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神の怒り  作者: 山野絢子
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第1章

 ジャン・ブリンナーの手記:

××月××日

 遂に我々は、アプゥドラ調査隊の本隊からはぐれた。水と食料は、十日分しかない。今ここにいるのは、小隊長である私、私の側近ラズロ・エルハイム、医師のフランク・オッペンハイマー氏、連隊長の娘であるアリーシャ・ドバルデュー殿、蛮族の案内人パドゥク、そして隊員のエンリケ・ホレンダーのみだ。

 このうち、エンリケ・ホレンダーは、先程突然昏倒し、目を剥いて泡を吹いたあとに死んだ。彼は今朝、何の前触れもなく高熱に襲われた。その後、彼の皮膚という皮膚は赤黒く腫れ上がり、あっという間に黒い瘡のようなものに覆われた。それから僅か数時間で、彼は激しく痙攣し、昏倒して死んだ。パドゥクは、これは蛮族の神の祟りによって齎された病だという。残りの仲間は、私を含めて五人となった。この灼熱地獄の中だ。一日も早く本隊の中継地点に辿り着けなければ、私たちの命はない。


 空気の乾いた、それでいてうだるように暑い日だった。手記を執るジャンを尻目に、ラズロとパドゥクは、黙々とエンリケの死体を焼くための薪を積んでいた。当初ヨーロッパ人たちはエンリケの死体を土に埋めるべきだと話していたが、パドゥクは神の怒りを鎮めるためには火による清めが必要だと言って譲らなかった。そのような蛮行は受け入れられないと言って、ジャンとラズロは彼に食って掛かったが、これ以上感染を広げぬためにはパドゥクの言う通りにすべきだという医師のオッペンハイマーの提言により、彼らは仕方なく、蛮族の野蛮な風習に則って死体を火葬に付すことにした。

 エンリケの突然の病死は、本隊からはぐれた彼らを酷く動揺させた。この病が一体どういう類のものなのか、医師のオッペンハイマーにすら皆目わからなかった。そのため彼は、酷く苦しみ、のたうち回る患者を前に、手を拱いて見ているより他なかった。一行の中で唯一この病の恐ろしさをよく知る蛮族のパドゥクは、恐怖のためか殆ど半狂乱の状態だった。

 パドゥクによると、これは蛮族どもがグマルと呼んでいる病気であった。恐らく、ここアプゥドラの風土病だろう。彼の話によると、グマルに罹った者が一人村に出ると、その村は壊滅すると言われていた。この病が流行るのは、悪霊の仕業とも、禁忌を犯したことによる神の怒りのせいだとも言われているということだった。

 パドゥクは苦心して、エンリケの死体を薪の上に乗せた。彼は穢れた死体に触れることを嫌ったが、他にこの嫌な役目を買って出る者などいようはずもなく、小隊長であるジャンの命により、彼は仕方なくこの忌まわしい職務を全うした。医師オッペンハイマーが、薪に火を放った。火はぱちぱちと燃え上がり、黒い煙を吐きながら死体を徐々に包んでいった。死体はやがて、黒い硬直した人型の塊となっていった。乾いた風の中でごうごうと音を立てつつ、火柱は空高く伸びた。

 その時である。並外れて目の良いパドゥクが、遠くに白い煙が見えるのを発見した。

「旦那方、こんなことしてる場合じゃありませんよ!」

 ヨーロッパ人かと紛うほどの流暢な言葉遣いで、彼は叫んだ。

「あそこです、あれをご覧下さい!あれは、近隣部族の狼煙です!」

 皆は一斉に目を凝らした。ぎらぎらと毒々しいほどに目に染みる空の青色の中に、白い煙が細く微かに揺らめいていた。

「蛮族の狼煙?ふん、随分遠くじゃねえか」

 舌打ちをしながら、ラズロがひとりごちた。だがパドゥクは焦燥の色を面に浮かべ、冷たい汗を額に滲ませながら叫んだ。

「早く!奴らの足は速いです。あの程度の距離なんて、それはもう一瞬で・・・」

「ここはパドゥクに従おう。彼が我々の案内人だ」

 ジャンは言った。ラズロはまたも舌打ちした。皆はエンリケの死体をそのままにして、急いでその場から離れる準備をした。

「準備なんてしている場合ではありませんよ!」

 パドゥクは叫んだ。

「早く!早く!奴らの足の速さときたら、それはもう・・・」

「しかし水と食料が!」

 ジャンはそう叫ぶと、ラズロにそれらを背負うよう命じた。ラズロはぶつぶつと小言を言いながら、背嚢を背負い、茂みの中に走り去ろうとするパドゥクに続いた。次いでオッペンハイマーがその後に続くのを見届け、ジャンはアリーシャの元へ駆け寄った。

