スミレが咲いたあとに
家を出る前に見ていた天気予報で言っていた。
『今日は真夏日になるでしょう』
外に出てみると、なるほど、本当にそうなりそうだと思った。まだ8時を過ぎたばかりだというのに、既に30度は超えているんじゃないだろうか。地面からの照り返しがひどくて、ほんの少し歩いただけなのにもう汗が流れてきた。
暑さに耐えてバスを待っていると、自転車に乗った男子高校生が横を通り過ぎていった。歩くよりは涼しそうだなんて思ったが、よく見ると背中が汗で透けている。この暑い中、まだこれから何分も自転車をこぐなんてと思うと羨ましい気持ちはなくなり、気の毒に思えてきた。それなりに遠い昔、自分もそうだったような気はするが。
バスの車内は、外に比べれば涼しいという程度には冷房が効いていた。もっと涼しい事を期待していたけど、降りてからまた歩くことを考えると、どっちでもいいかと思い直した。
降りるバス停に到着を知らせるアナウンスが流れた。ICカードをかざして降りると、一度涼んだせいか、先ほどより更に暑く感じた。そんな中を数分も歩いていると、また汗が流れてきているのがわかった。おかげで会社に着く頃には、ワイシャツと下着が汗でびっしょりになっていた。これではさっき見かけた男子高校生と大差ない状態だろう。
まだ始業時間でもないのに汗まみれになってしまい、流石にそのままというわけにもいかないの着替えを済ませてから自分の席に座った。パソコンが起動するまでの間にコーヒーに口をつけると、外の熱でまだ火照っている体に冷たいコーヒーが染み渡っていく。
普段は外回りの仕事をしている。いつもこの時間に、今日はどう動く予定だったかとスケジュール、メールの内容を確認している。⋯のだが。
⋯これは頼まないとダメだな。
ここ数日は、妻である菫の出産予定が近い為、近場で短時間で終わりそうなもの以外は全て同僚に頼んでいる。
「おう、おはよう。この案件なんだけど、お願いしてもいいか?」
「おはようございます。ええと、⋯⋯明日以降でも大丈夫ならいいですよ」
「じゃあ、先方にはそう伝えとく。よろしくね」
「あとで何かおごってくださいよー」
「⋯まぁ、考えとくよ」
似たようなやりとりを何回かして、外に出ていく同僚を見ていると、自分だけ涼しいところでさぼっているかのように思えてきた。その事に少しだけ罪悪感を感じたが、出産の方が大事なんだから仕方ない。会社からも了承も得ている事だ。
電話応対や書類作成など、社内でできる業務をしているとスマホが震えた。画面には病院の電話番号が出ている。
「もしもし?⋯はい⋯⋯はい、わかりました。直ぐに向かいますね。⋯はい、では⋯」
⋯⋯そっか。⋯⋯よし、行くか。
「部長。妻の件で連絡がありまして⋯早退させてもらいますね?」
「⋯わかった。仕事の事は気にするな。落ち着いたら連絡してくれ」
「⋯はい、ありがとうございます」
急いで帰り支度をすませて会社を出た。まだまだ外は暑い時間だ。せっかくおさまっていた汗がまたふきだしてくるのを感じる。タクシーを探していると、幸いなことに通りかかってくれてすぐに乗車できた。病院まで歩いていったら、着く頃には熱中症になってしまうだろう。違う意味で病院に行くことになってしまう。
病院に到着すると待合スペースで待機していたのか、お義母さんが気づいてこちらに寄ってきた。
「仕事は大丈夫だったの?」
「ええ。こっちのほうが大事ですし。菫は?」
「さっき病室に戻してもらったよ」
「そうですか。じゃあ、まだ来てないお義父さんには悪いけど先に会いますかね」
お義母さんと一緒に菫の病室へ向かう。今までも何回かあったことだ。⋯いつもと違うのは、今日はお互い何も喋らないということ。そのまま病室の前までやってきた。
「⋯先に話させてもらっていいですか?」
「もちろん。話してあげて」
扉を開けて菫の方を見てみると、寝ているようだった。
「お疲れ様。出産はやっぱり大変だったでしょ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「あーぁ、立ち会いたかったなぁ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「子供はまだ見てないんだけど、どっちに似てた?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「俺に似てたんじゃない?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
いろいろ話しかけても菫の反応が返ってこない。聞いているのだろうか。
「⋯⋯そりゃ、ね。⋯こうなるかもって言われてはいたけど⋯。本当にこうなるなんてさ、⋯思うわけないじゃん。思いたくないじゃん!あんだけ大丈夫だって言ってたじゃん!なぁ、早く起きてくれよ!あんなに子供の事、楽しみにしていたじゃないか!」
思わず、声が大きくなってしまった。
「おい、菫!⋯返事をして、くれよ。⋯お願いだから⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯菫っっ⋯⋯⋯⋯」
