妻が俺を完全無視。俺は何をやらかした?思い当たる節はたくさんあるがいったいどれだ!?~2月3日の悲劇~
残業を終えて家に着いたのは21時過ぎだった。
今日も疲れた。早く風呂に入って、動画でも見てゆっくりしたい。
玄関を開け、「ただいま」と声を掛ける。
しかし、いつもは出迎えてくれる妻の返事がない。寝るにしては早い時間だし、どうしたのだろう?
違和感を感じながら、靴を脱いでリビングに向かう。
リビングの明かりはついており、ダイニングのイスに妻はそっぽを向いて座っていた。
「ただいま」
もう一度言ってみたものの反応なし。これは……明らかに無視されている!
緊急事態だ。頭の中のサイレンが鳴り響く。どうして?
きっと何かで妻を怒らせてしまったに違いない。あれ、俺また何かやっちゃいました?
落ち着け。鈍感系主人公では夫婦生活という戦場を生き残れない。
大概の場合、女性が腹を立てるのは九割九部、旦那に起因することだ。
さて、どうしたものか。
理由を聞くのはタブーだ。どうしてなんて聞いてしまったら、自分の胸に聞いてみろと一刀両断され、さらに気分を害してしまう危険性がある。
女性は男性に言葉を求めるが、その逆はあってはならないのだ。夫は常に察することが求められる。
そして、こういう時は時間を掛けてはいけない。時間が掛かればかかるほど、何もわかっていないんだなと判定され、心象がどんどん悪化していく。
ふぅ。俺は小さく息を吐いた。まるで、爆弾処理に臨むような心持ちだ。
今朝家を出る時は普通だった。その後、妻とのやりとりは会社を出る時にメッセージを送った以外にはない。つまり、妻に隠していた何かがバレて怒らせてしまったということか。そうだ、違いない。
考えろ。頭をフル回転して、妻に隠していたことを絞り出せ!
……まったく、それほど考えずとも、ぽろぽろ出てくる。
最悪の心理戦だ。俺に勝ち筋なんてない。
どれがバレた? いくつバレた? 全くわからない。
出すカードは慎重に選ばなければ取り返しがつかなくなる。
額から汗が出てきた。
妻にバレたのがいくつであれ、何か一つでも言い当てれば何か反応を示すだろう。
大きく深呼吸し、俺は腹をきめた。
「この前、残業だと嘘ついて飲みに行ってました。ごめんなさい」
俺は深々と頭を下げた。口調も自然と敬語になる。謝罪の作法は悲しいかな、仕事で体に染み付いている。
しかし、バレたのがこの程度なら傷はまだ浅くて済む。
だが、期待虚しく妻は無反応。どうやら違うようだ。
まあまあ、落ち着いていこう。これは想定内だ。この程度でガン無視を決め込むほど妻の懐は小さくない。
勝負はここからだ。外せば外すほど墓穴を掘っていくことになる。このスリル堪らない……なんてことないわ!
セルフツッコミをかましたところで、もう一度呼吸を整える。
「それじゃあ、キャバクラに行ったこと黙っててごめん! でも仕事の付き合いってやつで、俺は行きたくなかったんだけど先輩にしつこく誘われて渋々行ったんだよ。全然楽しくなかった……わけじゃないけど、金輪際そういった場所には行かない、近づきもしないと誓わせていただきます。ごめんなさい!」
俺は膝をついてさらに深々と頭を下げた。これでどうだ!
目線を上げてちらっと妻の様子を伺うも反応なし。無念だ。
さて、着々と進退窮まってきた。もはや、火に油を注ぎまくっている。心の火災報知器はけたましいベルを大音量で響かせている。頼むスクリンプラーよ、作動してくれ。
ここまできたら進むも地獄、退くも地獄。どうにでもなれ。
「もしかして、後輩の女子への仕事のメッセージに絵文字を使ってるから? 確かに俺は普段絵文字を使わないし、君とのメッセージ画面も彩りに欠けるけれども。でも、絵文字を使ってるのは親しみやすい先輩の雰囲気づくりの一環で、他意はないんだ。信じてほしい。でも、よしわかった。これからは君とのメッセージにも絵文字を使って、ハートいっぱい送っちゃおうかな! ははははは……誠に申し訳ございませんでした」
両手をついて、額を床に擦りつける、つまり、土下座だ。
もう許してほしい。すでに満身創痍でこれ以上は致命傷になりかねない。
これまで無反応だった妻が身動きする気配がし、ズズズと美味しそうにお茶を啜る音が聞こえた。俺の喉もカラカラだ。
「ねえ、あなた」静寂を破って、妙に明るい声音が響いた。
恐る恐る顔を上げると、にっこり微笑む妻と目が合った。妻の笑顔は可愛らしくやはり魅力的だ。でも、今は見たくない。
蛇に睨まれた蛙のように体が固まった。
「はい」上擦った声で返事をする。
「クイズ出してもいい?」
「ク、クイズ? もちろんいいよ。ワクワクするな」この状況で断れるはずなんてないのだ。どうか正解の褒美が許しでありますように。
「それでは問題です。今日は何月何日かでしょうか?」
引っ掛け問題ではなさそう。
「今日は……2月3日」
「ピンポン! それじゃあ、2月3日といえば何の日でしょうか?」
「え、何の日?」
普段なら答えられると思うのだが、頭がパニックの今は何も浮かんでこない。幸い少なくとも結婚記念日ではない。何だろう……俺の命日?
