赦し
「なん、だと……」
八海内の顔が歪む。最悪の伏線回収をかましたはずが、逆に自分が悪夢のようなどんでん返しを喰らっている。
日本刀を持ったサラが近付いてくる。
「父が殺された時に、私はある教えを思い出したの」
体育館にサラの足音が響く。静寂の中で心拍数が上がっていくのが分かった。
「やられたらやり返せ。極道ではなくとも、やられたままでいれば受け身になる。受け身の生き方は負けを引き込む――ヤクザの美学は理解出来なかったけど、この理論は私でも分かったの」
「う、ああ……」
血の気が引く。サラの目は、ハッタリをかましている奴の眼ではなかった。
――こいつは、本当に俺を殺る気だ。
昏い目の奥には、極めて冷静な殺意が宿っていた。怒りとか復讐なんかじゃない。こいつは、ごく理性的な判断から俺を殺そうとしている――言われずともそれが分かった。
刀の切っ先がフロアにこすれて不快な音を立てる。サラは真っすぐに八海内のもとへと歩いていく。一歩踏み出すごとにサラの周囲から光が消えていく気がした。
「サラちゃん、ダメだよ!」
下着姿のまま吊るされた翔子が声を上げる。離れたところから見ていても、サラが何をしようとしているのかは分かったらしい。
サラは返事をせずに歩みを進めていく。あの世行きのカウントダウン。その数字はみるみる減っていく。
サラが八海内の目の前にまで来ると、再び沈黙を破る。
「あなたにとって父はろくでもない人間だったかもしれない。だけど、私にとっての父はただ一人しかいなかった」
「……」
「あなたを有罪にしたところで、どうせ少年法で無罪になる。ほとぼりが冷めた頃にあなたはシャバに出てきて、また同じように誰かを傷付け、罪を重ねる」
「ま、待ってくれ……」
「待つ? 一体何を? あなたの仲間は父を襲撃した時、少しでもその手を止めようとしたの? 父が死にかけているのに、少しでも助かるようにしてあげたの?」
八海内は何も言えなかった。
ディープ・グレイの構成員たちは不良の中でも選りすぐった極悪人たちの精鋭から成っている。命乞いなど聞くはずもないし、ましてやターゲットが生きられるようにしてやろうなどと考えるはずもない。
「答えなさいよ!」
珍しく感情を見せたサラが、日本刀を振るう。日本刀は八海内の眉間をかすめた。切り裂かれた箇所から血が流れはじめる。
「ぐあああああ!」
顔面を押さえてのたうち回る八海内。そこからは悪の総帥が持つ風格など無くなり、追い詰められた一人の男がいるだけだった。
「サラちゃん!」
翔子がまた叫ぶ。顔を切りつけたのは序の口で、いつ本当に八海内を真っ二つにしてもおかしくない。
実際のところ、八海内を痛めつけるサラは楽しそうに見えた。切れ長の瞳には、暴力に耽溺する闇があった。
「きっと父は、お前の何倍も痛い思いをした」
空気を切り裂く音とともに、絶叫が上がる。今度は肩から胸にかけて、一気に切りつけた。想像を絶する痛みに八海内は呻き、よだれと涙を垂れ流した。
「これからあなたがどんな目に遭うか想像してみるがいいわ。指を一本ずつ切り落として、鼻を削いで、目玉をくり抜いてから全身を滅多刺しにしてあげる」
「ひぃ……ぃい……!」
床を転げまわる八海内の下に、温い水溜まりが出来ていく。
「あら、こんなところで」
サラが広がる水溜まりを嬉しそうに見る。その目にはサディスティックな光が宿っていた。
「仕方がないわ。これ以上恥もかきたくないでしょうし、終わらせてあげるのも優しさでしょうね」
サラが日本刀を上段に構える。八海内の顔が真っ白になった。
「サラちゃん!」
翔子の声が、体育館の時を止める。それは、単なる叫び声の範疇を超えていた。人の脳へ直接意思を貫通させるような、そんな響きがあった。
サラは刀を降ろして振り返る。宙吊りになった翔子は泣いていた。涙の雫がポタポタと落ちていく。
「ダメだよ、サラちゃん。復讐に堕ちたら、ダメだよ」
「翔子ちゃん……」
翔子が鼻をすする。縛られているせいで、涙も鼻水も流し放題だった。
政変で父が逮捕された時、世界中が翔子たちに牙を剥いた。あちこちで悪意をぶつけられ、唾を吐きかけられた。その時は翔子も例外なく自身を取り囲む世界を怨んだ。
だが――
「サラちゃんは、ずっとわたしの好きなサラちゃんのままでいてほしいの」
「……」
「お願いだから、誰かを殺して心の空白を埋めるなんてしないで。それをするなら、わたしのことを殺してよ……!」
「翔子ちゃん……」
翔子は自分の思いを言い切った後に嗚咽して泣いた。数秒その姿を眺めたサラは、八海内へと振り返る。
「そうね。こんな奴、殺す価値も無い」
冷たく言い放つと、サラは吊るされた翔子のもとへと向かった。
「気が変わったわ。あなたはこの先、女子に喧嘩で負けた男として生きていきなさい。そっちの方が、よっぽど罰になるわ」
虚ろな目の八海内は、表情を変えずにサラの背中を見送った。女に負けた上に、恐怖で失禁までした。不良としては尊厳も何もかも失った状態で、これからどうやって生きていけと言うのか。ひたすら現実感の無い絶望の中でまどろんでいた。
サラは用具室の引き戸を開けると、中から巨大な安全マットを引きずり出して、翔子の真下へと持って来た。それから梯子でキャットウォークへと上がると、八海内を斬り殺すはずだった日本刀で翔子を吊るす綱を切った。
綱を切る前に置いた安全マットに落ちて、翔子は声を上げて泣いた。色々な重荷が憑き物のように落ちたのかもしれない。
自らもマットに飛び降りると、サラは泣きじゃくる翔子を抱きしめる。
「怖かったわね。……ごめんなさい」
最後の謝罪は、消え入るような声だった。
翔子が止めなければ、自分は復讐の鬼となり八海内を殺していた。間違いなく、確実に。
それでも踏みとどまったのは、翔子がいてくれたからだった。
「ありがとね」
サラはもう一度翔子を強く抱きしめる。
その胸に巣くっていた復讐心は知らぬ間に消え失せていた。今は救えなかった誰かを悼み悲しむよりも、目の前にいる守るべき人を大切にしたかった。それはサラが、亡くなった父に対して出来なかったことでもあった。
サラに抱かれた翔子は、しばらく声を上げて泣き続けた。
お互いに言わずとも分かっている。過去がどうあれ、サラと翔子は心から愛し合っている。それは性別を超えた、魂と魂の繋がりだ。
翔子を抱きしめていると、サラは何かに赦された気がした。こんな気持ちになったのは初めてだった。ずっと呪いのように憑いていたものが剥がれ落ちた気がした。
――二人と離れた場所で、傷だらけの八海内が虚ろな目で横たわっていた。体育館に咲いた百合の花は、ここではないどこか別の世界を見せられているようだった。
「俺は、何を見せられているんだ……」
誰にも届かない、蚊の鳴くような声。
八海内は二人の愛し合う姿を見て、これからも永遠にそれを理解出来そうにないと思っていた。
【了】




