第八話 ムーン・チャイルド
月夜はいつも、罪深い人間に対しても優しい。
暗黒の空に希望のごとく浮かぶ蒼い月明かりはひどく柔らかい。人間の罪を知っていながら、何も語らない。ただずっと、人間の業を観察している。優しさは常に――残酷なのだ。
(……なんて、思い耽ってる場合じゃないわね)
シェラは月を見上げ思わず感傷的になった自分を恥じる。
これから彼女は罪を犯そうとしていた。無論、捕まったらただでは済まない。しかし彼女にとってそれは大した問題ではない。問題は、だ。
(何なの……これは!?)
眼前にあるのはただの鉄門。
しかし問題はその前に並ぶ人影の数。たかが貴族の屋敷の門に六人も警衛が立っている。
そう、ここはアルベール公爵邸の庭に通じる鉄門の前。シェラは民家の影に隠れながら一歩も動けずにいた。彼女は屋敷に侵入しようと企んでいたのだ。
(いくらなんでも、過剰な警備でしょ! いっそ、猥褻物陳列罪で訴えるわよ!)
的外れな罪状など思いつきながら毒づく。
一人や二人なら今すぐ飛び出して悲鳴を上げる前に叩き伏せられる。
だが、流石に六人はつらい。倒すのは出来たとしても、一人でも逃したら彼女の存在を知られてしまうからだ。そんなことになれば、奴が逃げてしまうかもしれない。
(やっぱり平和的に、昼間に訪問しようかしら?)
却下、それはできない。
それこそ彼女の存在を知らせてしまう可能性がある。だからこそ危険を冒してまで侵入を決めた。
(何を臆するの。あたしは"処刑部隊"の一員。相手は魔術師でもない素人よ)
彼女は自分の所属を思い出した。
あの地獄のような日々はこんなところで燻っているために培ったのか――いや、ちがう。
そう思ったときには飛び出していた。
手には短刀を一振り。
淡い燐光を放ち、蒼い軌跡を描く。
「……おい、なんだあれは?」
「蒼い、月?」
暗がりに浮かぶ短刀の光を訝しげに指差す兵士。
孤月を成す短刀の刃は三日月に見えなくもない。しかしこの月の光は希望の光――邪悪を滅ぼすための光。本来なら魔術師だけに使われる力だが、今はそんなことも言ってられない。
「一人!」
シェラは叫び、短刀の光を呆けたように見つめていた兵士の頬を遠慮なく殴り飛ばす。
斬りつける必要は無い。殺す必要はなかった。意識を奪い暫く眠ってもらえばいい。だが、できるだろうか――この数を相手に手加減している余裕が?
(考えてる暇はないっ)
少女の襲撃に気付いた兵士たちが慌てて身構える。
殴りつけたほうの兵士が倒れるのを確認して、決然とした瞳が二人目の獲物を探す。
「なんのつもりだ!」
怒鳴りながらも、兵士は棍棒を手に襲いかかってくる。
棒に革を巻いた程度の粗末な代物だが、本気で殴れば骨を折ることもできる。つまり、油断はできない。
「二人!」
棍棒の一撃を身を屈んで避けるとそのまま足払いする。
無様に転がった兵士の腹を思いっ切り踏みつけ、飛翔。月夜を背景に飛んでいる少女の姿はどこか、幻想的ですらあったかも知れない――だが、兵士たちはそれに見惚れているほど馬鹿ではなかった。
「この女ぁぁあ」
空を裂き落ちる影。
着地したまま、無防備なシェラの頭上に棍棒が流星の如く降り注ぐ。
「三人!」
それは誘いだった。
突っ込んできた兵士の棍棒を短刀で受け流し、下腹に蹴りを入れる。
「四人!」
激痛に沈みゆく兵士の棍棒を掴んで奪うと、別の兵士の顔面に投げ飛ばす。
ぐしゃり。
厭な感触と手応えが音から伝わる。鼻を潰され顔面に派手な血化粧をした兵士はうずくまった。
(もう少し――もう少しでいける!)
口の端がつり上がるのを自制できない。歓びでも恐怖でもない。戦いの中では不思議な快感が脳を浸す。戦いは嫌いだ。それなのに、その快感だけは否定できない。
「……ちぃ」
次の標的を選ぼうと視線を這わすが、数が足りないのに気付く。
一人の兵士が屋敷へと助けを求めて走っている姿が見えた。行かせてはいけない――ここまでやってきたことが全て無駄になってしまう。
「この先には入らせんぞ」
一際大きな体格の兵士が道をふさぐ。
だが何も考えず突進した。体格が大きかろうが小さかろうが関係ない。敵でしかなくなった相手はもう、叩き潰す以外の道はないのだ。それが彼女の生き方。望まずとも――運命はそれを課した。
「かはっ――!?」
明滅する世界。
重い衝撃が背骨で爆発した。
倒したと思った兵士がしぶとく立ち上がり、無防備な背に棍棒を打ち付けてきたらしい。鈍い痛みとともに、肺から勝手に漏れ出す空気が恨めしく思えた。彼女は地面に倒れる。
「なんて女だ……もっと痛めつけないと、また暴れるぞ!」
正義の私刑。
それが合図というわけか、倒れ込んだ彼女に容赦ない暴力が打ち下ろされてくる。
しかし、兵士たちの棍棒は一様に地面を叩き、乾いた打撃音が虚しく残る。
「――恨みはないけれど」
凛とした声。
一瞬の静寂に響く。
「死んでもらう」
それは、冷ややかな、死刑宣告。
(私は殺す手段しか知らない――邪魔するのなら殺してでも。手加減する必要は、もう、ない)
そこに初めから在ったように。
シェラは一瞬の隙に体格の大きい兵士の背後に回り込んでいた。そして青白く光る短刀の刃を首筋に突き立てている。たった少し力を込めるだけで人生に終止符を打てた。
「ひっ!?」
脅える男。
仲間の危機にうろたえる兵士。
必殺の短刀を突き立てた暗殺者。
凍てつく暫時。
何も起こらない。
予告どおり殺人を予期して固まった兵士たちだったが――シェラは短刀をぴくりとも動かさなかった。
「くっ……」
眦を歪め、歯噛みする。
殺せない。
魔術師ではない彼らを、殺せない。
(私を止めるつもりで攻撃してきたとしても、その武器は何?)
声にならぬ悲鳴。
(ただの……革を巻いた、ただの棍棒よ。鋭利な剣でもなければ、呪いの魔法でもない。彼らは職務をまっとうしただけ。その人たちを、殺せるの? 彼らの――家族の憎しみを、受け入れる覚悟はある?)
激しい自問自答だった。
それでも。
それでも対照的に、月夜の下では奇妙に静かな時が流れている。誰もが動けず、彫像のように佇立する。
「――――!!」
赤、黒、白。
何もかも、全てが弾けた。
視界がちらちらと明滅し、夢でも見ているかのように揺れ出した。全身を繋いでいた鎖が解けるようにして、意思さえ剥離するまま、シェラは力なくその場に倒れ込む。
何故。
薄れ行く意識の中、ぼんやりと浮かぶ言葉――兵士だ。応援の兵士が駆けつけ、そっと背後に忍び寄って彼女の頭を打ったのだろう。
いや、それは考えなくてもわかっていた。
結果は敗北。
自分は魔術師ではない人間に負けた。その彼らを恐れさせる魔法を打ち破る力がありながら、勝てなかった。それは何故?
甘さ。
絶望するように光を失って落ちている短刀を見ながら、その答えが浮かんだ。