第三十話 チキン・ナイフ
空気が重い。
いかにも重厚な鋼鉄の扉はその存在だけで重圧を感じさせる。
だが、それは扉のそれだけによるものではないと知っていた。この先に広がっているのは未知の領域。未知は人を必要以上に畏れさせる。躊躇わせる。屈服させる。
「ラクシウス、姉さんは?」
「彼女は正常ではなかった。ひどく混乱していたよ。身に危険が及んだので片付けた。すまない」
カインは嘆息する。
帝国首都ティルナノーグに帰還した彼は、王宮の謁見の間を前に立ち尽くしていた。
この先に皇帝、ザラスシュトラがいる――そう考えると全身が粟立つように戦慄する。隣に立っている黒ずくめの装束を着た男、ラクシウスの平謝りに怒りも湧き上がらないほどに。
(いや、それは別の理由だ。彼は嘘をついている。姉さんは生きてる)
それはラクシウスの瞳を見なくてもわかることだった。
彼に姉は殺せない――殺せるはずがない。だから姉は生きている。
「……失礼。武器がないか調べさせてもらう」
魔術師がカインやラクシウスの身体を検査する。
彼らの周りには五人の魔術師が取り巻くように立っていた。魔術師の中でも選りすぐりの優秀な人材から構成された皇帝の側近。まだ扉の向こうにも何人かいるだろう。それはカインも知らない、未知の情報だった。
「何度やっても同じだと思うんだがな」
今度はラクシウスが嘆息した。
帝都に着いてから三度目の検査に流石に辟易したのだろう。それも詮無いことだった。
皇帝は用心深い――今回の謁見が許されたのも件の計略がうまくいったおかげである。カインはまだ皇帝ザラスシュトラに直接、面したことはない。皇帝は宮殿に閉じこもり側近以外に顔を見せることは殆どなかった。
「陛下の許しが出た。扉を開けるぞ」
魔術師の一人が言った。
扉の施錠が外される音がする。いよいよだ。この日をどんなに待ちわびたことか。
長く、辛い日々だった――とくにこの数日間は。結果的に姉を裏切る形になったことが一番辛かった。だがそれも全て姉を思えばこそのこと。彼女を守るために随分と手を汚してしまった。
「妙な動きを見せたら、わかってるな」
ぼそりと魔術師が呟く。
警告だろう。彼らは忠実な皇帝の僕。皇帝を守るためならどんなことでもするだろう。例え、世界が滅ぼうとしても。
(さあ、運命の舞踏を始めようじゃないか)
カインの表情は何も変わらない。
だがその心中では激しい感情が渦巻いている。荒れ狂う大海原のようであり、灼熱の溶岩のようでもある、筆舌に尽くしがたい感情が。それに共鳴し応えるがごとく、扉が激しく軋んで厳かに開いていく。
――遠い。
ついに開放された謁見の間は果てしなく遠かった。
実際にはそこまで広いわけではないだろうが、カインはそう感じていた。
扉のすぐ隣に、思っていたとおり別の側近が四人いた。合わせて九人の最強の護衛が自分たちを取り囲んでいる。
そして、部屋の最果てに人影が伺える。
砂色の長髪を油で固め、魔界の空を映す紫の瞳をもつ男。黄金の鎧に身を包み同色の玉座に座す人物。あれこそ、大陸を、世界を手中に収める絶対支配者――魔帝ザラスシュトラ。
「処刑部隊隊長ラクシウス・ディムリッド」
「……同じく処刑部隊所属カイン・サウザード」
声を出すのがやっとだった。
自制しないと足が震えてしまいそうだ。扉は消え失せたのに、空気がさらに重く感じる。
その空気に押し潰されるかのように、二人は片膝をついて頭を垂れる。考えずとも反射的にと体が動いた。これが最強の権力者の重圧か。
「面を上げよ」
それは言葉に過ぎない。
だが心臓を鷲掴みにされたかのような圧迫感を覚える。カインたちは素直に従った。
「ほう、まだ童子ではないか。よく任務をこなせたものだ」
ザラスシュトラが意外そうに言う。
値踏みするような視線が向けられた。まるで蛇のような鋭い瞳だ。睨まれた蛙のように息が詰まる。
「ええ、彼はこう見えてなかなか」
「――発言を許した覚えはない」
激震が起きたようだった。
迂闊に口を開いたラクシウスをザラスシュトラが一喝したのだ。
声は静かなものだったが、空気を震わすには十分だった。たった一声で世界を滅ぼせる男の言葉はあまりにも重い。
「ふっ、まあよい。今日は貴様たちを讃えるために呼んだのだ。楽にしろ」
「はっ……」
ラクシウスの声は消え入りそうなほど小さかった。
処刑部隊の隊長を務める男でもこれだ。目の前にいるのはただの人間に過ぎない。魔術が使えるだけなら後ろにいる魔術師たちと何も変わらない。それなのに我知らずと絶対服従を課せられる――それが皇帝だった。
「今回の働きは見事だった。褒めて遣す」
「勿体ないお言葉」
カインは恭しく頭を垂れた。
いまにも苦悶に歪みそうになる顔を見られたくはなかった。
今更、何を恐れる? 奴はただの魔法使いに過ぎない。今まで殺してきた奴らと何も変わらない。この瞬間のために戦ってきたのではなかったのか? 多くの犠牲を踏み台にして来たのに、それを無駄にするつもりか?
この機を逃せば、もう二度とない。時は動き出した、やるしかない。
「望みのものを言え。金か? 国か?」
ザラスシュトラは試すように問う。
金と答えれば死ぬまで使いきれない資財を与えられるだろう。国と答えればスクラドでもフィンツでも、まるまる手に入れてしまうことができるだろう。彼はそれができる、唯一の存在だ。
しかし自分が望むものはそのどれでもない。
戦争が始まって街を焼き払われ、帝国に拾われた時からすでに決まっていた。それは自分では手に入れることができないもの。皇帝でも与えることができないもの。そして賢者が望むもの。
「僕が望むのは――たったひとつ」
挑むような視線を皇帝にぶつける。
その瞳に迷いはない。揺るがない。絶対的な意思。復讐も使命も超越した純粋な想い。
「短刀を、ひとつ」