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婚約破棄、それは静かな布石  作者: 朝比奈ゆいか
第1章・婚約破棄事件と王国の秘密
9/21

9.静寂の下で整う舞台

いつも読んでくれてありがとうございます。

静かに動いていた水面下の駆け引きが、少しずつ形を成していきます。

どうぞゆっくりお楽しみください。

夜の帳が、静かに屋敷を包んでいた。

窓の外には星々がまたたき、遠くで梟の声が一度だけ響く。


その音すら、記録室にいるリディアの集中を乱すことはない。

ランプの明かりに照らされた机の上には、分厚い文書が数冊。

その一番上に置かれているのは、分厚い一冊の書類――《精査記録》。

けれど、それはまだ“完成”とは呼べないものだった。


リディアは眉をひそめ、報告書の下書きに視線を戻した。

墨色のインクが静かに乾ききらない一行に、小さくため息を落とす。


精査は進んでいる。

証言、物証、記録……必要な断片は、少しずつ揃い始めていた。


けれど、“整合”にはまだ届かない。

理に従うこの国では、記録がただ正しく記されたというだけでは不十分だ。

真実と一致しなければ、魔術は発動しない。整合されぬ記録は、存在しないに等しい。


もし一つでも食い違えば――記録は、ただ沈黙するだけ。

魔術は沈黙し、訴えも裁きも、ただ宙に消える。


それがクラヴィス魔術。

ヴァルメリアという異常な秩序国家の根幹に組み込まれた、絶対の“安全装置”。


リディアの視線は、書きかけの報告書の左上に置かれた資料へと滑った。

あの夜の舞踏会――ノエリアの姿勢が評価された一件から、社交界に流れ始めた噂。

その直後に発せられた“悪意ある証言”。

貴婦人たちの記録を並べていけば、矛盾は明白だ。

だが、矛盾を論うだけでは、裁きに至らない。


問題は――その先にある。


カティア・セレスタン。

そして、その背後で動く者たち。

リディアの予測では、カティアは間もなく、婚約者と共に“証拠”を提出するだろう。

もちろん、それはノエリアを貶めるために作られたものだ。

記録も証言も、表面上は制度の条件をきちんと満たして整えられている。

形式さえ整えば、制度はそれを受け付けてしまう。

嘘でも、形だけは正しい――それが制度の隙であり、彼らが狙ってくる部分だった。


だから、リディアは待っていた。

その“作られた証拠”が制度の場に提出される瞬間を。

そのときこそ、集めてきた証拠を突き合わせ、矛盾を浮かび上がらせる。

証拠が揃いさえすれば、クラヴィス魔術によって記録は封じられ、裁きが動き出す――その好機となるのだ。


しかし――問題はもう一つある。


カティアの背後に、“彼女の父”が動いている可能性。

セレスタン公爵。

王国の制度や査問会の仕組みに深く関わる貴族で、証言や記録の扱いにも強い影響力を持っている。


彼が関われば、記録はさらに厄介になる。

表向きは手続きが整っていても、その裏にある思惑までは表に出てこない。


リディアはペンを置き、封筒に視線を落とした。

報告書はまだ封じられていない。

提出するには――まだ材料が足りない。


「……間に合わないかもしれない」


小さく呟き、リディアはそっと目を閉じた。

必要な証拠がすべて揃えば、制度は動く。

感情ではなく、積み上げた記録が裁きを下す――それだけだ。


静かに。

けれど確実に。


そのとき、扉越しに気配を感じた。

気配はひどく静かで、何も言葉はない。


「……任せるよ」


低く、短い声だけが届く。

父――エルグレインの声だ。


リディアは返事をしなかった。

答えはもう決まっている。

机に添えていた左手が、わずかに動く。

それは、自分の中で静かに気持ちを整えた動きだった。


扉の向こうで、父の気配がゆっくり遠ざかっていく。


リディアは顔を上げ、未封の書類に手を伸ばした。

この記録が整えば、道が開く。

王のもとへ渡り、制度の名のもとで“真実”が明らかになる。


けれど今はまだ、夜の中。

決定打が揃うのを、静かに待ち続ける時間だった。







扉が静かに閉まると、部屋に重たい沈黙が残った。

柔らかな椅子に腰掛けたヴェルンステッド侯爵は、真正面のセレスタン公爵に視線を向ける。


王都の一角にあるセレスタン家の別邸。招かれたのは侯爵の方だった。

その事実だけで、この場の力関係は十分に伝わってくる。


「……ご用件を伺いましょう、公爵閣下」


「お気を悪くなさらずにお聞きいただきたいのですが――最近、社交界で少々困った噂が出回っておりまして」


セレスタン公爵は穏やかな声で切り出した。

声色に刺々しさはないが、言葉の選び方は隙がない。


「ノエリア嬢と王子殿下の関係について、いろいろと噂が広がっているようです。……すでに耳に入っておられるかと」


侯爵はわずかに眉を動かした。

知らぬはずがない。だが、うなずくわけにもいかない。


「うちの娘――カティアが、少し心配しておりましてね」


その言葉に、侯爵はわずかに視線を動かした。

娘の名を出し、どのように誘導しようとしているのか――警戒が滲む。


「王妃候補筆頭の立場には自信を持っております。ですが、王子殿下が他の令嬢に関心を持っていると噂されれば、不安になるのも当然でしょう。若い娘とは、そういうものです」


