2.嫉妬と陰謀の芽生え
こんにちは、朝比奈ゆいかです。
前回の投稿を読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます!
今回の第2話では、少しずつ空気が変わり始めます。
でも、まだ物語は静かなまま――ただ、その静けさの中に、言葉にならない揺らぎが差し込んできたような、そんな回です。
読む方によって、感じるものはきっと違うかもしれません。
その違和感が、これから少しずつ形になっていくように進めていきたいと思っています。
それでは、静かな続きをお楽しみください。
静寂に沈む審問の間で、ノエリアの声は誰に届くこともなく消えていった。
そのとき、王席近くで、紙のめくれる音がひとつ、微かに響いた。
それは、すべての始まりへと記録が遡る合図だった。
――あの夜、舞踏会の煌めきの中で、すべてが動き出したのだ。
ノエリア・レストールが初めて社交界に姿を現した夜は、月光に照らされた王宮の大広間に、無数の灯がきらめいていた。
控えめな桃色のドレスに身を包んだ彼女は、華やかな大広間の中では決して目立つ存在ではなかった。
けれど、その一歩一歩には静かな気品が宿り、ふとした仕草ににじむ優しさが、見る者の心を柔らかく撫でていく。
無理に飾ることなく、自然に――その佇まいが、かえって目を引いた。
通り過ぎる貴婦人たちも、知らず知らずのうちに視線を向けてしまう。
可憐で、どこか儚げで、それでいて凛とした強さを秘めた少女。そんな不思議な魅力が、ノエリアのまわりにそっと静かな光を灯していた。
言葉少なに微笑みを返し、丁寧に礼を尽くす姿に、幾人かの年長の貴婦人は、彼女の立ち居振る舞いを一瞥して、ささやき合った。
「たしか、元はエルヴィン騎士家の娘だったかしら……今のレストール家で、よほど丁寧に教育されているのね」
「侯爵家の婚約者となれば、それも当然よ」
その声には、驚きと一抹の感嘆が混ざっていた。
そんな中――王子が、動いた。
第一王位継承者、セディリウス・ヴァルメリア王子。
彼の視線は、開宴から幾度となく、舞踏会場の片隅に立つ少女へと向けられていた。控えめな佇まいながら、気品と礼節をにじませる姿。あれが、あの“レストール家”に引き取られたノエリアという少女――そう耳にしていた。
――あの家の者が、社交界の場に姿を現すなど珍しい。
セディリウスは、王である父がごくまれにレストール家の当主と密談していることを知っていた。けれど、その理由は明かされない。なぜか舞踏会などへの招待も断られ、社交の表舞台から遠ざかる存在であるにもかかわらず、なぜ父は彼らに会うのか――。
その一族に、突如として引き取られた少女。そして、すぐさま侯爵家との婚約話。あまりにも不自然だ。
まさか、裏に何かあるのでは――そんな疑念が、彼の中にあった。
とはいえ、少女を詮索するつもりはなかった。ただ、あの冷たいと噂される家で、不当に扱われていないか、それだけが気がかりだった。
だから、彼は歩み出る。誰よりも自然に、迷いなく。
「踊っていただけますか?」
そう、柔らかく声をかけたとき、ノエリアはわずかに戸惑い、視線を落とした。恐れ多い――そう口に出さずとも伝わる仕草。
けれど王子は、まるで旧友にするような親しさで、手を差し伸べる。まなざしには、ただの善意がこめられていた。
舞踏の音楽が始まる。
二人は輪の中心へと進み、軽やかに一曲を舞う。
――その姿は、まるで絵画だった。
無理のない距離感、絶えず交わされるささやかな微笑み。
どちらかが一方的に背伸びをしているようには見えない、均衡のとれた空気。
その印象が、観る者の胸に柔らかく残る。
