3.偽りは、静かに整えられて
こんにちは、朝比奈ゆいかです。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
今回の第3話では、静かに積み重ねられてきた違和感が、ひとつの“形”となって現れます。
けれど、それはまだ――ほんの入口にすぎません。
表に見えるものと、静かに進んでいたこと。
そのどちらもが、ゆっくりと交差していくような回です。
誰かの声が、ようやく届く。
その瞬間を、見届けていただけたら嬉しいです。
――だんだんと、社交界の空気は静かに変わり始めた。
はっきりとした事件が起きたわけではない。ただ、言葉にならない澱のようなものが、誰の意図とも知れぬまま、ゆっくりと広がっていた。
「……そういえば、あの舞踏会の夜も、やけに話題になっていたわよね」
「王子が自分から話しかけたんですって?」
「そう。けれど“あの子”は、それをまるで当然のように受け入れていたとか」
人々の記憶は曖昧で、誰かの言葉に少しずつ形を与えられながら、いつのまにか“都合のいい物語”として再構築されていく。
たとえば。
「……昔、子爵家にいた頃――召使いに手を挙げたことがあるらしいわよ」
「ええ、小さい頃は、手がつけられないほどわがままだったって。家の中でもずいぶん手を焼かれていたそうよ」
「それが急に、ああして“完璧”に淑女らしく振る舞えるなんて、逆におかしくない?」
言葉は、事実と嘘の境界を曖昧にしながら広がっていく。誰もが“本当かどうか”を確かめようとはせず、ただ、耳に心地よい噂を選び取っていく。
だがその静かな波紋では、彼女の怒りも焦りも、満たされることはなかった。
「……まだ、足りないのよ」
カティア・セレスタンは、扉の内側で唇を噛みしめた。
父の言葉が頭をよぎる。「お前は、何もするな。お前の出る幕ではない」
けれど。
――じっとなんて、していられない。
あの夜のことを思い出す。舞踏会で、ノエリアが浮かべていた“笑顔”を。
あの表情が、まるで「私はあなたよりも優れている」と言っているようで――吐き気がした。
カティアの存在など、最初から“見えていなかった”かのように、あの子は王子と笑い合っていた。
あの笑い方だけは、今でも脳裏にこびりついて離れない。
静かに人を突き放すような、余裕のある笑顔。
あの時点で、すべてが決まっていたのだ――そう思わせるような。
「……協力してくれるわよね?」
それは後日、彼女が密かに声をかけた男爵家の次男――ロディス・フラーナム。
かつて舞踏会でノエリアと踊った彼は、カティアに淡い恋心を抱いている一人だった。
「彼女、あの夜……私に直接何かを言ったわけじゃないの。でも――わかるでしょ? あの“態度”。」
少しだけ声が震えていた。怒りというよりは、屈辱に似た痛みが滲む。
「まるで、私なんて眼中にないって顔をしてたの。
それだけならまだしも――周りが、ざわめいていたのよ。
“あの子の方が王子にお似合いかもしれない”なんて……」
そこまで言ったカティアは、唇をかみしめる。
「私が、誰より努力してきたことも知らないで……。
どうして“あの子”なんかに――そんな風に言われなきゃいけないの……?」
淡い恋心を抱いていた青年は、
カティアの、今にも泣き出しそうな表情に、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
あの夜のことは、特に異常な出来事だったとは思っていない。
けれど――彼女があれほどまでに傷ついているのなら、きっと何かあったのだろう。
「……わかりました。僕にできることがあれば」
その言葉に、カティアは安堵の笑みを浮かべた。
しかしそれは、涙をにじませた仮面の奥に潜む、
――勝ち誇った者の微笑み。
「ありがとう、ロディス。あなたは、やっぱり優しいわ」
彼女の声は柔らかく響いたが、その胸の内には、別の言葉があった。
(これで、ひとつ目。)
エルヴァン・トリュークは、地方の男爵家の三男として、貴族社会では特筆すべき地位を持たなかった。
けれど彼には、王都の舞踏会に一度だけ招かれたという小さな誇りがあった。
しかもその夜、評判の令嬢――ノエリア・レストールと踊ったことは、彼の中でささやかな自負として胸に残っている。
そんな彼に、ある日突然、カティア・セレスタンから声がかかった。
「……あの夜、ノエリア嬢がどんな風に振る舞っていたか、覚えていらっしゃるかしら?」
優雅な身のこなしで近づいてきた彼女は、寂しげな微笑を浮かべながらそう問いかけた。
「あの子の態度……どこか、あなたを見下しているように感じたの。
まるで“自分はもっと上の相手と踊るべき”とでも言いたげな、そんな視線を、何度も向けていたわ」
彼女の声に怒気はない。ただ、ほんの少しだけ唇を震わせて、悲しみを滲ませる。