あくまで父親として娘を気遣う穏やかな口ぶりだった。

だが侯爵には、その背後にある意図が透けて見えていた。


「舞踏会で一度踊っただけの話とはいえ、こうした噂は放置すれば余計な憶測を呼び込みかねません。今のうちに、正式な場で確認しておくのがよろしいかと」


「……ノエリア嬢が王家の婚約候補に?」


「まさか。ただ、万が一にもそうした誤解が残らぬよう、今の段階で公の場で整理をつけておくのが賢明だと考えます」


「つまり……査問会を開けと?」


「いえ。あくまで手続きを通して、事実関係を確認しておくというだけのことです。誰を責めるわけではありませんし、双方の名誉のためにもなります」


それはまるで、何の問題もないと言い切るような声だった。


「判断は……レオネル様にお任せするのが筋でしょう。ご本人の申請によって公の場で確認されれば、後々まで残る正式な記録となりますから」


侯爵はわずかに視線を伏せた。

「……最終的な判断は、息子に委ねるべきでしょう」


セレスタン公爵は穏やかに微笑んだ。

「ええ、それが何よりでございます」


そう静かに答えたセレスタン公爵の声には、わずかな満足が滲んでいた。


侯爵は軽く頭を下げると、ゆっくりと席を立つ。

手元には、セレスタン公爵から差し出された冊子が静かに収められていた。


「これは娘が個人的に整理したものです。あくまで非公式の記録ですが――参考までにお持ちください」


セレスタン公爵はそう穏やかに言い添え、冊子を卓上に置いた。

侯爵は一礼のうえ、それを静かに手に取る。


「では、これで失礼いたします」


侯爵は冊子を持って立ち上がり、部屋を後にした。

扉が静かに閉まると、私的応接室には再び静寂が戻る。


セレスタン公爵は柔らかな微笑を崩さぬまま、その背を見送っていた。




その日の夕刻、ヴェルンステッド邸の執務室。

侯爵は静かに冊子を卓上へ置き、レオネルに視線を向ける。


「……セレスタン公爵から渡された資料だ」


レオネルは無言で冊子を手に取り、ゆっくりとページをめくる。

そこには、社交界の証言や噂話が整然とまとめられていた。

見慣れた内容――だが、それは彼の胸の奥に沈んでいた不安を、改めて浮かび上がらせる。


贈り物の箱。

舞踏会の噂。

カティアの涙混じりの言葉――


それらが重なり合い、彼の心をじわじわと侵食していた。


「父上は……どう思われますか」


レオネルは静かに問うた。

心の奥底では、すでに答えが出ている自分に気づきながら。


侯爵は短く息を吐く。


「私は信じたいと思っている。だが現実には、既に多くの者が噂に耳を傾け始めている。放っておけば、いずれ王宮が判断に乗り出すやもしれん――公爵は、そう申していた」


レオネルは拳を強く握った。


(もし噂が本当なら……ノエリアは王子殿下のもとへ嫁ぐかもしれない)

(それだけは――どうしても嫌だ)


本当は、ノエリアを誰よりも信じたかった。

けれど、不安は日々膨らんでいく。

王子との距離が縮まっているかもしれない。

もしそうなら、自分の立場は――彼女の隣にいる資格は、消えてしまう。


(だったら……)


――先に、道を塞げばいい。

――噂が事実である可能性を突きつけ、彼女の立場を貶める。

――そして、自分が支え直せばいい。

――そうすれば、彼女は自分を必要としてくれるはずだ。


それが、彼の中に芽生えた歪な“正しさ”だった。


「……今のまま放置すれば、噂はさらに広がるだけです。先に、公の場で整理をつけた方が良いかと。証拠も揃えて提出すれば、誤解も正せるはずです」


表向きはあくまで“名誉のため”という建前だった。


侯爵は頷いた。


「……公爵も、同じことを仰っていたな」


(けれど――父上は、何も気づいていない)


レオネルは心の奥で呟く。

父は制度の整理として捉えている。

だが自分は――もっと別の思惑で、すでに一歩を踏み出そうとしていた。


「……僕が、申請します。彼女の名誉のために」


侯爵はわずかに目を閉じ、静かに頷いた。







使用人の一人――執事が、静かな足取りで部屋を訪れた。


「おはようございます、リディア様。……ノエリア様は、まだお休みです」


リディアはうなずくだけで応え、手渡された封筒に視線を落とした。


宛名は《リディア・レストール》。送り主は王宮査問局。

封蝋には、査問局の公式印が鮮やかに押されている。


無言で封を切り、淡々と文面を読み進めた。

中にあったのは、簡潔で事務的な通知文だった。


――査問会開催通知。対象:ノエリア・レストール。

――告発者:レオネル・ヴェルンステッド。

――容疑:素行不良、複数の男性との不適切な関係、

 貴族としての品位に欠ける行動のため、婚約破棄を申し込む。


「……ようやく」


リディアは小さく呟き、机上の一冊へと静かに手を伸ばした。

それは赤い糸で綴じられ、封蝋が二重に施された記録――《精査完了報告書》。


ここに至るまで積み上げた証拠と記録は、すでに整っている。

王に提出すれば、必要な準備はすべて整う。

クラヴィスとしての役割も、そこで一区切りとなる。


あとは――王が口を開き、裁きの場が開かれるだけだ。


(これでようやく――全ての準備が整った)


リディアは静かに目を伏せ、そして再び顔を上げた。

その瞳の奥には、揺るがぬ意志の光が宿っていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

感想やブックマーク、評価など本当に励みになっています。

のんびり静かに続いていくお話ですが、これからも気軽にお付き合いいただけたら嬉しいです。

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