踊りながら、王子がそっと口を開いた。
「初めての舞踏会だと伺いました。まずはデビューおめでとうございます。緊張はしていませんか?」
「ありがとうございます。……実は少し……緊張しています。でも、レストール家の皆さまが家庭教師を手配して下さり、礼儀作法や舞踏の練習についても丁寧に教えてくださって……だから、今日のような場でも、なんとか形にできているのかもしれません」
「……うまくできているかどうかは分かりませんが、教えていただいたことを思い出しながら、なんとか……。殿下のお言葉が、とても励みになります」
その言葉に、王子は軽く目を細める。
どこか測るような視線だったが、言葉は柔らかかった。
「レストール家に迎えられて、もう一年でしたね。……家の中では、うまく過ごせていますか?」
「はい。伯爵様もお義姉様も、とても温かく接してくださいます。家庭教師も素晴らしい方で、毎日が本当に学びの連続です」
「それは……意外でした」
ふとこぼれた王子の言葉に、ノエリアが目を瞬かせる。
「……意外、ですか?」
「いえ、失礼。ただ……レストール家って、どこか近寄りがたい印象があって。……なんというか、社交の中でも、少し特別な距離を保たれているような気がして……」
「あ……もしかして、何か誤解されていませんか?」
ノエリアは少し肩をすくめ、小さく笑う。
「……確かに、伯爵様もお義姉様もあまり感情を表には出されませんし、冷たいと思われることもあるかもしれません。でも……優しい方たちです」
「優しい、ですか」
「はい。……言葉は少なくても、行動で支えてくださっているのが伝わってきます。お義姉様も、私の学びを静かに見守ってくださっているような気がして……」
ノエリアの答えは、どこまでも曇りなく、まっすぐだった。
嘘もお世辞も感じさせないその言葉に、王子はふと、自分のほうが見透かされているような気がして、思わず照れくさく笑った。
「……なるほど。少し探りすぎましたね」
「ふふ。いえ、よく聞かれるので……慣れています」
そんなやり取りの合間にも、舞曲は優雅に続く。
形式通りの踊りの中に、ふとした拍子に交わされる微笑が、柔らかな空気を生んでいた。
それは、あくまでも礼儀の延長にある穏やかなやり取り。
――けれど、見る者すべてがそれを正確に汲み取るわけではない。
「……お似合いですわね」
「まさか王子が、あの子に……?」
そんな囁きが周囲から聞こえてくる中、カティア・セレスタンはひときわ静かな瞳で、その様子を見つめていた。
整ったブロンドの髪を肩に流し、カティア・セレスタンは、グラスを片手に貴族の一団と談笑していた。
話の輪の中心にいながら、上品な笑みを崩さず、言葉も所作も申し分ない――まさに公爵令嬢の鑑と呼ぶにふさわしい姿だった。
けれど、彼女の指先はグラスの縁を何度も撫でていた。
白魚のようなその指が、かすかに震えていたのを、誰も気づいてはいない。
(私が……筆頭候補なのに)
王子の婚約者候補の中でも、セレスタン公爵家の娘である自分は、名実ともに“最有力”のはずだった。
他に候補がいるとはいえ、どれも伯爵か侯爵。しかもその中には、あの“子爵家出身”の少女など本来入り込む余地すらないはず。
(どうして、あんな子が王子と……)
舞踏の輪の中心、ノエリアと王子が踊る姿が視界の端に映る。
まるで絵画。そう囁いた者がいた。
彼らの間に流れる穏やかな空気に、周囲の視線はすっかり奪われていた。
(あの程度の子が“お似合い”だなんて、冗談じゃない)
自分じゃない少女が、王子の隣に立ち、注目を浴びている。それが、たまらなく屈辱だった。
(伯爵家に引き取られただけで、何を勘違いしているの?)
