第三三話 ドラゴン・ファイア
「たった一声でこの世界を終わらせることができる」
ザラスシュトラの残酷な声が響く。
まさか、有り得ない。そう笑い飛ばしたかった。
だが、それはできない。彼は魔法を極めし魔人――残念ながら有り得ないことではなかった。それに、彼の体内から溢れ出る邪悪な魔力を見ればわかる。
明らかに他の魔術師とは違う、赤い光。悪魔の翼を広げるがごとく、竜の炎の息吹のごとく、両肩から立ち昇るあの光。
あれは、自分たち暗殺者にしか視えないものだ。
魔力だとか霊力だとか呼ばれる、本来なら不可視の粒子。あらゆる人体実験の末、血液に聖水と呼ばれる青い液体を混じらせることでそれらが見えるようになるとわかった。
聖水の成分? そんなのは知らない。
竜の爪だとか、幻の花の根だとか、そんな胡散臭い代物を蒸留したものだと聞いたが、そんなものに興味はない。
ともかく、そいつのおかげで体はおかしくなった。聖水と同じ物質が血液と一緒に作られるようになったのだ。元々、人間にはなかったもの――副作用で被験者が大量に死んだ。自分はその一握りの生き残りに過ぎない。
そう、猛毒なのだ。
毒を以って毒を制す、なんて言葉を聞いたことがあるが、まさしくそうだ。魔法という毒に対する毒。
魔法が放たれた時、その魔法を構成する鎖が自分たちには見える。そして、それを断ち切れば魔法を無効化することが可能となる。
注意するべきなのは、素手では断ち切れないということ。
媒体となるのは剣でも短刀でも槍でもいい。意思を込めれば握り締めた武器に青い光が宿る。原理はよくわかってない――思念の波動が聖水の霊力で具現化されるだかなんだか――が、これによって本来なら物質の干渉できない魔法の光を切り裂くことができる。
その結果、魔術師を唯一、殺すことの出来る存在として処刑部隊が結成された。
魔術師の反感を恐れて、帝国でも上層部の一部しか知られていない極秘の組織。帝国の影で静かに任務をこなす日々。
それが、いつまでも続くものだと信じて疑わなかった。
(いったい、どうしてこんなことになってしまったんだ?)
彼――黒装束のラクシウスは心中で悲痛な叫び声を上げた。
カインがまさか、皇帝の兄ツァラトゥストラと繋がっていたとは気付かなかった。計画を利用して謀反を企んでいたなどと、まさか思うまい。おかげで巻き込まれてしまった。
そうだ。自分には関係ないはず。謁見は辞退していれば良かった。
シェラを思い出す。彼女を逃がしたのは正解だった。こんな状況に巻き込まれたらそれこそ本当に気が狂ってしまうだろう。だが。
(世界が破滅したら何もかも終わりじゃないか)
この場所にいるかいないか、関係ない。
あまりにも理不尽で非現実。一言叫ぶだけで世界は崩壊する。魔法に対抗する技も、魔法を超える力も、関係ない。魔法はやはり邪悪な力だった。今更ながら恐ろしくなる。
(ああ……せめて最後なら、君と一緒に……)
ラクシウスは愛しの君に思いを馳せた。
今からでも遅くないかも知れない。どうせ世界が終わるのなら、ここから逃げ出して彼女を探したほうがいい。
「茶番は終わりだ。反逆者どもを始末しろ」
ザラスシュトラは魔術師たちに命じた。
我に返る。どうやら反逆者に自分も含まれているらしい。魔術師たちが自分やカインに向けて魔力を練り上げるのがわかる。
「わ、私は違う! 何も知らなかったんだ!」
ラクシウスは必死になって叫ぶ。
「無駄さ。皆殺しにするつもりだろう。死にたくなかったら協力するんだ」
カインが言った。
この裏切り者め! ラクシウスは彼を呪う。
「これを使え!」
ツァラトゥストラが新しい短刀を投げた。
(冗談じゃない……これじゃあ本当に反逆者にされてしまう!)