エルヴァンの心が、わずかに揺れる。
あの夜のノエリアは、確かに礼儀正しく振る舞っていたが――あれは“見下されていた”という態度だっただろうか。
「……それに、そのあと……」
カティアは伏し目がちに言葉を続けた。
「……あの子、あなたについて、“下品”だとか、“笑顔が気味悪かった”とか……。
そんなことを……笑いながら、誰かに話していたの。……口にするのも、申し訳ないけれど」
囁くような声。それでも、その響きは鋭く、心に残る。
ノエリアがそんなことを――。
あの夜の温和な微笑みが、突然、別のものに変わる。
「……そう、ですか……」
カティアのまなざしは、今にも涙をこぼしそうなほど儚げだった。
その瞳に胸を締め付けられるような感覚を覚えた彼は、ふと、こう思ってしまう。
――あの子の裏の顔を、自分は見抜けなかったのではないか、と。
「……僕にできることがあれば」
小さな呟きが、沈黙の中に溶ける。
それを聞いたカティアは、そっと微笑んだ。
その瞳に浮かぶ色が、同情か安堵か――それを見分ける術を、エルヴァンは持っていなかった。
レオネル・ヴェルンステッドは、侯爵家の一人息子として、厳格な父と穏やかな母に囲まれ、誠実に育てられてきた。
争いを嫌い、穏やかでまっすぐな性格の彼にとって、同じく控えめで誠実なノエリアとの婚約は、心から喜ばしい出来事だった。
そんな彼に、とある社交の場で、カティア・セレスタンが近づいてくる。
「ノエリア嬢は……王子に気に入られているのでしょう? 舞踏会での立ち居振る舞いは完璧だった。悔しいけれど、まるで未来の王妃のようで……」
その一言が、レオネルの胸に小さな棘を刺した。
「彼女、あなたに何か言っていましたか? ……王子に心が向いているような気がするって、彼女のお友達が相談されたらしいのだけど……」
カティアは、涙を堪えるように瞳を伏せ、声を落とす。
「あなたの気持ちを、彼女が本当に受け取っているのか――私は、不安なの。
今では皆が、彼女はもう“次”を見ているって……そう噂しているわ」
戸惑いに揺れるレオネルに、彼女はそっと囁いた。
「……一度、彼女との婚約を解消してみたらどうかしら。
少しでも評判が落ちれば、王子との縁談は流れるはず。
その後で、あなたが彼女を支えてあげれば……」
少しだけ言葉を詰まらせる。
「“誰も手を差し伸べなかった時に、そばにいてくれたあなた”に……きっと、彼女の心は向くわ。
あなたなら、彼女を守れると……私は、そう思うの。あなたもノエリア嬢に好意を寄せていらっしゃるんでしょう?」
カティアの声は、あくまで優しく、そして同情的だった。
だがその内側に、静かに張り巡らされた罠があることを、レオネルは知る由もなかった。
カティアは、さも“困った相談”のように切り出しながら、さらにゆっくりとレオネルの思考に“疑念”という名の染みを広げていく。
「実は私、聞いてしまったの。彼女が、“王子のほうから近づいてきたのよ”って……笑いながら話すところを」
「……そんな、ノエリア嬢が……?」
「ええ。それだけじゃないの。『婚約者より、私の方が似合うって王子に囁かれた』って――」
言葉の真偽を確かめる術はなかった。
だが、彼女の“話し方”には、不思議な説得力があった。
まるで、それが“事実であること”を前提とした、ごく自然な会話のように。
そして、それ以上にレオネルの心を揺らしたのは――カティアの微笑だった。
どこか哀しげで、寂しそうで、それでいて、ほんの少しだけ“期待”を宿したような表情。
まるで、今にも傷ついて崩れてしまいそうなほど、儚くて。
「……私は、ノエリア嬢が悪い子だと思いたくはないの。でも……このままだと、あなたが捨てられてしまうかもしれない」
「…………」
レオネルは黙って、拳を握った。
本当は、ノエリアのことを信じたかった。
けれど、王子の好意は確かに“事実”として噂になっていた。
自分の知らぬところで、なにかが始まっているのかもしれない――そんな焦燥が、ゆっくりと胸に滲んでいく。
「このまま何もせず、すべてが王子の思い通りになってしまったら……それこそ、ノエリア嬢にとっても、よくない未来が待っていると思うの」
それは、言葉巧みにすり替えられた“提案”だった。
名誉のために、そして“ノエリアのためにも”、何かしらの手を打つべきだと――。
「……君は、どうすればいいと思う?」
レオネルの問いに、カティアはゆっくりと視線を落とす。
「――まずは、“王子との噂が本当かどうか”を、確かめてみたらどうかしら?」
その言葉に頷いたレオネルの胸中にあったのは、怒りではなかった。
ただ、不安と、喪失への予感。そして――彼自身が気づこうとしなかった、“彼女への疑い”。
それはやがて――告発という形で、表に現れていくことになる。
