばならない貴族の間ではかなりの高確率で離縁の申請が成されている。
だがしかしその理由が白い結婚であることは、実の所殆どない。
それも当然だろう。白い結婚が申請されると言うことは、妻を冷遇しているか、あるいは男として不能であると喧伝されるようなものだからだ。家と家との繋がりと血を繋ぐことを重視する貴族にとっては外聞が非常に悪い。そのため、妻と仲の悪い夫婦であっても最低でも初夜だけは済ませておくのが暗黙の了解となっている。
だがしかし、ウィリアムはそれを申請された。この三年の間に愛妾との間に子が二人生まれているから不能とは扱われない筈だが、王家の分家ともいえる隆盛を誇る公爵家令嬢であった妻と不仲であると言うのはとんでもない醜聞でありウィリアムの瑕となってしまうだろう。
「何故、そんな申請を……取り消せっ!」
「それはもう無理ですわ。申請の取り消しは、申請をしてから一月以内でなければ受け付けて頂けませんもの。婚姻を結んで三年たってすぐに申請を行いましたから、もう半年も立ってしまいました。すぐに陛下に許可は頂きましたから後は殿下にお伝えするだけでしたのよ? その事をお伝えしようと、何とか政務の合間をぬってお伺いしたのですけれど……」
敢えて言葉は続けず、妻は小さく肩を竦め首を振った。
政務の合間と言えば、アンや子供たちとの触れ合いに当てられていた筈だ。その間、誰であっても通すなと護衛官に言いつけてあったから、恐らく妻は護衛官にあしらわれ門前払いを食らったのだろう。
そもそも、だ。妻と言えば顔を合わせれば執務がどうの視察がどうのと言った仕事の話ばかりで気の休まる暇もなかった。上手く休憩の時間を見計らって、疲れただろうとウィリアムの好む菓子や飲み物を持って来てくれるアンと娘たちにどれだけ癒された事か。確かに王太子妃ともなれば忙しいのは判るが、せめてアンの十分の一でも健気さを見せていれば少しは構ってやっても良かったのに、と行き場のない怒りがウィリアムの思考を赤く染めていく。
「殿下が怒るのは筋違いで御座いましょう。だって、貴方は夫としての義務を怠りましたもの。……この三年、貴方は大層お幸せだったでしょう? 都合の悪い事は何も見ないふりをしていましたもの、ね。幼い頃からの婚約者と結婚したのだからそれで義務を果たしたのだと言わんばかりに、身分のせいで妃にすることは叶わなかったとはいえ、愛する方とその子供たちに囲まれていたのですもの。でも、その陰でわたくしがどの様に言われていたのかご存じ? 流石に、何の根拠もなく石女扱いをされて無意味に憐れまれて蔑まれて。我が事ながら三年間よく耐えたとは思っていますのよ?」
「だが仮にも王族に嫁いだのだ。最低限の義務くらいは……」
「それを果たさなかったのは貴方でしょう? そしてそれを周囲も認めたからこそ陛下から離縁の許可が得られたのですわ。魔力を以て行われた宣誓に虚偽は許されません。わたくしが清い身である事は陛下とバイア―公爵、それに大司教様のお三方が認められました。故に、貴方様にこのことを告げた本日をもって、わたくし、王宮を辞させて頂きます。それでは……ああ、そういえば姫君たちはお二人とも見事な白銀の髪ですけれど、どなたに似たのでしょう? わたくし、ずっとそれが気になって仕方がなかったのですが……それでも王宮を辞す以上は不要な詮索でしたわね。それでは改めてごきげんよう」
ふわりと立ち上がり優雅に一礼をして、妻……いや元妻はウィリアムを振り返りもせずに立ち去っていった。
引き留める事は、出来なかった。周りから見れば理不尽な怒りが激しすぎて、一体何をどうすればいいのかが判らなくなってしまったのだ。一時は、無礼打ちにでもしてしまおうかとさえ思ってしまったくらいだった。出来なかったのは、元妻の傍らに寄り添う白銀の髪の女騎士の眼差しが射殺さんばかりに鋭く、気圧されて動けなかったからで。
そうして元妻の姿が完全に見えなくなって、それからたっぷり四半刻は過ぎて漸くに気を取り直したウィリアムは足音も荒く父王の元へと向かって行き……。
「……しかし良いのですか、お嬢様?」
「あら、何の事かしら、エリザ?」
「王太子殿下の事ですよ。また何かしかけて来るんじゃ? 学園でもそうだったんでしょ?」
まるで影の様に付き従う護衛の騎士の問いに、元王太子妃シャーロットはころころと鈴を転がすようなひそやかな声で笑う。主のこれだけ晴れ晴れとした表情は凡そ久しぶりに見た気がして、エリザベスはウィリアム王子を心底哀れだと思った。父親であるバイア―公爵も相当な狸だが、娘も娘であらゆる意味で大概な人物なのだ。巨大な猫を被った彼女がこのまま王太子妃、引いては王妃になっていたらこの国はとんでもなく手の付けられないバケモノとなっていただろう。あるいはウィリアム王子が盆暗なだけに大分差っ引かれるかもしれないが。
「そんな余裕はありませんわ。だって、あの方の立太子は本日をもって一時凍結されますもの。もしかしたらそれは永遠に続くかもしれませんけれど」
「へぇ、それは一体どうしてなんです?」
「我が国では王位継承権を持てるのは王族の中でも既婚の殿方だけなのです。特例として、王家の男児がいない場合のみ、王女の婿が仮の王として立つ事はありますけれども。実際現王陛下がそうですの。エリザも勉強不足でしてよ?」
