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第七話 ブラック・ウッド



 深く、遠く、暗く。


 青く広がる空も、背の高い木々の隙間の向こうに遠く感じる。


 手付かずの草木が鬱蒼としていて、昼間だというのに薄暗い、郊外にある森林の中。


「これだ――これこそ私の求めていたもの」


 銀髪碧眼の青年が打ち震えていた。


 そこは彼の私有地であり、街の人間がうっかりと入ってしまう心配はなかった。つまり、秘め事を隠すには丁度良い場所だった。

「ご満足して頂けたかな? アルベール公爵様」

 おどけるようにして言ったのは彼の傍らにいる少年。


 緑溢れる森の中では浮いた、赤い癖のある髪。彼の青い瞳の中に青年――アルベールの姿は映っておらず、森の深遠を映すかのように暗い。


「ああ、大満足だよ。礼として、君の望みのものを何でも手配しよう」


 アルベールは笑顔を浮かべて言った。


 貴族の矜持も感じさせない、悪戯を思いついた少年のような無邪気な笑み。


「何もいらないさ。僕はただ、世界を救いたいだけ……」


 少年は独白のように呟く。


 彼の意図はアルベールも知らない。だがそんなものはどうでもよかった。今や彼は、武者震いを隠せないほどの感情に襲われていたのだから。


(この感情はなんと表せばよいのだろう)


 感動、感激、快感。

 学院で多くの言葉や知識を吸収したが、的確な表現が見つからない。


「すぐだ、すぐに始めよう。奴らに悟られる前に」


 準備はすでに整っている。


 よくない噂が広がっていることは承知していたが、だからこそ急がなければならなかった。そう、目的のものは手に入れたのだ。もうこの退屈で窮屈な街に閉じこもっている道理はない。


 小枝を踏み抜く乾いた耳障りな音。


 はっとして回想から現実に戻され、アルベールはその音がしたほうへ振り向く。


「ちっ、ぬかったわ」


「お、お前は――ジャッカル!?」


 アルベールは整った容姿が歪むのも構わず、狼狽した。


 それもそう。


 草むらから飛び出して現れたのは、黒の長外套を身に纏う男。帝国の特使である魔術師であったからだ。フィンツの監視のために遣された忌まわしい存在。


 かなり不味いことになった――アルベールは舌打ちする。


「貴様の動向がきな臭いと調べておれば、やはりそういうことであったか」


 頭巾の下に隠された表情は読めない。


 だがその黒い空洞に、獲物を前にした獣のような獰猛な光があるのを嫌というほど肌に感じる。


「へぇ、気付かなかったな。こそこそと嗅ぎ回るのが得意なんだね、おじさん」


 まるでそれでは挑発ではないか。


 魔術師をも恐れぬ少年の言葉にアルベールは愕然とした。


「小僧!」


 魔術師は少年に指を突き立てる。


「よく聞け、俺はそこの貴族より若い! せめてお兄さんと呼べっ」


「……そうなんだ」


「…………」


 沈黙。


 少年とアルベールの白々しい空気に気付いたのか、ジャッカルは改めて口を開き静寂を打ち破った。


「そ、そんなことはどうでもいいのだ! 俺は全部見ていたぞ、帝国やスクラドの連中がこれを知ったらどうなるかな?」


 脅迫のつもりなのだろうか。


 しかし交渉するつもりなどあるまい。奴は所詮、帝国の犬。見たこと全てを暴露する気でいる。


「かくなる上は!」


 アルベールは懐から護身用の短剣を取り出した。


 頼りない、短い刃物。正直こんなものでどうにかできるとは思えないが、奴を逃がすわけにはいかない。今まで築いた全てを――手にした希望を失ってしまう。その思いが彼を駆り立てていた。


「ほう、俺と戦うつもりか? ふん、最近は魔術師を舐めている奴が多いな……我らの究極の力、その体に刻んで覚えさせてやろう!」


 言うや否や、ジャッカルは呪文を詠唱する。


 それは、早口で何かをさえずっているような――ゆっくりと子守唄を歌うような、魔力を持たない人間には理解することの出来ない、魔界の言葉。抗う術の無い絶対の力。


「《蝕む毒の(デナ・ヴェラム・スノー)》」


 紡がれていた魔力が解放された。


 魔力の波動に空間が震え、脅えるように木々さえもざわめく。渦巻いた風が黒き奔流となって迫り来る。


 アルベールは思い出していた。


 あれは以前にも見たことがある。奴――ジャッカルが街に来たばかりの頃、彼の機嫌を損ねた人間がその黒い風に包まれてしまったのだ。魔界の毒素が体を蝕み、被害者は精神を崩壊させた。死にはしなかったが、自己を見失い奇天烈な言動を繰り返す姿は哀れで、惨めだった。


 貴族にとっては、死より残酷な仕打ちだろう。


「終わりか――」


 眼前に迫る暗黒に、アルベールは自分の最期を悟った。


 恐怖より落胆の思いが押し寄せる。


 もう少しで夢を実現出来たというのに。本当に、あと少しだった。


「借りるよ」


 突然、手にしていた短剣をもぎ取られる。


 見ると少年が短剣を掲げて突進していた。あの、黒き邪悪の奔流へと向かって。


(私を庇って犠牲になるつもりか――!?)


 しかし、何故あの短剣を。


 そう思って見ると短剣の刃がうっすらと青く輝いている。それが何かまでは分からない。


「何をした! 貴様らは一体何者だ!」


 魔術師が絶叫している。


 驚くべきことに、少年は平然としていた。何故なら彼は、あの短剣を振り払って魔法を打ち消してしまったのだ。黒い風は空気中に溶けるようにして霧散した。


「彼女と会ったんだね。まあ、帝国の人間でも知らないのが当然なんだ。おじさんも……知らないでいるほうがいい」


 不遜な呟きはまるで、秘密を愉しむように。


 只者ではないと思っていたが、やはり予想以上に危険な少年だ――アルベールは固くなった唾を飲み込む。


(しかし、彼のおかげであれが手に入ったのだ。いらぬ詮索は無用か)


 そう心中で呟き、アルベールは視線を移した。


 すでに硬直した肢体。


 樹の下に横たわる野兎が一羽、死んでいる。そう、ただ死んでいるだけだ。だがその死には世界を変えるほどの大いなる意味が込められていた。




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