5.無言の感情と、最初の記録
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ノエリア・エルヴィンが、レストール家に引き取られたのは、春のはじまりだった。
まだ風は冷たいが、街路樹には新芽がほころびはじめていた頃――王都の空気が少しずつ緩み、冬の眠りから目覚めるような、そんな季節。
事故――とだけ記された報告書には、彼女が唯一生き残った経緯も、家族が全員死亡した状況も、明確には書かれていなかった。
ただ、エルヴィン家の名が公式記録から消え、その娘が王都の一貴族に引き取られるという事実だけが、整然と並んでいた。
「養子として迎える。姓はレストールにする。書類処理は済ませておいた」
それが父の言葉だった。私が何かを問うことも、感情を挟むこともなかった。
クラヴィス家の者として――私は、その役目に従っただけだった。
彼女は14歳だった。
私より5つ下。年齢以上に幼く見えた。細身で、声音も小さく、背筋だけは妙にまっすぐだった。
ノエリアと初めて対面した日のことは、驚くほど印象が薄い。
ただ、妙に小さな少女が一礼し、「本日より、お世話になります」とはっきり口にしたことだけは、なぜか覚えていた。
彼女は、毎朝会うたびに、きちんと立ち止まって頭を下げる。
「おはようございます、リディアさま」
「今日も、お仕事お疲れさまです」
「体調など、お変わりありませんか?」
そんな言葉を、決まって笑顔で差し出してくる。
それは、義理の家に引き取られた少女が、ただ生き延びるための処世術だったのかもしれない。
けれど、私はその振る舞いを、機械的なものだと感じたことは一度もなかった。
ノエリアの笑顔は、静かで、よく整っていて、それでいてどこか必死だった。
礼儀正しさの奥に、好かれたいという感情はなかった。
恐れと、感謝と、覚悟があった。
「この家に迷惑はかけません」とでもいうように、ひたすら丁寧で、息を潜めるように暮らしていた。
最初の一週間は、ほとんど会話もなかった。
けれど、食事のとき。廊下をすれ違うとき。彼女はいつも、笑っていた。
「――なぜ、そんなに私を慕うのかしら」
ある日、ふと零れた独白に、自分で驚いた。
そう思っている自覚すらなかったのに、口が先に動いたのだ。
それほどに、私は彼女の笑顔に心を満たされていたのだと、そのとき初めて気づいた。
あの子は、何も持たずにやってきた。
家も、家族も、地位も、味方も――何もかもを失って、それでも礼儀正しく、生きようとしていた。
その姿が、胸に刺さった。
笑っているけれど、きっと苦しい。
笑っているけれど、きっと耐えている。
笑っているけれど、それでも誰かを思っている。
その笑顔が、ただの演技ではないことに気づいたとき、私の中に、ひとつの感情が芽生えた。
「この子が傷つくのは、許せない」
それは、まだ自覚のない想い。
怒りでも、正義でもない。ただ、守りたいという願いだった。
言葉にはしなかった。
表情も変えなかった。
けれど、私はその日から、あの子を「妹」として――確かに心に迎え入れた。
クラヴィスの継承は、まだ先のこと。
けれど、このときすでに、私の記録――あの子を守るための証と行動は、静かに始まっていたのだ。
ノエリアがレストール家に来てから、最初のひと月は、目立った動きも事件もなかった。
だがその間に、彼女は驚くほど周囲に馴染んでいった。
家庭教師による教養や作法の指導を、誰よりも素直に、真摯に受け入れ、知識の吸収速度は目を見張るものがあった。
日々の立ち居振る舞いも洗練されていき、その変化は、使用人たちの間でも密かに話題になっていた。
それでも、彼女は決しておごらない。
誰に対しても、礼を欠かすことなく、丁寧に接した。
身分の上下を問わず、執事にも侍女にも、分け隔てなく微笑み、目を見て言葉を返す。
「ありがとう、助かりました」
「寒いですね。どうかご自愛ください」
その一言一言が、相手の心に静かに届いていく。
彼女のことを、陰で悪く言う者は一人としていなかった。
それどころか、「あれほど気品があるのに、驕らない」「上位貴族のようだ」と囁かれていた。
私は、それらの声を聞くたびに、どこか誇らしさを覚えた。
ノエリアは、目立とうとしているわけではなかった。
むしろ、静かに、丁寧に、周囲と距離を保ちながら過ごしていた。
それでも、人の目は自然と彼女を追った。
柔らかく笑うその姿は、居並ぶ貴族の娘たちの中にあっても埋もれない。
どこか、特別だった。
ヴェルンステッド侯爵家から、正式な婚約の申し出が届いたのは、ノエリアがレストール家に来てからまだ数ヶ月のことだった。
