第3章
ジャン・ブリンナーの手記:
××月××日
何たることだ!アリーシャがグマルに感染した。神の御手は、この地には届かぬのか。
「寒い・・・」
アリーシャは呟き、突如立ち止まった。彼女の手を引いていたジャンは、訝しげに彼女のほうを見、それからまるで悪魔のようなぎらつく太陽を仰いだ。ジャングルを抜け出た彼らは、広大な砂丘にいた。植物もまばらなこの砂丘の熱砂の上には、くらくらするような陽炎が揺らめいていた。遠くに見える蜃気楼を仰ぎ、ジャンは呟いた。
「寒いだと・・・?この肌を焼く熱風の中で・・・?」
「・・・グマルです、小隊長殿」
パドゥクが暑さに喘ぎつつ言った。
「間違いありません。グマルに罹る者は誰でも、このアプゥドラの灼熱地獄の中で寒さを訴えるのです。アリーシャ様も、恐らくはグマルに・・・」
「何だって・・・?」
アリーシャの息づかいが、徐々に激しくなってきた。四肢から力が抜けた彼女は、軽い音とともに砂漠の乾いた砂の中に倒れた。
「アリーシャ!アリーシャ!」
ジャンは叫び、彼女の身体を支えて起こすと、そのドレスと髪についた砂粒を払ってやった。彼は彼女の横面を軽く叩き、その口元に水筒をあてがおうとした。が、その彼を、パドゥクが制した。
「小隊長殿。水は貴重です」
「何を言っているんだ。今はこれをアリーシャに・・・」
「アリーシャ様は、もう助かりますまい」
パドゥクは二人を見下ろして言い放った。ジャンは懇願するように、彼のほうを見上げた。太陽を背にした彼の面は暗く、その表情は窺い知れなかったが、嗤うように開いた口元に、綺麗に並んだ白い歯だけが輝いて見えた。その瞬間、ジャンは突如として、アリーシャのみならず彼自身の身も、完全にこの蛮族の案内人の手に委ねられていることに気付いた。ジャンの肌は次第に粟立ち、その背には冷たい汗が浮かんだ。
「アリーシャ様を、ここへ置いていきましょう」
パドゥクは抑揚のない声で言った。
「我々が助かるには、そうするしかありますまい」
「おまえ、一体何を!」
ジャンはわなわなと震えつつ、熱病のために内側から燃えているのかと思うほど熱くなったアリーシャを抱きしめ、激しく頭を振った。パドゥクは彼らの傍らにしゃがみ込み、アリーシャの面をちらと見た。
「ほら、御覧なさい」
彼は言った。
「アリーシャ様には、もう意識がないのです。グマルに侵されたら、もう意識は戻りません。それはエンリケ様をご覧になった貴方様がよく御存知でしょう。ここへ置いて行こうがお連れしようが、アリーシャ様にはもうどちらでも同じなのです」
ジャンは恐る恐る、アリーシャの面をとくと見た。彼女は白目を剥いており、だらしなく開かれたその口元からは、一筋の唾液が垂れていた。その様子を見ながら、パドゥクは非情にも言葉を続けた。
「間もなく、アリーシャ様の身体は火ぶくれができたようになります。エンリケ様と同じように」
「嘘だ!」
ジャンはパドゥクの言葉を否定し、尚も強くアリーシャをその腕にかき抱いた。だがパドゥクは無理矢理彼の腕から少女の身体を引き離した。
「やめろ!」
「小隊長殿。無駄な体力を使うべきではありません。旅の途上で病人が出たら、こうするのが我々の慣わしなのです」
「やめろ!私たちは、おまえのような野蛮人とは違う。私たちは大いなるヨーロッパの地に生まれた神の使徒・・・」
ジャンの言葉を遮るように、パドゥクは嗤った。彼の嗤い声は、遮るもののない砂丘に甲高く響き渡った。
「何が可笑しい・・・」
ジャンは蒼褪めつつ、よろめきながら立ち上がると、パドゥクに掴みかかろうとした。だがその手には力が篭らず、彼はただ力なくその足元にくずおれるばかりであった。
「ほら、神だの使徒だのと言ってみても、貴方は立ち上がるのがやっとでしょう。貴方はもう、私を頼るよりほかないのです」
パドゥクはそう言うと、ジャンを助け起こした。彼は装備を背負い直すと、ジャンを脇から支えながら言った。
「小隊長殿、歩けますか?」
ジャンは、弾かれたようにパドゥクの手を払いのけた。彼はよろめきながら、この蛮族の案内人のあとに続いて歩き始めた。立ち去り際に、彼は今一度アリーシャのほうを見た。彼女の身体は激しく痙攣しはじめていた。彼女のドレスと砂の擦れ合う音を聞きながら、ジャンはその場を後にした。激しい疲労のためか、彼の目からは涙すらも出なかった。その代わり彼の心を占めていたのは、何故こうなってしまったのかという胸を抉るような問い、主への背徳的な呪い、そしてこうなった以上は一刻も早くこの場を立ち去りたいという欲求のみであった。彼の懐から、オッペンハイマー医師が遺したロザリオと小さな聖書の写本が落ちた。だが彼はそれを拾う気力すらなく、ただただそれらが砂に埋もれるに任せた。
それからどのくらい歩いたであろう。ジャンは遥か遠くの泉が、豊かな水を湛えているのに目を留めた。
