6.義姉のまなざし
なんだか、思い出したくないことほど、ふとした時に思い出すものですね……
ただの今の気持ちなだけです(笑)
もしかしたら、今回はそんな“静かに染みてくる話”かもしれません。
噂は、目に見えない形で広がっていた。
誰の意図とも知れぬまま、ノエリアの名に静かに影を落としていく。だが――
(この空気、最初の一手は……彼女じゃない)
日々、中央記録庁・整理総務課に届く“非公式の報告”。
形式不備のまま提出されたそれらは、あくまで“記録素材”として扱われ、公式文書には至らない。
だが、クラヴィス継承者としての眼で読み解けば、それは――十分すぎるほどの情報だった。
曖昧な証言、断片的な噂、言い回しの傾向。
リディアは自室で文書の束を前に、沈黙したまま思考を重ねていく。
──すでに、論理は繋がっている。
(王家ではない。貴族会でもない。けれど、意図的な構築がある)
これは、自然発生した噂ではない。
意図がある。ならば、誰かが構成した。整然と、慎重に。
全体に流れる話法と文法的なクセ。それが、ひとつの名を浮かび上がらせる。
――セレスタン公爵家。
ただし、直接的な関与はカティア本人ではなかった。
“彼女の父”――セレスタン公爵当主。その陰に、明確な構造が見えた。
「……上手く仕掛けたわね」
小さく吐いた声は、ひどく静かだった。
怒りは表に出さない。ただ、理に基づく判断が、次の一手を導く。
カティア本人はまだ動いていない。
だが、いずれ逸脱する。それは確信だった。
彼女の性格と焦り。そして、リディアの予測に過ぎなかったことは、まだ一度もない。
そのとき、ふと脳裏に浮かぶ。
“数日前”のあの夜――リディアが、ひとつの覚悟にたどり着いた夜が。
*
――その夜、彼女は部屋にいた。
静まり返った書斎。蝋燭の灯りが、無言で揺れている。
妹の名誉を守る。それは、とうに決めていた。
だが、それだけでは足りないと、どこかで分かっていた。
(……なぜ、印は現れない?)
左手を見つめる。幾度も想ったはずだった。
ノエリアを守りたい。あの子の笑顔を曇らせるものは、すべて取り除きたい。
それでも、何も起きなかった。
クラヴィスの印は、“私情”では動かない。
机の上には、整合にかけた資料が広がっている。
偽証、改竄、制度の歪み。それらが一連の事件の背後にちらつくたび、彼女の中の何かが、静かに変わっていった。
(戻さない。私は、ノエリアを……この国を、混沌の時代には戻さない)
その瞬間だった。
左手が熱を帯び、漆黒の紋様が一閃するように浮かび、光を残して、すぐに消えた。
――クラヴィス継承の証。
ただの印ではない。国家の記録と裁きを背負う存在が、理に選ばれたという“応答”だった。
その数刻後。
扉の向こうで衣擦れの音がしたかと思うと、ノックもなく、父が静かに入ってくる。
「……辿り着いたか……」
ただ、それだけ。
彼は娘の左手を見たわけでもない。
それでも、何が起きたのか、すべてを理解しているようだった。
「何かあれば来い。それだけだ」
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
彼女は残された蝋燭の火を、そっと吹き消した。
継承は、確かに成された。
彼女は“娘”でありながら、国家のクラヴィスとなった――静かな、変化の夜だった。
*
回想が遠のき、静けさが戻る。
リディアは手元の文書へ視線を落とし、さらりと一文を書き加えた。
――《印象操作:出処=セレスタン公爵家。対象=複数士族。意図未明。観察継続中》――
(……そろそろ。令嬢本人が動く頃ね)
噂は、形を持たないままに広がり、やがて次の段階へと移る。
焦りの兆し。社交界での立場。舞踏会での出来事が、きっと彼女の中で再燃する。
カティア・セレスタン――その性格と衝動を、リディアは冷静に予測していた。
理ではなく、感情で動く者たちの常として。
──コン、コン。
扉を叩く音が、思考の隙間を断ち切る。
リディアが「どうぞ」と応じると、控えめな仕草で執事が顔を覗かせた。
「お嬢様、ヴェルンステッド家のご子息が来訪されております。
現在、ノエリア様と応接間にてご面会中にございます。侍女も同席しております」