*
時は戻り、現在。
審問の場では、すべての証言が出揃い、静けさだけが広がっていた。
「被告、ノエリア・レストール」
進行官の事務的な声が、静まり返った広間に落ちる。
「本件において、自らの潔白を示す証拠、または虚偽の告発を裏づける証言はありますか?」
しばしの沈黙の後、ノエリアはほんの少しだけ顔を上げた。
「……いいえ。用意できてはおりません。……ですが……無実です」
その声はかすかに震えていたが、確かな意思を含んでいた。
再び、沈黙が広がる。
重く、痛ましいほどの静寂――
誰もが次の言葉を待つ中で、
王は、手元の書類にゆっくりと指を添え、進行官と短く視線を交わす。
その無言の合図に従い、進行官が一歩前へと出て、静かに読み上げを始めた。
「本件において、提出されたすべての証言と陳述に虚偽および誘導の事実が確認されております。また、告発以前に、意図的な印象操作が複数の記録上に認められました」
空気が凍りつく中、王は重ねて言葉を発した。
「それについてはこちらに証拠がそろっている。第一に、ノエリア・レストールの名で送られたという“贈答品”について――該当の包み紙には、レストール家専用記録紙のシリアルナンバーが確認されている。レストール家の帳簿と照らし合わせた結果、2枚ともノエリア・レストールからレオネル・ヴェルンステッドに送られたプレゼントに使用されたものとなっている。だが、中身の品は、カティア・セレスタン嬢が別経路で購入・準備していたものであり、その経緯も証拠記録により立証されている」
傍聴席にざわめきが走る。
「第二に、舞踏会における“密会”の証言について――提出された複数の証言の中には、被告ノエリア・レストールが《実際には出席していなかった舞踏会》の場面を含むものがあり、既に記録上、その欠席が確認されている」
「また、出席が確認されている舞踏会に関しても、“密会があった”とされる時間には、既に会場を後にしていたことが移動記録および補導員の照合記録により証明されている」
「加えて、証言者同士の発言には時間帯や状況において複数の食い違いが見られた。これらを総合し、証言は整合性を欠き、意図的な共謀の可能性が高いと判断された」
王は一瞬、書類から視線を上げ、沈黙の中で広間を見渡した。
「……以上の諸点を踏まえ、本件は虚偽証言と記録捏造に基づく構成であると認定する」
「まさか、既にそこまで……」誰かの呻きが、場の空気を裂いた。
レオネルは言葉を失い、ただ目を逸らす。
カティアは、まるで噛み砕くように唇を押し殺した。
もう、言い逃れの余地はなかった。
「よって――カティア・セレスタンおよびレオネル・ヴェルンステッド、ならびに関与が認められた下級貴族数名に対し、社交界からの無期限追放を命ずる」
それは、公の場で下された決定であり、事件は一応の終結を迎えた。
傍聴席の静寂を切るように、ノエリアの肩がわずかに震える。
(……どういうこと?)
今、広間に響いた王の言葉。それは確かに、自分の名誉を守るものだった。
(いったい、誰が……?)
戸惑いの中、ふと視線を彷徨わせる。
だが、裁きの場にいる誰もが、まるで最初から何もなかったかのように、静かに沈黙を守っていた。
答えは、どこにもなかった。
けれど、確かにひとつだけ、心に残る感覚があった。
――“信じてくれていた誰か”が、ここにいたのだ。
それだけが、彼女の震える胸に、静かに灯るように残されていた。
だが、その翌日――
王は私室で、改めて査問会開催が通知されたその日に提出された《精査完了報告書》に目を落としていた。
そこには、あの日読み上げた内容と同様の文言が、冷静な筆致で綴られていた。
「形式上は終結として扱ってください。ただし、確認された矛盾に基づき、調査続行を申請します」
――クラヴィス継承者 リディア・レストール
報告書を再度読み終えた直後。
扉が勢いよく開き、王子が駆け込んでくる。
「……夢を見ました」
王子の顔には、深い動揺が刻まれていた。
王は静かに目を伏せ、呟いた。
「……お前も、継承したか」
そして、次の裁きが――静かに幕を上げる。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
『婚約破棄、それは静かな布石』は、ひとまずこの第3話で一区切りとなります。
ここで終わったとしても、ある意味で「一冊の物語」として読めるよう意識して構成しました。
ですが――リディアの布石は、ここで終わりません。
ここから先は、少し間を置きながらの更新になるかもしれませんが、引き続き物語は続いていきます。
物語の進行状況や更新情報は、Xでも少しずつ発信していこうと思っています。
よろしければ、そちらも覗いていただけたら嬉しいです。
それではまた、次の裁きのときに。