第2章
ジャン・ブリンナーの手記
××月××日
昨日、あれから蛮族の奇襲があった。オッペンハイマーが奴らの槍に倒れて死んだ。我々はとうとう四人になった。医師がいなくなったことは不安だが、何とかこの場を乗り切るしかない。風土病に関しては、パドゥクが詳しいだろう。何とかこの場を切り抜けられると、神にかけて我々は信じるしかないのだ。
本隊とはぐれてから、ラズロは私に対して反抗的だ。彼は弾薬を持っていることを私に報告しなかった。蛮族との戦いで、初めてそれが露見した。こういう時こそ統率が取れていなければならないのに、彼は私に従おうとしない。何か悪いことが起こらなければよいが。
神よ、どうか我々を憐れみ給い、母なるヨーロッパへと導き給え。
「小隊長殿、大変です。ラズロ様が見当たりません」
朝食の準備を終えたパドゥクが、紙の上にペンを走らせるジャンの元へやって来て言った。
「先程まで私と一緒だったのですが。いつの間にか、突然いなくなられて・・・。何か危険なことに巻き込まれていなければよいのですが。小隊長殿は、アリーシャ様を連れてどこかへ避難なさったほうが・・・」
「いや」
ジャンは首を横に振った。
「ラズロのことだ。私に反抗して、単独行動を取っているのかもしれない。周囲に怪しい動きはあるか」
「いえ、私も先程から警戒してはいるのですが、今のところは何も・・・。蛮族が潜んでいるような気配もありませんし、この辺りには危険な獣もいないはずです」
「パドゥク、もう少しラズロを探してみてくれ」
「畏まりました」
パドゥクは一礼し、茂みの中へ消えた。しかし暫しの後、突然茂みの中へ分け入った彼の足音が途絶えた。
「どうした、パドゥク?」
ジャンは訝しげにそちらのほうを見た。パドゥクの返事はなかった。彼は立ち上がり、銃を構えると、自らパドゥクが向かった茂みへと足を向けた。
「パドゥク!おい、パドゥク!」
パドゥクの後姿を認めたジャンは、彼に声を掛けた。だが呆然と立ち竦んだままの彼は、何も答えることはなかった。ジャンは訝しみ、蒼褪めたパドゥクの視線の先を見遣った。そこでは、潅木の葉が、奇妙な具合に揺れていた。そしてその下では―。
ラズロが蛮族の娘を組み伏し、彼女の上で激しく腰を揺すっていた。彼女の腰巻は捲くれ上がり、そこだけ白い化粧を施さぬ褐色の内腿が露になっていた。ラズロは片手で娘の乳房を激しく揉みしだきつつ、もう片方の手で、娘の口を塞いでいた。涙を流す娘の顔の白い化粧は斑になっており、彼女の長い漆黒の髪は、地面に広がり縺れていた。その彼女の傍らでは、素焼きの甕が無残にも割れており、中から水が溢れていた。恐らく彼女は、近くの川に水を汲みに来たところをラズロに襲われたのだろう。
「やめろ!ラズロ!」
ジャンは思わず怒鳴った。彼に気付いたラズロは、その行為をやめて振り返った。蛮族の娘は泣き叫び、何事かを叫びながら茂みの奥へと去っていった。
「ちッ・・・。見てやがったのか」
ラズロは唾を吐き捨てながら言った。
「見逃してくれれば、おまえたちにもお裾分けしてやってよかったのに」
「・・・ラズロ!」
ジャンは憤り、ラズロの横面を殴った。地面に倒れ付したラズロは、彼独特の殺気を帯びた反抗的な眼差しでジャンをねめつけた。
