7.静けさの裏で
何も言わないって、何も見てないこととは違うんですよね。
今回はそんな“沈黙の観察者たち”が動きます。
リディアはひとつ息を整え、扉の前から静かに離れた。
応接間に残された二人の気配を背に、彼女の足取りは確かだった。
(――これ以上、油断はできない)
私情を記録にはできない。だが、制度の整合を崩すこともまた、許されない。
扉に手をかけようとしたその瞬間、向こう側から低く抑えられた声が届いた。
「リディア様。定時報告を」
押し殺すような静けさの中にも、どこか柔らかな響きがあった。
リディアはその声に応えず、静かに扉を押し開けた。
現れたのは、記録官補佐の青年だった――
まだ若く、階級も高くはない。だが、報告の所作に無駄はない。
声もまた、感情を抑えつつも妙に滑らかで――
(……この職にしては、表情が豊か)
そうリディアが内心で評するほど、青年の言葉にはわずかに“温度”があった。
歩みを進めた先は、レストール邸内――クラヴィスとしての職務を担うために、父の手で新たに設けられたリディア専用の部屋。
書架と封印文書、整然と並ぶ筆記具。その中心に据えられた机へ、リディアは音もなく腰を下ろす。
ひと呼吸置いて、ようやくリディアが口を開いた。
「続けて」
「午後の茶会にて、セレスタン令嬢、フラーナム子爵令息、トリューク家嫡男の三名が、それぞれ別の場でほぼ同一の証言を展開。
すべて『ノエリア嬢が王子殿下に積極的に接近した』という主旨です」
リディアは椅子の背に静かに身を預け、瞼を伏せた。
「文言の一致率は?」
「極めて高いです。主語・行動・時間・場所が完全に一致。加えて、“あれは礼儀ではなく誘惑だった”という感情的評価が添えられていました。
つまり、“整合素材の五要素”のうち、四要素が一致。感情のみ魔術による補強が未済です」
補佐の言葉に、リディアは手元の記録に視線を落とす。
主語――ノエリア。
行動――王子の袖を引いた。
時間――舞踏会の夜。
場所――王子の側にて。
感情的評価――『礼儀ではなく誘惑だった』
(……ここまで整いすぎている)
自然な証言であれば、語彙の差や記憶の揺れがあるはずだ。
だがこの三名は、まるで台本でも読んだかのように、同じ言葉で語っていた。
(これは――再現ではない。整合を模した偽証)
クラヴィスとしての判断基準が、静かに切り替わった瞬間だった。
リディアは素材ファイルを横に滑らせ、整合補佐に視線を向けた。
「中立観測の発動手配は?」
「次回茶会に向け、補導に申請済みです。現地配置の承認も下りました」
「よろしい。観測は“感情印象の導出”を主目的とするよう伝えて」
補佐の青年は軽く頭を下げ、再び静かに控える。
彼の振る舞いはあくまで“公式”だが、妙に馴染んでいる。
感情的な揺れもなく、だが冷たくもない。
リディアがふと視線を戻すと、彼はすでに次の報告書を手に取っていた。
(……この仕事に向いているわね)
思考の端に、そう評価が浮かぶ。
だがそれは、職務上の適性にすぎない。
“信頼するか”――その判断は、まだ下すべきではない。
代わりに、草案用の記録ファイルを開く。
まだ封印申請には至らない、予備構成段階。
だが、この仮構成こそが、クラヴィスだけに許される布石だ。
(裁きは、整合の果てにだけ許される)
感情で動くことはない。だが、記録に明らかな“嘘”が混じったとき――
それは制度として、正されなければならない。
その茶会は、セレスタン家の私邸にて、親しい令嬢たちを招いて催された私的な集まりだった。
公式な催しではないが、上流階級においては、こうした場が情報共有と印象操作の温床になることも少なくない。
カティア・セレスタンは、いつも通りに優雅な所作で紅茶を口にしながら、ため息混じりに呟いた。
「……本当に困るのよ。あの子、自分の立場がまるで分かってないのだから。
王子殿下に近づいていい身分じゃないって、誰か教えてあげればいいのに」
数人の令嬢が苦笑し、視線を逸らす。
それを肯定と受け取ったのか、カティアはわずかに笑みを深めた。
「舞踏会の夜、見ていたわ。あの子、王子の袖を引いてたのよ? 無理やりって感じで。
あれ、踊りに誘ってたんだと思うけど……正直、場違いだったわね」
少しだけ声を落とし、言葉に熱を帯びさせる。
「“礼儀”だなんて言われても、私にはそうは見えなかったわ。……あれは、“その気”だった。そうとしか思えないもの」
その声には毒と誇りが溶け合っていた。
――その場には、誰とも知れぬひとりの令嬢が同席していた。
控えめな装いと所作で目立たぬよう振る舞うその人物は、実は補導局より任を受けた中立観測の補導官。
彼女の魔術はすでに発動しており、会話の初手から、声と表情、空気の震えまでも静かに記録していた。
“感情”を含めた五要素――主語、行動、場面、断定、そして感情――そのすべてを、確かに。
カティアはそれに気づくことなく、紅茶に微笑を浮かべたまま、次の話題へと移っていった。
その報告は、整合補佐の青年の手を通じて、リディアのもとへ届けられた。
封筒には、補導官による観測内容を記録した魔術封印映像と、概要をまとめた文書が同封されていた。
――セレスタン邸にて、カティア令嬢が私的な茶会の場で発言。
主語、行動、場面、断定表現、そして感情。
中立観測官によって、“整合素材の五要素すべてが一致”と記録された。
リディアはその文書と、補導官によって封じられた映像記録を並べるようにして確認し、淡く目を伏せる。
(これで、五要素がすべて揃った)
整合は成立した。
制度上、“魔術による記録封印”の許可条件が、すべて満たされたことを意味する。
だがその中身は、妹ノエリアを貶めるための、計算された偽りの証言だった。
(これを、制度が“真実”として扱うのなら――)
リディアは静かに、椅子から身を起こす。
「補導へ通達。“整合成立。記録封印準備に入る”と」
「承知しました。封印処理を整合精査局へ回送します」
制度に従い、整合された記録が“真実”として処理される。
けれどその裏で、ただ一人、それに抗う資格を持つ者がいる。
クラヴィス――理の整合を担う資格者。
けれどその名の下、いまリディアが下した判断は、制度よりも早いものだった。
(私は、“管理官”ではいられなくなった)
それは“妹を守る姉”としての決断。
静かに整った制度の中で、唯一、そこから逸れる覚悟。
この日、クラヴィスによる記録封印申請は――制度に基づき、正式に開始された。
だがその裏で、記録には決して現れない“私的な決意”が、静かに積み重ねられていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
この回、地味だけど……実はけっこう後々効いてくるやつにしてます…一応…(笑)
気づかないふりをしてる人ほど、ちゃんと見てるのかもしれませんね。