「しょうがないなあ。じゃあ、ヒントね。鬼はー外、福はー内」
何かを撒くような動作も交えている。流石に今のヒントで答えがわかった。
「節分だ」
「ピンポーン! では、節分に食べるものといえば?」
テーブルの上にちらっと視線を移すと、皿に盛られた巻き寿司が目に入った。
「……恵方巻?」
「正解! では最後の問題です。今年の恵方の方角はどちらでしょうか?」
知らん! 内心ツッコミを入れるが、今は妻の戯れに全力で付き合わねばならない。
しかし、考えてわかるものでもないのではないか。そう思った矢先、一つの考えが閃いた。
妻が無視していたこと、急に節分に関するクイズを出す理由。全てがつながる。
「あの、スマホでコンパスのアプリを使ってもよろしいでしょうか」妻にお伺いを立てる。
「よかろう」仰々しく妻が頷く。
俺は、スマホのコンパスアプリを起動し、妻がそっぽを向いていた方角を確認して、答える。
「今年の恵方は、南南東」
「正解!」パチパチと妻は笑顔で拍手をしてくれた。
そうか。妻は怒って無視していたのではなかったのか。
「恵方巻きは、恵方を向いて願い事をしながら黙々と食べ切ると願い事が叶うっていうでしょ? 今年の恵方は南南東だからあっちを向いて食べてたの。食べてる途中にあなたが帰ってくるものだから、声を掛けられても応じられなかったのよ。無視してたわけじゃないわ。それなのに、あなたったら……ふふふ」 先ほどまでの俺の焦りっぷりを思い出して彼女は声を出して笑った。
全部俺の早とちりだったわけだ。妻の笑う様子を見て、途端に緊張が緩み俺も笑えてきた。
「まじで焦ったよ。もー、ははははは」
そうだ、家の中は静寂よりも笑い声で満たされているべきなんだ。夫婦で笑い合えるって素敵だ。
「安心したらお腹空いちゃった。俺も恵方巻食べよ。手洗ってくるね」俺が洗面所に向かおうとすると、
「ねえ、あなた」優しい声が背中を撫でる。
ぞくりとして俺はゆっくり妻の方を振り向いた。
妻の顔は口元は笑っているが、目が笑っていない。俺の目には、妻が鬼のように見えた。
「そういえばさっき、面白い話を聞かせてくれてたけど、もっとあなたの話聞きたいわ」
「い、いや、俺のくだらない話なんて聞いてもしょうがないんじゃないかな?」
冷や汗が頬を伝う。
「ふーん。そういえば私、欲しいバッグがあるんだけど」
「買っちゃおう! きっと君にとてもよく似合うと思うよ」すかさず俺は言った。値段もどんな物かも知らないけど、妻の機嫌を買えるなら安いものだ!
「いいの? やった! ほんとに願い事叶っちゃった。恵方巻効果ってすごいわね。あなたも願い事しながら恵方巻食べた方がいいわよ」彼女はうきうきな様子だ。
「うん、そうするよ」
許されたのか? 足早にその場を立ち去ろうと一歩踏み出した時、再び彼女の声が。
「あっ、ご飯食べ終わったら、さっきの話の続きしっかり聞かせてもらうからね」
どうやらバッドエンドのようだ。俺の恵方巻の願い事は決まった早く許してもらえますように
その後のことはあまり覚えていない。でも、豆まきはやった。もちろん鬼役は俺だ。でも、傍から見たら笑顔で豆を全力で投げつける妻が鬼で、俺は鬼に襲われている人間に見えたに違いない。