「婚約……?」
父が静かに文書に目を通しながら口にした言葉に、私はわずかに眉を寄せた。
彼女はまだ14歳。出自も不明瞭で、引き取られて間もない身。
本来であれば、侯爵家からの縁談など持ち上がるはずもない。
だが――
レオネル・ヴェルンステッド。侯爵家の一人息子は、穏やかで誠実な少年として知られていた。
理由は明かされなかったが、噂によれば、彼はノエリアの姿勢や言葉遣い、そして気品に惹かれたのだという。
きっと、どこかの社交の場で彼女と顔を合わせたのだろう。
控えめで真摯な在り方に、心を動かされたとしても、不思議ではない。
レオネルという少年なら――そう思わせるだけの信頼が、彼にはあった。
そんな申し出を前に、ノエリアは静かに首を縦に振った。
「そういうものなら……」
ただ、それだけを口にして。
彼女は、それが“自分に課された役目”なのだと、当然のように受け止めていた。
その様子に、私は何も言えなかった。
そして――
「……この子を、大切にしてくれる相手であってほしい」
父が目を細め、誰にも聞こえないような小さな声で、そっと呟いた。
政略でも体裁でもない、ただひとつの願い。
その言葉は、小さくとも確かに私の耳には届いていた。
そして、私もまた、同じ思いを抱いていた。
――この子が、どうか、悲しまぬように。
けれど、その静かな決定を境に、空気は少しずつ変わっていった。
侯爵家の一人息子との婚約――
それは、王都でも注目を集める話題だった。
その相手が「引き取られたばかりの義妹」とあっては、なおさらだ。
《身分も曖昧な娘が、侯爵家に?》
《どうせ、何かしら裏があるのでしょう?》
《そもそも、あのレストール家でしょ? 家族仲が良いなんて思えないわ》
声に出されることは少ない。だが、社交の場で交わされる目線や、奥に籠もった囁きが、確かに彼女を追い始めていた。
ときに、さりげなく話題をそらされ、輪の中に入れてもらえない。
贈り物に込めた心遣いを、表向きは受け取りながらも、あとで笑われる。
そういった“記録には残らない言葉”は、制度の外側にある。
整合性を欠く陰口は、記録にも証拠にもならない。
私は、それを裁けない。
いや、たとえ継承していても、証拠のない悪意は制度の外――
裁きの執行はできないのだ。
ノエリアは変わらなかった。
静かに、誠実に、誰に対しても丁寧に笑みを向け、言葉を交わしていた。
怠ることなく礼を尽くし、誤った言動をしたことなど一度もない。
――だからこそ、私は戸惑っていた。
制度の外で、あの子は試されている。
どれだけ整合に忠実で、どれだけ正しく振る舞っても、「義妹」「引き取られた子女」というだけで、偏見の影が彼女を追う。
記録にも証拠にもならない曖昧な悪意が、静かに彼女を削っていく。
それが、どうしようもなく――悔しかった。
クラヴィスの継承を控える身として、私は記録を重んじる。
記録に残らないものは、存在しないとみなすのが原則。
けれど今、確かに目の前で起きている“整合不能な悪意”を、私は知ってしまった。
それでも、感情を制御しなければならない。
記録者は、中立でなければならないから。
私は、まだ何者でもない。
ただの姉として、ただの家族として――けれど、確かに思っていた。
あの子を、守りたい。どうあっても、傷つけさせたくないと。
ノエリアのデビュタント舞踏会が近づくにつれ、屋敷の空気がわずかに華やぎはじめた。
その日、ノエリアは礼儀作法のレッスンの最中だった。
「ノエリア様、この章もご興味ありそうですね。……ああ、そうだわ。ちょうど先日見つけた資料があって、ぜひお見せしたかったの。馬車の中に置いたままだったかしら」
そう言って、講師の先生は微笑んだ。
「ちょうど良いわ。少し休憩しましょう。お茶の時間も兼ねて、そのあいだに取ってきますね」
そう言って講師の先生が立ち上がり、優雅に扉を開けて出ていくのを、ノエリアは椅子に座ったまま一礼して見送った。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
(……せっかくだし、先生のためにお菓子を用意しておこうかな)
そう思ったとき、一瞬、廊下の先――控えの間にいる使用人の姿が頭をよぎる。
けれどノエリアは、そっと首を振った。
(わざわざ呼ばなくても、私が行けば済むことだもの)
それは気遣いと遠慮の混じった、彼女らしい静かな行動だった。
――そんな思いつきで、ノエリアはひとり、廊下を歩いていた。
そして、応接間の前を通りかかったとき――
「胸元は、これ以上開かないほうがいい。彼女は控えめな性格だ」