「そんな雲の上の人たちのルールなんてアタシみたいな平騎士にゃ関係ないですよ。でも独身に戻って王太子じゃなくなったからって嫌がらせには支障はないんじゃ?」
「だからこその最後の爆弾、ですわ。殿下の髪は焦げ茶ですし愛妾の髪は黒。母方の祖母が北方の民だったと言っているようですけれども、皆無ではないとはいえ濃い色の方が優先的に受け継がれますし……それに何よりあの瞳はありませんわ」
「ああ、あの。ウィリアム王子はなんで気付かないんでしょうねぇ? おっと、もう馬車の準備は出来てるようですね。どうぞ、お嬢様」
器用に肩を竦めながらも馬車止めに止まっていた公爵家の紋章の入った馬車に、身一つで乗り込むシャーロットをエスコートしながらエリザベスは呆れた様に呟いた。
白銀の髪の幼い双子の姫はどちらも鮮やかな紅い瞳をしている。白銀の髪なら、その言い訳の通りに北方の民によくある色彩だ。真実祖先にその血が混じっていれば、例え両親が濃い髪色をしていたとしても決して現れないわけではない。だが鮮やかな紅色の瞳はそれだけはない、あり得ない。極稀に生まれる白子でさえなければ、それは人間には決して出ない色だからだ。そして双子の姫は白子ではない。母親譲りの艶やかな褐色の肌をしている。
「……アレ、確実に夢魔の子ですよね?」
「ですわね。夢魔の子で多胎子というのは珍しいとは思いますけれども強い力を持った魔ならそれも可能でしょう。アレならその程度簡単にこなせるのではないかしら」
「おや、父親に心当たりが?」
「七か月程前にちょっかいを掛けてきたので調伏しましたわ。徹底的に叩きのめして、今は下僕契約で縛っていますから当分この国では被害は出ないでしょう。まあ、エルラーデ・ラルダドなのですけれども」
「ソレ、エライ大物じゃないですか」
「偶々別件で奥方様に相談を持ち掛けていたところでしたので助けて頂きましたの。わたくし自身は物理でどうにかしただけで、お手柄と言うなら奥方様の方でしょう? 奥方様曰く、当分こき使ってやってくれ、との事ですのでありがたく首輪を付けさせて頂きました」
「はぁ……そりゃまあ修羅場大発生ですねぇ。盆暗王子のとこもラルダの魔女殿のとこも」
はー、と呆れた様に息を吐きながらも、エリザベスは軽やかに流れる車窓の風景を眺める。とりあえず、大事な大事なお嬢様に危害が加えられないのならそれでいいか、でもあの腐れインキュバスだけは絶対もいでやる、と呟いて無造作に寝転がった。エリザベス本人にとっては当然の事だが、枕はシャーロットの膝だ。
「まあ、教育をきちんとしておけば優秀な魔女にはなるのではないかしらね。一歩間違えれば国を揺るがす傾国ですけれど。ところで貴方はいつまでそんな恰好をしているの?」
「親元に返すのが一番かとは思うんですケドね、半魔なんて手に負えないモノ……ああ、まあ一応公爵邸に戻るまでは? シャーロット王太子妃殿下の護衛は新参の平民女騎士エリザベス、ですからねぇ。どこで誰が見てるかもわかりませんし。……ところでお嬢様は、影王子と貴方の忠実な従者、どちらに戻ってほしいです?」
「もう、仕方がないわね。……貴方の好きな方でいいわ。わたくしが好きになったのは血筋だと立場だとか、ましてや半魔であることは何の関係もないのだから」
「あはは、長かったっすねぇ、ずっと傍にいるのに手を出せないとか、辛いってもんじゃねーですよ」
けらりと笑うエリザべスであった従者の微かに潤んだ目元を、シャーロットはふわりと微笑み愛おしげに撫でる。
どこかウィリアム王子に似た型のその目は、そう、まるで血の様に紅かった。
その後、アーデウス王国の王太子であったウィリアム王子は、公爵家から娶った妃に白い結婚を理由に離縁され、また愛妾が産んだ子も大淫魔と名高い夢魔の子である事が当の本人から告知され、事実はどうあれ子を成す能力はないと周囲に認知される事となり廃嫡される事が決定された。
今代において王の子はウィリアムただ一人であり、更には先王の子もウィリアムの母である今は亡き王妃一人。王家の血をひくものは既に王族籍を離れた分家ばかりとなってしまった為、アーデウス王国としては非常に遺憾ながらも特別措置が取られる事となった。
すなわち、廃嫡されたウィリアムの弟にしてアンの娘たちの兄にあたる、亡き王妃と夢魔エルラーデの子、影王子と呼ばれたジュリアスを呼び戻す事となったのである。
そうして見出されたジュリアスは元兄の妻であり公爵家令嬢のシャーロットを妻として立太子し、数年の後に流行病で呆気なく崩御した王の後を継いで即位をする事となった。
王族としての教育を受けていない新王は、始めは大層侮られ軽視されていたが、長らく想いを寄せていた妻共々じわじわと地盤を固め国力を高め、気が付いた時には周囲の国が手に負えない程に、アーデウスを強国へと押し上げていた。
概ね善政を敷いたジュリアス王を支えたのは、アーデウスの宝薔薇と呼ばれた賢妃シャーロットと、彼と父を同じくする魔女となった双子の妹たち。そして夢魔の特徴を一切受け継がなかった二男二女の子供たちだった。
その順風満帆であったジュリアス王の治世の記録において、ウィリアムとその愛妾であったアンについての記載は殆ど記されていなかったという……。