オマージュとリスペクトとパクリの考察
個人の意見です。パクリを推奨するものではないです。
世間ではオマージュ、リスペクト、オマージュなんて言葉がある。
オマージュもリスペクトも意味としては『尊敬する』なんて意味だ。
ネット界隈で評価を見ているといい意味ではこの二つが使われている。
逆に、悪い意味、ネガティブな表現で使われるとなるとパクリとなる。
何が違うのか。
中身を読んでみると、どちらもギャグのネタに他作品の引用が来ていたり、テンプレ展開として作品内での展開を踏襲している。
しかし、かたやリスペクトだオマージュだと好意的に受け入れられ、かたやパクリだ模倣だと罵倒の嵐に見舞われる。
この違いについて考えてみた。
一点は、これを呼んでいる読者には悪いと思うが読者のせいではないかと思う。
世の中にはそれこそ娯楽作品に溢れている。
似ている展開はごまんとあるし、色々な作品を絞ってみれば展開が似ているものもそれなりに存在するだろう。
最近読んだ作品や印象に残っている作品の残滓を、その作品に重ね合わせてしまうもの。
それにより、あれ、これ○○に似てないか?という思考に至る。
その一部だけの属性(その作品の特性【最強主人公】や【ハーレム】、【チート】など)を抜きだしてみればそうなのだろう。
だが、展開を考えてみれば全くの別物になる。むしろ作者のオリジナリティに溢れているが情報過多の為に『厨二臭い』というだけで同じ属性として見てしまう事があるのだと思う。
音楽に例えてみれば分かるだろうが、あれ、このフレーズ聞いたことある、なんて思ったフレーズが4分の曲の内に1秒間だけあったとしよう。240分の1が似ていただけでパクリ扱いは流石に酷いと思う。
それだけでその人の印象は○○に似ているとなるようなものだ。
他の人に言わせてみれば似てないし、こいつ何言ってんだ状態である。
ここはリスペクト、オマージュとパクリの境目というか人によって感じ方が違うものだろう。
だが、大半の人にとっては何とも思わないのだろう。
雰囲気イケメンをお前はイケメンだ! なんて言い張っている人を見たら大抵がそんな感じだと思う。
雰囲気イケメンが褒め言葉かどうかも微妙だが。ちなみに作品の感想で○○と似ていますね、面白いですは褒め言葉じゃないと思います。
貴方は雰囲気イケメンですね、なんて言われても嬉しいかと言われたら微妙だろう。というか顔は別にイケメンじゃないと言われているのだから貶し言葉だと筆者は思うがどうだろう。
次に、作者の技量不足である。
創作に入る切っ掛けは、自分も作り出してみたい!と言う想いからだろう。
その想いを抱くと言うのは、なにか感化されるものと出会ったからだ。
感動させられる作品に出会い、その想いを溢れさせて指が動いた。そうして生まれた自分の作品。
しかしながら、影響元の色が濃く出てしまっているものになってしまった。
悲しいかな、それは自分の技量ではなく他人の属性を使って作りあげた仮初の物である。
ここで問題なのは、他人の属性を使う、ということは別に悪いことではないということだ。
では、何がいけないのか、それは上手く咀嚼できていない、と言うことだろう。
あれも、これも、それも、と手を出していった結果、つぎはぎの作品になっているのだ。
属性と属性が混ざり合うことはなく、それぞれの色を発している。それ故に読者には既視感を与えるだけで終わる。
賛否両論だとは思うが、指摘するにとどめてあげるのが一番だ。
その着眼点は間違っていないのだ。面白い作品を作りたい、と思うのならまずは他の作品を見る。
そうして属性を見極め、どう言った物が喜ばれるのかを見極める視点と言うのは大事だ。
市場を理解なければ結局のところ面白い作品は書けないのだから。
こう言った作品の場合、他作品の言葉を伏字にして出す傾向が強いと思う。