「ふん、一人だけ聖人気取りか。だが俺は知ってるんだぜ。あんただって自分の愉しみに耽ってるんだ。ヨーロッパ女を犯したっていうんじゃない、蛮族の女一人犯したぐらい、何でもねえことじゃねえか」
「・・・私が何の愉しみに耽っているだと?一体おまえは、何のことを言っている?」
訝しげに眉根を寄せて問うジャンを前に、ラズロは立ち上がった。ラズロはジャンの面に自分の顔を寄せ、彼を睨みつけながら言った。
「とぼけるな。俺が何も知らんとでも思うのか」
そのままラズロは、足早に宿営地へと戻った。ジャンとパドゥクは顔を見合わせ、仕方なくそのあとに続いた。
朝食のあと、一行は再び、本隊の宿営地へ向けて歩き出した。歩く道すがら、ジャンとラズロ、そしてパドゥクも口を噤んだままであった。常ならぬ彼らの様子を訝しんだアリーシャは、とうとう意を決してジャンに小声で尋ねた。
「ジャン、一体何があったの?何故皆黙っているの?」
「アリーシャ」
ジャンは彼女の愛らしい円い瞳を見つめて言った。
「君は、何も知らないほうがいい。ただ、ラズロには気をつけるんだ。いいね」
アリーシャは訳がわからぬまま頷いた。案内人のパドゥクを先頭に、一行はジャングルを切り開き、道なき道を進んでいった。
事が起こったのはその日の夜であった。この過酷な気候のため、そしていつ危険が襲うやもしれぬ状況での緊張が続いたために、ジャンは極度の疲労状態にあった。本隊からはぐれてからというもの、彼にとっては眠れぬ夜が続いていたが、さすがにそうそう眠らずにいられるはずもなく、この夜、彼は久しぶりに深い眠りに落ちた。その間のことである。ジャンが寝入ったのを確認したラズロは、密かに起き出し床を出た。彼はそれから、パドゥクが設えたアリーシャの小屋のほうから、蝋燭の明かりが漏れているのを認めた。彼は足音を忍ばせて小屋に近づき、木の葉で作った扉の外に立った。
「・・・ジャンなの?」
か細い声で、アリーシャは声を掛けた。返事はなかった。訝しんだ彼女は、更に小屋の外の人影に向かって言った。
「ジャンなのね?どうぞ入って」
アリーシャが言い終わるが早いか、ラズロは小屋へ押し入った。彼は素早く彼女の後ろへ回り込み、その口元をきつく押さえた。身の危険を感じたアリーシャは、ありったけの力で手足をばたつかせて抵抗した。だがラズロの力は強く、彼女が小さな拳で叩こうがほっそりとした足で蹴ろうがびくともしない。ラズロが彼女を抑え込むのと同時に、木の葉と枝でできた簡素な小屋は、音もなく崩れた。そして、敷布に包まったジャンとパドゥクが目を覚ます気配はまるでなかった。
ラズロはそのまま、アリーシャを抱え、ジャングルの茂みへと姿を消した。彼らの姿がなくなった後、眠っていたはずのパドゥクがかっと目を見開いた。彼らが向かった茂みの方から聞こえるざわめきを耳にしながら、彼は首に掛けた木彫りのトーテムを取り出した。それは鳥の頭と人間の体に、一対の大きな羽根を持つ奇妙な像であった。青白い月の光を帯びたその像を握り締めつつ、パドゥクは小声で、彼の部族に伝わる祈りの言葉を唱えた。
―アール パラム ハト ロニアル。
―ンドゥ マラク エリ サハリィタ。
―我がトーテム、トゥクよ。どうか我に力を。
―我がトーテム、トゥクよ。どうか我に力を!