筆を止めたリディアは、一度だけ瞬きをし、文書にしおりを挟んで立ち上がった。
(……来たのね。噂の背後に、まだ気づいていないはず)
ノエリアは、社交の水面下に流れる敵意を、あまりにも素直に受け止めてしまう。
だが、それは彼女の優しさであり、同時に脆さでもある。
「もう一人、補導系の者を向かわせて。中立観測魔術が使える子を。
私は、少し後から行きます」
「かしこまりました」
ノエリアの周囲で、これ以上、見逃してはならない“何か”が起こるかもしれない。
その予感が、リディアを静かに動かしていた。
廊下を渡り、応接間前の控え室へ。
リディアは扉の前で足を止め、静かに耳を澄ませた。
木製の扉越しに、かすかな会話が聞こえる。柔らかく、温かい声色。
ノエリアだった。
対するのは、ヴェルンステッド家の嫡男――レオネル。
その名が呼ばれるたびに、応接間の空気がやわらいでいくのが、声だけで伝わる。
「……その本、前に話してたものかしら。ずっと読みたかったの」
「うん、君が好きそうだと思ってね。少し古い版だけど、綴じはしっかりしてるよ」
「ありがとう。お義姉さまにも、きっと喜ばれると思うわ」
ふと、リディアのまぶたが小さく揺れた。
(……今、確かにそう呼んだわね)
“お義姉さま”――
ノエリアがリディアをそう呼ぶのは、決まってこうした外の場だけだった。
中立観測の魔術は、既に応接間内で発動している。だが、制度には拾えない“表情の揺れ”がある。
それを見逃さないために、彼女はここへ来たのだった。
家の中では「リディア様」
私的にも、公的にも、礼儀と敬意を含んだ呼び方で一線を引く。
けれど、他者がいる場ではときおり、不意に“家族”のようにその言葉を使うのだ。
リディアは、それを何度か耳にしている。
そのたび、どこか胸の奥に、柔らかな痛みが広がった。
(……家でも、そう呼んでくれたら。せめて、一度でも。直接)
そう思う自分を、滑稽だとも思う。
だが、それは“願い”であり、“記録”には残らない感情だった。
魔術継承の副作用――
クラヴィスとしての冷静さの裏で、彼女は感情の揺らぎに気づきづらくなっている。
けれど今、このささやかな言葉の破片が、確かに何かを揺らした。
リディアはそっと目を伏せ、短く息を整える。
それは、痛みでも怒りでもない。
ただ、どう処理すればよいかわからない“感情”の輪郭だった。
応接間の中、ノエリアは紅茶を手に、穏やかに微笑んでいた。
その向かいのレオネルもまた、変わらぬ笑顔を浮かべている。
けれど――その瞳の奥に、リディアは“曇り”を見た。
(……焦点が定まっていない)
言葉は自然。所作も洗練されている。
だが、その“自然さ”の奥に、リディアは違和感を拾い上げていく。
会話の間合い、頷きの角度、呼吸の深さ。
まるで“正しい答え”を反復するような空虚な応対。
それは感情の共鳴ではなく――“調整された言葉”だった。
(……すでに、教えられている。何を、どう言えば“穏やかに見える”か)
舞踏会の夜の記憶がよみがえる。
王子とノエリアが踊り、静かな賞賛が集まったあの時――
カティア・セレスタンが見せた、凍てつくような視線。
(始まりは、あそこ)
その後、レオネルの言動にわずかな変化が現れ始めた。
会話の選び方。視線の向け方。
ノエリアを信じながらも、“ある一線”を越えない。
(彼はまだ、信じている。だが、“信じているとは言わない”)
その構図を与えたのは誰か。
記録を辿るまでもなく、答えは一つだった。
セレスタン公――
王都社交界の記憶を操作し、“正しさ”を流通させる者。
リディアは視線を伏せた。
それは、観察者としての判断でも、姉としての感情でもない。
ただ一つ、“整合されるべき情報”としての認識だった。
(いずれ、記録として回収する。その時が来る)
ほんの一瞬――レオネルの手が、カップの取っ手からわずかに滑った。
リディアの目は、確かにその“揺らぎ”を捉えていた。
心の奥に、淡い決意が灯る。
(――準備は、整いつつある)
最後までありがとうございます。
声に出せない怒りって、どこにしまえばいいんでしょうね。
きっと、彼女はそれを“行動”で語ろうとしてるんだと思います。
リディアの歩みを、また見守ってもらえたら嬉しいです。