小説家に○ろう。なんて書かれた場合、笑える場合もあるだろうが印象としては既視感を不信感に変え、盗用したと思われても仕方がない場合もある。
結局、他人に理解させるのにウルトラ○ンと書くよりも40Mの大きさで銀色に赤いラインが入った宇宙人と表現した方がいいし、更に言えば空を貫くような巨人の肌は金属の様な銀の光沢を放ち、血の様に赤いラインが身体の随所に走っていると書いた方が自分の言葉になるのだ。
ここが、咀嚼できているかできていないかの違いだろう。
あえて使う場合もあるが、それは作風や今までの文を見て判断するしかない。そう言う意味ではこれも読者の判断にゆだねられていると言えよう。
さて、次にオマージュ、リスペクトと呼ばれている作品だ。
それは敢えてテンプレを踏襲する、というのもあるだろう。
これは判断が難しいと思う。
例えば変身ヒーローが好きな場合。その作者はその作品のテンプレを踏襲したくなる。
一例を上げれば、正義のヒーローの持つ力は悪の秘密結社が持つ力と同じ、だとか。
そして本来は自分もその勢力の一員になるはずだったがなんらかの原因でそうはならなかった。
これは某仮面に素顔を隠したバイク乗りのヒーロー達の設定だ。
その設定を使うこと自体はいい。だが、序盤の展開もわざと似せるなどする。勿論用語も、主人公の性格も、秘密結社の理念も、何もかもが原点とは違う。だが、その展開だけは踏襲する。
作者はその作品が大好きでそう言った所謂お遊びをし込んでいるわけである。
ほとんどの場合が明らかに見て『リスペクト』していると分かるようなレベルだ。新世紀に東京で巨大な人型ロボットらしきものを乗りまわして迫りくる巨大な化物と戦う中学生たちの話も銀色の巨人の話のオマージュであるわけだし。
だが、それをパクリと言う人もいるわけだ。
最後はそもそも本当にパクリである。
文章そのものを引用してきたり、展開やキャラの関係性や性格、周囲の状況や環境などの全てを他者から持って来たもの。
勿論、名前などの細かいところは違うが、見ただけでああ、これは自分の作品ではないなという奴だ。
そう言った場合は『僕の考えた世界で一番面白い作品』であることが多い。、
これの良くないところは、『自分で考えない』というところだろうか。
咀嚼する気も無い。自分の糧にせず、よその畑から野菜を盗んできて生産者の名前だけを変えて並べているようなものだ。
面白いか面白くないかで言われれば面白いのかもしれない。
だが、原点である作品を知っていれば最早、読んだことあるレベル。
未読者にとってはパクリではないだろうが……。
甘い汁を吸う人に嫌悪感を覚えるのは仕方のないことだろう。
だが、それを理由に叩いていいわけでもない。
○○に似ている、と言って叩くのではなくしっかりと○○という作品の○○に似ていると指摘するのだ。
そうでなければ、ただ雰囲気で語るクレーマーと同じような目で見られるし、ただ騒いで書くのをやめろと喚くのは荒らしと変わらないのだから
結局のところ、正確に判断できるものはない。
ぶっちゃけて言えば、異世界召喚物やトリップ物というだけでパクリなのだ。
属性の被り、というのはある意味で許容すべきである。
以前見た、作品では異世界で傭兵事業(人材派遣)を行う作品を見たが、あれは筆者的にはありだった。
しかしながら、とあるゲームと設定が酷似している、という理由で袋叩きにされていた。
属性は確かに似ていたが、それだけだ。
内容は別に似ても似つかないし作者さんのオリジナリティがふんだんに感じられた。
悲しいかな、パクリパクリじゃない論争は結局のところ、世論の声の大きい方に軍配が上がる。
しかしながら作品とは作者の内面を露わすものだ。
作品の属性と言う型枠だけでなく、そのカンバスに描かれた絵の技巧や想いを汲み取ってほしい。