―アール パラム ハト ロニアル。
―ンドゥ マラク エリ サハリィタ。
今はもう誰にも分からぬ、太古の神々のみがその意味を理解する言葉を、パドゥクは延々と繰り返した。祈りを捧げる彼の黒い瞳は爛々と光り、月影を帯びて潤んでいた。彼の遥か前方、ラズロとアリーシャのいる辺りの茂みが激しく揺れ、傍らではジャンが寝息を立てていた。青白い月明かりの下で、パドゥクは笑みを浮かべた。その見る者の肌を粟立たせるような笑みを目にしたものは誰もなかった。
そうしたことを何も知らず、ジャンが目を覚ましたのは夜明けになってからのことである。ふと目覚めて意識を取り戻した彼は、すぐにまだ未明だというのにラズロの姿がないのに気付いた。胸騒ぎに襲われ、彼はアリーシャの小屋のほうを見遣った。小屋は跡形もなく崩れており、更に彼女の姿もなかった。
「パドゥク!パドゥク!」
ジャンは慌てて、隣で敷布に包まっていたパドゥクに声を掛けた。
「いかが致しましたか、小隊長殿」
パドゥクはすぐに、彼のほうへ向き直って答えた。
「アリーシャが・・・、いないんだ。ラズロも姿を消している」
「何ですって?一体どこに・・・」
パドゥクは立ち上がり、周辺を探す素振りを見せた。彼は暫くそうした後、傍らの茂みを指してジャンに言った。
「小隊長殿、あちらのほうを探してみましょう。この辺りにお二人はいらっしゃいますまい」
ジャンは頷き、銃を構えてパドゥクのあとに続いた。二人は茂みの中へ分け入った。野営地にほど近いそこに、果たしてラズロとアリーシャの姿があった。ラズロはいびきをかいて眠っていた。その傍らで、泣き腫らした眼のアリーシャが呆然と座り込んでいた。恐らく、一睡もしていないのであろう。彼女の顔には憔悴の色が浮かび、その腫れた眼の下は隈で黒ずんでいた。彼女は、その虚ろな眼をジャンとパドゥクのほうへ向けた。彼らの姿を認めた彼女は、蒼褪めた唇を震わせ、激しく頭を振りながら掠れた声で叫んだ。
「・・・来ないで!」
「アリーシャ・・・」
ジャンは腕を伸ばし、彼女のほうへ近づこうとした。が、彼女の口をついて出たのは、激しい拒絶の言葉だった。
「来ないで!私を一人にして!私を見ないで・・・」
アリーシャは縺れた髪で顔を隠して泣きじゃくりながら、乱れた着衣の胸元を手で押さえ、ドレスの裾の中へ傷ついた足を隠した。その裾は、乾いた赤い血に塗れていた。その様子を見て、ジャンは全てを悟った。今ここで彼らに気付くことすらなく眠っているラズロが彼女に何をしたのか、彼は一瞬にして悟ったのだ。ジャンの日に焼けた面から、みるみる血の気が失せていった。
その時である。ジャンとパドゥクの気配に気付いたのか、ラズロが目を覚ました。彼は自分を見下ろす二人の姿を認めると、おもむろに立ち上がった。
「ラズロ・・・。おまえはアリーシャに・・・、何ということを・・・」
ジャンはラズロの胸倉を掴み、殺気立った目で彼をねめつけた。
「ああ・・・。この女か」
ラズロはジャンの凄まじい怒りを目の当たりにし、たじたじとなって彼から目を逸らしながら言った。
「俺は、あんたが昨日の夜にこの女の小屋にしけこんでるところを見たんだ。てっきりこの女は、処女ではないものと思ってたんだ。本当だよ。それで俺は・・・」
「パドゥク・・・。アリーシャを連れて、野営地に戻れ」
ラズロから目を逸らさぬまま、低い声でジャンは命じた。パドゥクは一礼し、アリーシャを助け起こすと、彼女と共に野営地へ向かった。尚も泣き崩れる彼女に、彼は言った。
「アリーシャ様。何も、考えてはなりません。小隊長殿が、全てうまくいくよう取り計らって下さいます」
アリーシャはただ涙を流すばかりで、何も答えることはなかった。気まずい沈黙が、彼らの間を流れた。その時、ふと彼らの耳に、茂みがざわつく音が聞こえた。次いで銃声、それと同時にどうと人が倒れる音がした。彼らは思わず、そちらの方を見遣った。暫しの後、木の葉をざわめかせながら宿営地に姿を現したのは、ジャン一人だけであった。
「行こう」
ジャンは焦点の合わぬ目を異様に光らせ、額に汗を浮かべながら言った。まだ太陽は暗く、奇妙に肌寒い朝であった。ジャンはアリーシャに近づき、突如彼女の手を取った。
「やめて!私に触らないで!」
アリーシャは狂ったように叫び、暴れて彼に抵抗した。その彼女を半ば抱きすくめるように押さえ込みつつ、ジャンは叫んだ。
「いいから来るんだ!生きて必ず、ヨーロッパに戻るのだ!」
アリーシャの体から、力が抜けていった。彼女は長い髪に隠れた面を伏せ、彼に従った。パドゥクはいつものように彼らを先導し、ジャングルに道を切り開いた。彼らはただ、無言で進んだ。太陽が中天に差し掛かろうとしていた。この乾いた風と焼け付くような太陽の中で、彼らは何かに憑かれたように、ただ黙々と歩き続けた。