「アリーシャ殿、私の背に!」

 ジャンは言った。

「ここからは、貴方のか弱い足では進むことなどできますまい」

「小隊長殿」

 ジャンの背に乗ったアリーシャは、その耳元にそっと囁いた。

「きっと、すぐにお父様が助けに来て下さるわ。大丈夫よ。じきにヨーロッパに帰れます」

 ジャンは頷き、すぐに仲間を追った。彼らはジャングルの潅木の茂みに身を隠し、外の様子を伺った。果たしてパドゥクが言った通り、彼らが死体を焼いていた更地の周辺は、間もなく熊の毛皮を頭から被った蛮族の戦士たちで埋め尽くされた。皮膚を覆う白い戦闘化粧のためか、彼らは皆一様に、黄泉の亡者を思わせた。彼らが腕や足に嵌めた、動物の骨でできた呪具がかち合った。そして彼らの翳す長い槍の鏃は、ぎらぎらと照りつける太陽の光を反射し、不気味な白い光を放っていた。

「おっかねえな」

 ラズロが身震いしながら呟いた。

「パドゥク、おまえも蛮族の仲間だろう。言って話をつけてきてくれ」

「それが出来れば、もうとっくにやってますよ」

 部族の化粧も施さず、彼らのトーテムである熊の毛皮も被らず、ブラウスにダブレット、そして身体にぴったりしたズボンに皮のブーツという、すっかりヨーロッパ人らしい出で立ちをしたパドゥクは肩を竦めた。彼は声を潜めつつ言った。

「私は、部族の禁忌を犯して村を追われた身です。見つかれば、すぐに殺されてしまうでしょう」

「禁忌を犯したって、何やったんだ?族長の女とやったのか」

「静かに!奴らに見つかってしまう」

 パドゥクがラズロを制した。が、蛮族は彼らが見せた僅かな気配をも見逃さなかった。戦士の一人が、彼らの言葉で何がしか叫びながら、こちらへ槍を投げてきた。微かな呻きとともに、オッペンハイマーがくずおれた。

「オッペンハイマー!」

 ジャンは叫んだ。長い槍が、潅木の茂みに身を潜めていたはずのオッペンハイマーの胸を貫通していた。彼は更に呻き声を上げたのち、目を開けたまま息絶えた。

「蛮族どもめ・・・」

 ジャンは呟くと、パドゥクのほうを振り返った。

「パドゥク!残りの弾はあと何発ある?」

「百発ばかりです、旦那!」

 ジャンは頷いた。彼は急いで、オッペンハイマーの首からロザリオを引き千切った。次いで彼は、オッペンハイマーの黒い僧服の隠しを探り、遺品となる物を探した。そこには小さな、聖書の古写本が入っていた。彼はそれらを自分の上着の隠しに押し込むと、腰に下げた銃を構えた。彼の銃は火を吹き、こちらへ目を凝らしていた蛮族の戦士の胸に当たった。蛮族の男は槍を取り落とし、乾いた地に倒れ臥した。砂煙が、その体を包んだ。

 それと同時に、蛮族たちが鬨の声を上げてこちらへ向かってきた。戦士たちの後方で、女たちが戦の歌を歌いながら蛮族の呪いを掛けていた。蛮族は何人いるだろう?男だけで三十人ほどか。ジャンは再び矢を弓に番え、パドゥクにアリーシャを託しつつ叫んだ。

「逃げろ、早く!退却だ!ラズロは私と共に弓を取って応戦を!」

「了解しました、旦那!安全な道はこちらです!」

 パドゥクは言うと、アリーシャを支えながら更に深い茂みに分け入っていった。ラズロは舌打ちしながら、弓を構えて蛮族どものほうへ銃を放った。

「だめだ、埒が明かない!」

 ラズロは叫び、背嚢の中から弾薬を取り出した。彼はそれに火を点けると、蛮族の群れに向けて力いっぱい投げ放った。弾薬は更地のど真ん中で爆発した。燃え尽きつつあったエンリケの死体と共に、幾人かの蛮族が、千切れた赤黒い肉塊と化して宙を舞った。

「早く、奴らが驚いている間に!」

 ラズロは叫ぶと、茂みの中に走り去った。ジャンはちらとオッペンハイマーの死体を振り返った。彼はその上で十字の印を切ると、慌ててラズロのあとに続いた。

 何とか蛮族を振り切った一行は、ジャングルの外れに到着した。彼らはそこを、今夜の野営地に決めた。アリーシャのテントは、先程の蛮族どもの奇襲の際に失われてしまっていた。パドゥクは彼女のために、彼の部族のやり方に従い、木の葉と枝で簡単な小屋を作った。