ふと、隣にいた貴族の夫人が「まあ……舞踏、様になっていたわ」と感嘆交じりに呟いた。
その言葉に、カティアは笑みを保ったまま、手元のグラスにそっと口をつける。
視線の先では、王子とノエリアが静かに踊りを終え、それぞれの立ち位置に戻っていた。
けれど――その一曲が、確かに印象として残っている者は多かった。
(……気のせいよ。どうせ一度きりの形式的なもの)
そう思い込もうとした。けれど、舞踏会が終わった翌日、街の声は想像よりもずっと速く広がっていた。
「昨夜の舞踏、見ました?」
「王子と、あのレストール家の養女。……妙に気品があったわね」
「王妃様、婚約者候補の選定に動いていらっしゃるらしいのよ」
「まさか、あの子の名前が挙がるんじゃ――?」
声の一つひとつが、小さな棘のようにカティアの耳を刺した。
まだ決定など何もない。ただの噂。それでも、事実のように広がることが何より不快だった。
彼女の心には焦燥が芽生えていた。
王子の視線に特別な意図などなかったはず。けれど、周囲はそれを勝手に想像し、形を与えていく。
――そして、午後。
カティアはセレスタン公爵の執務室を訪ねた。
普段は慎ましやかに振る舞う彼女が、このときばかりは無言で扉を閉め、自ら進んで椅子へと腰を下ろした。
公爵はその動作に一瞬だけ眉を動かしたが、言葉にはせず視線だけを向ける。
「お父様……申し訳ございません。舞踏会のことで、少しお話ししたくて……」
カティアの声は低く落ち着いていたが、指先は膝の上でわずかに揺れていた。
公爵は頷き、書類に挟んでいた栞を静かに閉じる。
「ノエリア・レストール……か」
それは、答えを聞くまでもないというような声音だった。
セレスタン公爵は書類を閉じ、椅子を引き、机越しに視線を向ける。
その沈黙が、すでに状況を理解していることを示していた。
「……王子の婚約者候補を最初に絞るのは、王妃だ。つまり、王子の母君が“誰を正式な場に上げるか”を決める」
淡々とした声だったが、その裏にある意図は明確だった。
――その時点で、候補として名前が挙がれば、それだけで“選ばれうる存在”になる可能性が生まれる。
「事実と噂が積み重なれば、たとえ出自に不安があっても、“ふさわしい”という空気が形になっていく。そうなる前に、可能性は少しずつ潰しておくべきだ」
カティアは無言で頷いた。その瞳の奥には、氷のような静けさと、焦りにも似た苛立ちが同居している。
「露骨な否定は必要ない。周囲に“なぜ彼女が?”と疑問を抱かせれば、それだけで充分。……選ばれにくい空気を、ゆるやかに作るんだ」
公爵はゆっくりと席を立ち、窓の外へと視線を投げた。
午後の光が差し込むその背中は、あまりにも静かで、あまりにも冷ややかだった。
「たった一夜の舞踏会で、“お似合い”と浮かれさせるような空気など、最初から存在しなかったと思わせることが肝要だ――本人たちにも、周囲にも」
「……分かりました、父上。あの子が、“自分の立場も分からず”笑っていられる空気だけは、許せません」
その言葉に、公爵は振り返らないまま、かすかに口角を上げた。
「……お前は、何もするな。カティア」
娘の名を呼んだ声音は穏やかで、しかし決して拒めない重みがあった。
「この件は、私が適切に“整える”。お前の出る幕ではない」
カティアは一瞬だけ口を開きかけたが、何も言わず、静かにうなずいた。
その視線の奥には、納得ではなく、抑えきれぬ感情の澱が揺れていた。
その夜を境に、社交界の空気が、ごくわずかに変化し始めた。
持ち上げられすぎた称賛の言葉が、ふとした沈黙を呼び、
気づかぬうちに繰り返される比喩や婉曲が、どこか輪郭を曇らせる。
――たとえば、舞踏会での優雅な所作に対して。
「……一見、綺麗だったけれど……」
「でも、どこか……あの手の動き、育ちが出るというか」
「そうそう。昔の“素行”って、ふとしたときに滲むのよね」
――そして、いつしかこんな話も交わされ始めた。
「昔、子爵家にいた頃……召使に手を挙げたことがあったって聞いたわ」
「ええ、小さい頃はとにかく手がつけられないほどわがままだったって。家の中でも随分と手を焼かれていたそうよ」
「舞踏会ではお淑やかにしてたけど、ああいうのって、一朝一夕じゃ身につかないのよね」
「そうよね。ふとした所作に、育ちの差って滲むものだし……」
「それに、あそこまで完璧に振る舞えるのって、逆に不自然じゃない?」
「丁寧すぎて怖いのよ。まるで、“誰かに見せるため”の演技みたいで」
言葉はいつも、どこか曖昧で、悪意を隠していた。
だがそれが逆に、人々の想像を加速させていく。
“本当にいい子”なのか。
それとも、“そう見せているだけ”なのか。
確証などない。ただ、静かな違和感だけが、ゆっくりと社交界に広がっていった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
登場人物が増えたり、ちょっと不穏な空気が見え隠れしたりと……今回の回は、少しずつ“静かな変化”が始まるお話でした。
でも、まだまだこれは序章。
主人公たちの本当の想いも、未来の出来事も、これから少しずつ見えてくる予定です。
よければ、そんな主人公たちを見守るような気持ちで、お付き合いいただけたら嬉しいです。
また次回、お会いできるのを楽しみにしています♪