未来の判断
本編とは違い、欝展開になっています。
海水浴編(後編)からの続きです。
やっぱり、言うのはやめておこう。
これ以上こいつの負担にはなりたくないしな。
こいつ、ただでさえ――――。
長い坂を登り、階段にさしかかる。
両脇は高い石垣だ。上と下に人が来ない限り、誰も俺達を見ない。
竜神より早く数段上って両手を広げて、竜神を抱き締めた。
早苗ちゃんの死の理由を知った後、虐待に付いていろいろ調べたんだ。
性的、精神的、肉体的、ネグレクト、経済的。それはもう、嫌になるぐらい種類と方法があった。
竜神は全然気が付いてないようだけど、こいつの体に刻まれた傷は明らかに身体的な虐待だった。
虐待に対する俺の知識なんて付け焼刃だ。
種類を知っているだけで、ケアの方法も、虐待を止める方法も持たない。
俺は何もできない。
竜神が自覚して無い以上、それが虐待だと指摘することもできなかった。
早苗ちゃんの父親に襲われたとき、警察署に来てくれた母ちゃんが俺を抱き締めてくれた。恥ずかしいけどちょっと安心した。
それを思い出して、竜神の肩に回した腕に力を込める。
初めて、女の体でよかったと思った。
柔らかくて暖かいこの体は、きっと、竜神を安心させてくれるから。
「なぁ、竜神。嫌なことがあって、何もかも面倒くさくなって、どっか違う所に行きたいって思ったら………………俺に相談してくれよ」
もし、傷に耐えられなくなって逃げ出そうと思ったら、自暴自棄にならずに、まず教えて欲しい。
俺がお前の新しい居場所を作るから。
こいつが、早苗ちゃんみたいな悲しいことになるのは嫌だ。
「お前の居場所ぐらい作れるんだ。なんかあったらウチに住んでくれよ。生活費も気にすんな。今まで散々世話になってきたから今度は俺が養ってみせるから」
竜神にはほんと、いろいろと助けて貰ってきた。こいつに何かあったら今度は俺が助けたい。
長い沈黙の後。
竜神は俺の背中を撫でて、呟くように答えてくれた。
「あぁ……その時は、頼む」
「ん」
傷が痛むだろうって思うのに、腕に力を込めてきつくきつく抱き閉めてしまう。なんかもう、苦しい。
早苗ちゃんも、こいつも、ばあちゃんと両親に否定され続けた浅見だってそうだ。
幸せに楽しく生きてる人間なんて地球上に一握りしかいないだろうってのは判る。でも、俺の周りに居る人達だけは、幸せに生きて欲しい。何も、苦しまずに。
どうか、こいつが幸せに生きていけますように。
俺も、邪魔しないよう、頑張るから。
高校一年生の夏休みは、人生で一番ってぐらいに楽しい夏休みだった。
海に行って、遊園地いって、水族館いって、お祭りいって、花火大会いって、皆で勉強して!
竜神、美穂子、百合、浅見、達樹と。そしてたまに付いて来る冷泉と、ぎゃーぎゃー騒いで。
本当に本当に楽しかった。
そんな、大切な思い出ばかり作った夏休みの終わりごろ、俺に、絶望にも似た宣告が下された。
「にゅういん……?」
呆然と呟いた俺に、白衣を着たお医者さんが「えぇ」と頷いた。
兄ちゃんが探し出してくれた、俺に一番相応しい治療をしてくれる、信頼の置ける心療内科のお医者さんが。
「期間は三ヶ月間です。検査をしてきましたが、未来さんの精神状態はきわめて悪いと言わざるを得ません。お母さん、未来さんは今高校生で、大事な時期です。だからこそ、入院して心にお休みをあげてください。
学校は休学になりますが、また、来年があります。もういちど、一年生からやり直しても、四年後には卒業できます。しかし、心の傷は、放って置けば一生が台無しになります。この後、六十年か、七十年の人生のためにも、三ヶ月間、入院しましょう。大きな事故に合い体を失った挙句、脳移植をしたことは、未来さんに、想像以上のダメージを与えているのです」
「そうですか……」
俺に付き添っていた母ちゃんが苦しそうな顔をした。
「どうか、未来さんの人生を大切に思うなら、入院をさせてあげてください」
お医者さんに、書類の束を渡された。
ずらずら字の書かれた、厚い束。
紙に視線は落したけど、俺の頭の中に文字は入ってはこなかった。
休学?
嫌だよ。今、珍しく学校が楽しいんだ。
良太だけじゃなく沢山友達出来たのに。
休学して、来年知らない連中とまた同じ学校に通うなんて嫌だ。
戸惑う俺に、お医者さんは重ねるみたいに言った。
「お友達に迷惑をかけないためにも、どうか、入院を」
迷惑? そう言われて、真っ先に竜神の顔が浮かんできた。
あいつが最近笑わなくなってきたのは、俺が負担になってたからだろう。親戚が俺を轢き殺して、その罪滅ぼしに傍に居てくれている。
わざわざ家まで来て、送り向かえしてくれて。
俺がいないなら、あいつが余計な苦労することもないんだよね。
竜神の家から俺の家は電車で四駅の距離がある。行き、帰りと往復していた竜神の負担は大きい。
いくら竜神の家が本家に頭が上がらないからっても、俺がいなければあいつは開放されるんだ。
俺が入院すれば、竜神は開放されるし、俺の頭も健全に戻る。
それなら、受けない話はない。
「母ちゃん、俺、入院するよ。夏休みだってあっという間に終わったしさ。三ヶ月なんてあっという間だよ。竜神たちと一緒に卒業できないのは悲しいけど、また新しい友達出来ると思うし」
「……そうね、それがいいわよね。一年の遅れぐらいなんてことないわよね。この先、何十年もある人生の方が大切だしね」
うん、きっと、そうだ。
これが、最善なんだ。