どれくらい経っただろうか。お義母さんも病室に入ってきた。
「⋯ねぇ、色々言いたくなるのもわかるんだ。でもさ、この子が頑張った結果を見てあげてくれないかな?」
「⋯そう、ですね。じゃあ、ちょっと見てくるね。菫」
聞こえてるかわからないけど、菫にそう言って一旦病室をあとにした。
こうなるかもしれないって事は聞いていた。だから何度も時間をかけて話し合った。
『何かあったら⋯』
『何もないって!大丈夫だって!』
『ねぇ、今回はさ⋯』
『え、産むでしょ』
『先生も言ってたしさ⋯』
『いや、私の体は私が一番わかってるし』
『立ち会いでいいんだよね?』
『え?嫌なんだけど』
『じゃあ、せめて病院で待機させてよ』
『いやいや、終わってから会いにきてよ。仕事は大事だよ。これからお金かかるよー?稼がないと!』
何度同じような話をしただろうか。どれだけ話し合っても、菫は全く譲ってくれなかった。どうしてあそこまで頑なだったのか。⋯説得できなかった自分が嫌になる。⋯正直、こうなってくると子供どころではない気分だ。
「あそこだよ」
お義母さんの声に我に返った。指をさした方向に目をやると新生児室が見えた。ガラス越しにはなるものの、中が見えるようになっている。そこには保育器が複数並んでた。その中から菫の名前を見つけたので近寄ってみると、思っていた以上に小さい子供が寝ていた。そしてその小さな体には透明な管がついている。
「え?!ちっさ!大丈夫なんすか?」
「ちょっとこういう状況だったからね。普通よりは小さいって。でも、特に問題なく大丈夫みたいだよ」
「そう、ですか⋯」
会話が聞こえたのか、人が近づいてきたのがわかったのか。そしてそれが親だとわかったのか。⋯多分そんなことはないだろうけど、子供が少し動いた。
⋯すげぇちっちゃいけど、ちゃんと産まれてくれたんだなぁ。ちゃんと生きてるんだなぁ。動いてるし、大丈夫なんだよね?⋯⋯あー、本っ当に良かったなぁ。
さっきまでの気持ちはどこかにいったのか、目の前にいるとても小さい自分たちの子供がとても愛おしく感じられた。
「女の子なんだよね。菫に似るんじゃない?」
「それは⋯ちょっと大変ですね。⋯いや、かなり?」
「あの子は小さい頃から頑固だったからねぇ」
「あー、それは不安です。今回の頑固さはホント酷かったですし」
「⋯その結果、こうなってしまったけれど、あの子の事は⋯できれば許してあげてほしい」
「許すも何も、こんな可愛い子を残してくれたのにもう怒れませんよ。⋯それに怒ってなんていたら、『はあ?何か文句ある?』って逆に怒られちゃいますよ」
「ふふ。そうね。どうしてあんなふうに育ったのかしら」
「育てたお義母さんがそれを言いますか」
二人とも目に涙を浮かべながら笑い合った。
⋯今は不思議と穏やかな気持ちになれている。もちろん、いろんな思いがなくなったわけじゃない。それでもだいぶ楽になったような気がする。
病室に戻り、また話しかけた。反応がなくてもいい。
「俺達の子供、見てきたよ。とても可愛かったよ。でも、お義母さんも言ってたんだけど、菫に似ると大変だなって思うよ。気が強いっていうかなんていうか。いや、怒らないでくれよ?!ホントの事だろ!?⋯⋯⋯あのさ、なんとかやっていこうと思うよ。見ててくれるよな?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「そうだ、子供の名前なんだけど菫の希望通りにするよ。名前通りに元気に育てばいいなぁ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯本当に、本当にお疲れ様。ありがとうね」
きっと、妻には聞こえているはずだ。
※※※※※※※※※※
見渡す限り、ひまわりが咲いている。
今日はいつかと同じようにとても暑くなりそうだ。
「おとーさーん!はやくはやくー!」
「走ると危ないぞー」
「ここ、たくさんのひまわりだね!」
「そうだね。すごいいっぱい咲いてるね」
「せがたかいのもいっぱい!すごーい!」
普段見ることのない景色にとても興奮しているようだ。
「ここはね、お母さんが大好きなところだったんだよ」
「おかーさん?」
「うん。陽茉のお母さん」
「あ、しゃしんのひとでしょ!」
「そう。ここのひまわりが大好きでね。陽茉の名前もここからつけたんだよ」
「わたし?ひまわり?」
「ひまわりのひまっていうところ。同じでしょ?」
「そっか!ひま、ひまわり!じゃあ、ひまはあれくらいおおきくなるんだね!」
陽茉は近くの背の高いひまわりを指差している。
「そうだね。それくらい大きくなったら、お母さんも喜ぶと思うよ」
「おとーさんは?」
「もちろんお父さんも。だから元気でいようね」
「うん!げんきだもん!」
そう言って、また走っていく姿がとても愛おしく感じる。
ようやく陽茉と一緒にここにくる事ができたよ。⋯これからも頑張っていくから見ていてくれるかな。
「おとーさーん!はやく!はやく!」
「わかったわかった」
⋯菫、じゃあね。