「水!水だ!」
彼は半ば狂人のように、そちらへ駆け寄ろうとした。その彼を、パドゥクが嗤いながら制した。
「小隊長殿。あれは蜃気楼ですよ」
「パドゥク、どうか答えてくれ」
ジャンはこの蛮族の男の足元に縋って懇願した。
「どうか教えてくれ、一体いつになったら、この砂丘を出られるのか」
「さあ・・・、わかりませんね」
まるで他人事のように、パドゥクは冷徹な声で言った。
「どうやら道に迷ったようですね」
「・・・道に迷っただと?」
ジャンは憤り、パドゥクの首を絞め上げようとした。パドゥクはその腕を軽く振り払い、ジャンをねめつけた。
「小隊長殿。ここで私を殺せば、貴方は永遠にヨーロッパへ帰還する機会を失いますよ」
パドゥクは唇の端を吊り上げて笑みを見せた。その笑みは、彼の如何にも蛮族らしい、彫の深い整った面を酷く冷酷に見せていた。ジャンは戦慄し、その場にくずおれた。彼の生き死には、もう既にこのパドゥクの手に完全に握られているのだ。ヨーロッパ人と同じ言葉を流暢に操り、上から下までヨーロッパ人の恰好をした、しかし神も主もその御言葉も仰がぬこの野蛮人に―。
「仕方がない。アリーシャ様の所まで戻りましょう」
「何だって・・・?」
ジャンは驚き、その青い目を見開いた。
「どうかやめてくれ。アリーシャの苦しむ姿を、私は見たくないのだ。頼む、パドゥク・・・」
「しかし生き残るには、それしか方法がありません。他に目印などあるわけでもなし」
パドゥクはそう言うと、もと来た方向へ戻り始めた。足首を幾度も砂に取られながら、ジャンはそのあとに続いた。暑さと恐怖から、彼の思考の力は完全に麻痺していた。彼はただ、パドゥクの言いなりになるよりほかなかったのだ。
夕刻近くになり、彼らは漸くアリーシャのところへ辿りついた。パドゥクが言った通り、アリーシャの全身の皮膚は既に火ぶくれのように爛れ、ところどころ黒い瘡に覆われていた。ヘーゼルナッツ色をした円い瞳も開くことはなく、厚く膨れて腫れ上がった瞼の下に埋もれていた。つい今朝がたまでの愛らしさはもう見る影もなく、彼女はじゅくじゅくとした体液の染み出す肉の塊と化していた。そして彼女の薄汚れた白いドレスも、今や彼女の体液のために、黄色と赤黒い色の混じり合った色に染まっていた。しかし何としたことであろう、彼女はまだ微かに息があった。その彼女の体の上に、地中から出た甲虫がたかり、爛れた皮膚を尖った口吻で突いていた。ジャンは思わず、痙攣したまま硬直し、空に向けられた彼女の腕を取った。それから彼は、彼女の体にたかる虫どもを払いにかかった。だがその彼を、パドゥクはただ冷ややかに見下ろすばかりであった。
「小隊長殿」
彼は言った。
「早く、今夜の野営地を決めましょう。その女は置いておきなさい。彼女の体は、夜には虫が貪り、朝には鳥が啄ばむでしょう。そうして全て、この地に還っていくのです。この乾いた灼熱の最中では、死体を焼く必要もない」
ジャンは最早、答えることすらできなかった。彼はパドゥクと共に、逃げるようにその場を離れた。
その日の夜であった。パドゥクが用意した寝具に包まりつつ、ジャンは酷く魘されていた。昼間見た光景―虫に覆われる赤黒いアリーシャの身体と彼の足を絡め取る熱砂、それからパドゥクの見せたぞっとするような笑み―が、彼の目の前に次々と陽炎のような幻影となって現れた。
「許してくれ!アリーシャ!」
突如彼は狂ったように叫び、がばと起き上がった。その彼の傍らに、木彫りのトーテムを握り締めて何かぶつぶつと唱えるパドゥクの姿があった。
「寝付かれないのですね」
彼はふと呪文をやめ、ジャンのほうへ振り返った。青白い月明かりの中で、酷く整った彼の顔、そして黒曜石のように輝く黒い瞳は、彼の持つ木彫りのトーテム像のように異様に見えた。ジャンは思わず立ち上がり、その場から走り去ろうとした。だが、彼は砂に足を取られ、ぶざまにももんどりうって倒れた。
「水が欲しいのでしょう」
パドゥクはそう言うと、傍らに生えていた奇妙な植物の枝を切った。枝からは樹液が染み出し、雫となって砂の上に落ちた。
「この樹液には栄養もありますよ。さあ」
パドゥクが差し出す枝を、ジャンは震えながら見た。枝を手に取ることすらできぬ彼を目の当たりにし、パドゥクはそれを自らの口にあてがって見せた。
「恐れることはございません。ほら、私が飲んでみせて差し上げましょう」
パドゥクは喉を鳴らして、樹液を飲んだ。その様子を見て、漸くジャンの震えは止まった。パドゥクは彼のために、もう一本枝を切ってやった。ジャンは貪るように、染み出す甘い樹液を吸った。そうして彼は、漸く束の間の浅い眠りに就いた。
ジャンの青白い面を見下ろしつつ、パドゥクは再び低い声で呪文を唱え始めた。聖なるトーテムが、彼を援けてくれることを祈りながら。




