第九話 ピロー・トーク
彼は夢を見ない。
普通、人は眠りに就いた時いつも夢を見ているものだ。ただ、起きた時に忘れてしまっているだけなのである。忘れることを忘れた時、それは夢として現れるのだ。
だが、彼は本当に夢を見なかった。
眠るふりをして思い出していた――とある昔話を。
彼は騎士だった。鉄仮面で顔を隠し、重い甲冑の鎧を引き摺って街を巡回している。騎士の仕事のひとつで、街の治安を見守る役目があった。ただ歩いて、この街を守っていることを思い出させてやればいい。
ふと、見慣れない顔に足を止める。
栗色の髪をした若い娘。街に知らない人間はいない。旅人か何かだろう――普段なら気にも留めない瑣末なこと。
しかし今日の彼は違った。
娘が何かを落とした。それはただの布切れ。木綿のハンカチだった。しかし娘は気付かずに先に進んでいってしまう。
放って置けば良い――自分には関係がない。 そう思いながら、ハンカチを拾い上げていた。単なる気紛れだったに過ぎない。彼は娘が入った教会に向かう。
席に座って祈っている娘を見つけ、遠慮がちにハンカチを手渡す。騎士がわざわざ落し物を届けるなど、滑稽なことに思えたからだ。
娘もそう思ったのだろう。驚いたようにして、笑った。
化粧気のない素朴な娘の顔だったが、美しいと思った。顔の造りがどうとかではなく、純真な瞳に興味を惹かれたのだ。 その感情が何であるのか、騎士には分からなかった。
野暮だと思ったが、それで引き返すのも惜しい気がした。ここを立ち去ればもう二度とあの感情を味わえない気がしたのだ。
それで、娘に聞いた。
どうして教会へ? 旅をしてきたのか? どこから? 名前は?
気付けば数々の疑問を口にしていた。思えば彼は騎士の人生しか知らなかった。他の人間が何を思って何を感じているか、知りたかったのかも知れない。
話題は他愛も無いものだった。
過酷な悲劇や波乱万丈の冒険譚。そんなものとは縁遠い、退屈でつまらない日常の話。
だが騎士はもっと聞きたいと思った。
娘と話していると時を忘れて夢中になることができた。今まで感じたことのない淡い感情。
やがて、日が暮れてしまった。
娘は借りている宿屋に帰ることになり、宿まで送って自分もそのまま帰還した。明日も会えるだろうかと、そんな期待をしていたからだ。
翌日、街を巡回するついでに娘の姿を探した。
しかし見つからない。また日が暮れてから宿に向かうと、娘はもう街を発ったと知らされた。
大事なものを失くしたような感情。それは落胆だった。
だが宿の主人は娘から騎士への手紙を預かっていた。
娘は故郷の街に帰る必要があった。家族が待っているからだ。だが、いつか遊びに来て欲しい。そうしたら貴方の素顔を見せて欲しい。そんな内容だった。
素顔。鉄仮面の下の顔。騎士の本当の顔。
受け入れられるか分からないが、次に会ったら見せてもいいと思った。誰にも見せたことのない素顔。
いつか、いつかと思っているうちに時が過ぎた。
騎士団の命令に逆らえない彼は、街を出ることが出来なかったのだ。
そして或る日、もう娘に会えないことを知った。
戦争が起こった。
騎士は初めて無断で街を抜け出し娘の故郷の街へ向かった。
街は壊滅し、地図から消えていた。街の生き残った人物を探し出して話を聞き、愕然とした。
娘も戦火に巻き込まれ死んでしまったのだ。
何もできなかったこと。
何もしなかったこと。
騎士は全てを悔やんだ。
娘は案山子でしかなかった彼を魔法で変えてくれたのだ。
だが、命を与えてくれた娘にはもう会えない。
もう……。
昔話はこれで終わり。
夢を見ない騎士の、ささやかな思い出だった。