「裾はあと2センチ上に。歩きにくいと転ぶわ。袖口の刺繍は、主張しすぎない色にして」
義父とリディアの声だった。
冷静で、淡々としたいつもの調子。けれど、そのひと言ひと言の奥に、ふと滲むものがあった気がする。
舞踏会のドレス――私のために選んでくれている――そう思うのは、おこがましいだろうか。
けれど、朝食の際、確かに耳にしたのだ。
「今日、あなたの舞踏会用のドレスの注文を済ませておくわ」――リディア様がそう話していた。
(きっと、その打ち合わせなのだろう……そうであってほしいな……)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥が、ほんの少しだけあたたかくなっていた。
それからの日々、私は意識するようになった。
リディアの言葉の端々。
義父の沈黙のなかにある気配り。
たとえば、風が強い日に廊下の窓がすでに閉じられていたこと。
たとえば、苦手な紅茶がさりげなく別のものに替えられていたこと。
声に出さずとも、目立たぬように、けれど確かに――私を、守ってくれていたのだ。
そして舞踏会当日が迫るころには、屋敷を離れた王都――
その社交界の一角に、静かなざわめきが広がっていた。
「……あの子が、王室の舞踏会でデビュタントに?」
「義妹でしょう? レストール家の血も引いてないって聞いたわ」
「そもそも、“あの家”でしょ? 家族仲が良いなんて、思えないし。政略にでも使われたのよ」
王室主催の舞踏会でのデビュタントは、誰でも参加できるものではなかった。
毎年、わずか数名――各家から推薦された、格式と注目を集める令嬢のみが“公的に”選ばれる。
多くは将来的に王家の後継や、その周辺と深く関わる可能性のある立場に限られており、いわば“表舞台”への正式な登壇として扱われていた。
だからこそ、ノエリアの名がそこに並んだ瞬間、周囲の空気はにわかに色めき立った。
淡い桃色のドレスに身を包んだノエリアが、白い大理石の階段を静かに下りてきた。
その静かな所作と、にこやかにたたえられた微笑みに、息をのむような静寂が訪れた。
控えめでありながら、どこか凛とした品がある。
作られた美ではない、育まれた強さと優しさが、そこにあった。
そしてノエリアは思う――
――この桃色のドレスは、不思議なほど、私という人間にぴたりと馴染んでいるわ……と。
生地の質感も、装飾の繊細さも、まるで、誰よりも私を理解する人たちが、
私の歩き方や仕草までも思い浮かべながら、最も自然に映るように――丁寧に選んでくれている気がした。
あのときは、ただ静かに指示を出しているだけのようにも感じた。
けれど今なら、少しだけわかる気がする。
あれはきっと――私への、言葉にならない愛情だったのだと。
ノエリアは、胸を張って笑うことができた。
「……あれが、あの子……?」
会場の一角、遠巻きに立つ令嬢たちのさざめきが、次第に沈黙に変わっていく。
だがそのなかで、ただひとり――カティア・セレスタンだけは、変わらず美しく微笑んでいた。
誰が見ても、優雅で礼儀正しい貴族令嬢として。
けれど、その目の奥に――ほんの一瞬、わずかな揺らぎが走った。
ノエリアの姿が、視線を集めている。
彼女の所作や笑みが、周囲の注目をさらっている。
「……なぜ?」
カティアの心の奥で、小さなざわめきが生まれる。
それは明確な敵意ではなかった。まだ、感情にもならない感覚。
けれど私は、それを見逃さなかった。
記録官としての嗅覚が告げていた――これは、“兆し”だと。
今はまだ、証拠も整合もない。
記録にも記せぬ、整合不能な“兆し”だ。
けれど、それは確かに、制度の外側で芽吹いた“悪意”だった。
(……まだ、動けない。だが――きっと、証拠が取れる日が来る)
その瞬間、私の中で何かが始まった。
ノエリアを包む柔らかな光と、向けられた敵意のあいだにある温度差が、事件の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
記録は、まだ何も語っていない。
けれど――裁きの布石は、静かに、そこに打たれたのだった。
今回もお読みいただき、ありがとうございました!
最近はもう、書きたい気持ちが止まらなくて、ほぼ1日~2日ごとに1話分を書き連ねているような状態です(笑)
そのぶん物語の世界もどんどん深まってきて、ようやく“事件の核心”に向けて動き出したかな……。
これから先、リディアの視線の先にあるものが、少しずつ明らかになっていく予定なので、よろしければ引き続きお付き合いください。