しぶしぶ受け取るも、皇帝の兄さえ呪うラクシウス。そんな彼にさらに追い討ちがかけられる。
「ラクシウス。そいつらを始末したら生かしてやるぞ」
聞きたくなかったザラスシュトラの言葉。
いっそ、世界を滅ぼす呪文を唱えてくれたほうがましだったかも知れない。
(よく考えろ、ラクシウス。どっちに味方するのが利巧だ?)
迷っている暇はあまりにも少ない。
皇帝陛下の護衛魔術師、総勢九人――いや、ザラスシュトラを除けば八人――の魔法がこちらを狙っている。しかし彼らを倒せたとして、皇帝が破滅の呪文を唱えれば全て終わる。
矛盾。
どちらを選択しても命はない。いや……まだ選択はあった。
「暗殺者同士で戦わなければならないとは皮肉だな」
簡単なことだ。
カインを相手にしている間は魔術師たちも手を出さないだろう。何故なら、魔術師とて下手に動けないのだ。魔術師たちはザラスシュトラに忠実であるはず。
「それは愚かな選択だ、ラクシウス。奴がお前を生かしておく保障などない」
ツァラトゥストラは冷たく言い放つ。
だが、もう惑わされない。すでに決心は着いていた。
「カイン……正直、君は目障りな存在だった」
「だめだ、ラクシウス。後悔するぞ」
敵と間合いを取る。
間合いは大事だ――とくに自分の場合は絶対だった。
そもそも隊長になることが出来たのも、間合いを支配するこの秘技を編み出したおかげである。刃向かう者はこの技で葬ってきた。
一歩踏み出す。たったそれだけでいい。
「っ!!」
どんな人間にも、死角となる絶対的な空白時間がある。
それは、瞬きだ。そのまさしく一瞬の隙に間合いを詰めてしまえば敵は何も出来ない。
言うのは簡単だが、極めるのは至難の業だ。瞬きをした瞬間に踏み出しても意味がない。相手の呼吸を読み、完全なタイミングを得なければならない。
「まったく……初めからこれを狙ってたんだな? カイン」
「そのとーり」
おどけるようにして言う少年。
短刀の刃は敵の喉を掻き切っていた。
だがそれは対峙していたカインではない。その後ろにいた、世界を滅ぼそうなどと愚かなことを考えた魔帝ザラスシュトラ――討たねばならなかったのは彼しかいない。
「がっ……がふっ」
驚愕に見開いた眼が、怒りに満ち溢れた眼光がラクシウスを呪う。
だが最強の魔術師はもはや毒づくことも死の呪文を唱えることもできない。激しい鮮血が、情けない音とともに喉から漏れるだけだ。
護衛の魔術師たちは一瞬の出来事に動揺を隠せず、魔法を放つことはなかった。
調教された忠実な僕は主の命令を待つことしかできない――もっとも、混乱して魔法を使ってきたとしても、カインと自分で対処してしまえばいいだけのこと。生き残れるかどうかは別として。
(私が選ぶのは皇帝でもカインたちでもない。愛しの君――そう、シェラを救う方法を選択する。それを君は計算していたんだろう、カイン)
一番恐ろしいのは彼かも知れない。
ここで起きる全てを計算し、自分だけでなく魔帝をも手の平で躍らせてしまった。本当に末恐ろしい少年だ……。
「って、私のシェラへの想いも、彼女が生きていることも知ってたのか!」
「さぁて、何のことかな? そうだったの? ふーん」
憎たらしい。やっぱり殺せばよかった。
「何をやっている! 奴はまだ死んでない!」
ツァラトゥストラの怒鳴り声にはっとする。
思わず舌打ちする。そうだ、肝心なことを忘れていた。魔人ザラスシュトラ。彼は呪文の発動に詠唱を必要としない――背後で膨れ上がる圧倒的な魔力にもはや手遅れだと気付いた。