「やれやれ、やっと休めるというものだ」

 ラズロは舌打ちしながら、早速寝袋を広げ始めた。その彼のほうへおもむろに近づいたジャンは、低い声で彼を問い質した。

「おまえ、弾薬をどこへ隠していた?私には、弾薬はもうないと報告していた筈だが」

「ああ・・・、あんな物、報告するまでもないことでさあ」

 ラズロはふんと鼻を鳴らして答えると、毛むくじゃらの眉を顰めてジャンを見据えた。その目には、反抗の色がありありと浮かんでいた。憤ったジャンは、彼の胸倉を激しく掴んで叫んだ。

「装備や備品、殊に武器に関しては、必ず残りの数を正しく私に報告せよと言ってある筈だ。隊長は私だ。何故私に従わぬ?」

「隊長だとよ!」

 ラズロは黄ばんだ歯と黒ずんだ歯茎を見せて嗤った。

「四人しかいなくて、何が隊長だ。こうなったらもう、隊長も子分もあるもんかい」

「・・・今一度聞く。弾薬は、あと何個だ」

「あれが最後でさ、隊長殿。嘘は言わねえ。誓って本当でさ」

 何も言い返せぬまま、ジャンはラズロのシャツを掴んでいた手を離した。彼は自分の寝具を広げると、そのままそこへ横になった。だが、束の間の眠りを貪ろうとする彼を、突如低い歌うような声が遮った。

 ―アール パラム ハト ロニアル。

 ―ンドゥ マラク エリ サハリィタ。

「・・・一体何だ?」

 やはり寝具の中に丸まっていたラズロが、不機嫌そうに声を上げた。それと同時に、歌うような声が止まった。火の番をしていた蛮族のパドゥクが、驚いたようにそちらを見遣った。彼の手には、首に掛けた木彫りのトーテムが握られていた。

「すみません、旦那」

 パドゥクはラズロに頭を下げた。

「でも、グマルで死んだ者が出ると、必ず祈りを捧げなければならないのです。そうして神の怒りを鎮めぬことには、いつまた犠牲者が出るやもしれません」

「おまえのその気味の悪い呪文で、こっちは眠れやしねえんだよ、この野蛮人め!」

 ラズロはパドゥクに向けて唾を吐いた。

「よせ、ラズロ」

 ジャンはラズロを睨みつけた。

「やりたいようにやらせてやれ。彼は彼なりに、任務を全うすることを考えているのだ」

 ラズロは舌打ちすると、身体をジャンとは反対側のほうへ向けた。

 パドゥクの唱える低い呪文を聞きながら、ジャンは眠りに就こうとした。が、彼はふと、アリーシャの小屋の内側から、木の葉を透かして蝋燭の光が漏れているのに気付いた。彼は起き上がると、小屋のほうへと向かった。

「アリーシャ殿」

 ジャンは小屋の外から声をかけた。

「小隊長殿ね。お入り下さい」

 か細い声で、アリーシャは応えた。ジャンは入り口の木の葉を持ち上げ、小さな小屋の中へ入った。そこには、蝋燭を前に祈るアリーシャの姿があった。蝋燭の光に照らされた彼女の長い金色の髪、透けるように白い肌、ヘーゼルナッツ色の瞳は、この過酷なアプゥドラの地にあって、まるで天使のそれのようにジャンの目には映った。

「小隊長殿、はお止め下さい。ジャンと」

「では・・・、ジャン殿」

 アリーシャは薄汚れたドレスの裾を直しつつ、はにかみながら答えた。彼女の愛らしい仕草を見ると、ジャンは覚えず胸が高鳴るのを感じた。

「アリーシャ殿、眠れないのですね」

「アリーシャで結構ですわ」

 アリーシャは微笑んだ。ジャンは彼女に、微笑みを返してみせた。彼は嘆息して言った。

「私も、眠れないのです。一日も早く、貴方を安全なヨーロッパにお連れしなければならないのに、自分の無力を嘆くばかりです」

「ジャン、どうか悲しまないで」

 アリーシャは彼の手を取った。そのほっそりと小さな手の感触は、ジャンの心に言い知れぬ衝撃を沸き起こした。

「本当のことを言うと、私は早くヨーロッパに帰りたいと思う一方で、いつまでも貴方とこうして旅を続けていたいという思いに囚われているのです。それで私は夜も眠れず、主に祈っておりました。・・・私は、罪深い女でしょうか」

「いや・・・」

ジャンは首を横に振った。

「正直なところを申し上げると、私も同じことを考えていた・・・」

 彼はそっと、アリーシャの柔らかな頬に手を伸ばした。アリーシャは彼の手を取った。二人は目を見交わした。だが、彼女はすぐに彼から目を逸らした。彼は跪き、ゆっくりと彼女の小さな唇に接吻した。

「もう行って」

 アリーシャはジャンのほうを見ずに、だが彼の手を握り締めたまま懇願した。彼はその手にそっと自分の唇を押し当てると、小屋の外へ出ていった。

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