17.崩れゆく理の時代 -6-
意識は、さらに深く沈んでいった。
言葉も時の流れも曖昧になる。
ただ、問いだけが、意志に響いていた。
(……選ぶのか、この力を……)
確かに、何かが意志を問うている。
選ばねばならない。
これは――理に直結する魔術。
一度受け入れれば、その責務は己の血脈にまで及ぶ。
軽々しく選べるものではない。
(……だが俺は――)
迷いはなかった。
守りたいものがある。
共に歩みたい者がいる。
この歪みかけた世界を正さなければならない。
そのために、この力が必要だ。
意志が定まった、その瞬間。
全身に、じわりと熱が満ちていった。
それは炎のような熱ではない。
もっと深く、もっと静かで、骨の奥底にまで染み込むような、重い“熱さ”だった。
左手の甲に、ふっと温もりが走る。
その瞬間――理解した。
これは、“受理”の徴。
この身に――クラヴィス魔術の契約が、刻まれた。
皮膚の内側から――何かが紡がれていく感覚がある。
静かで緻密な力が、そこに宿っていく。
(……これが――)
胸の奥に、ずしりと責務が沈む。
世界に“定まった現実”を刻む魔術。
扱いを誤れば――理すら歪めかねない。
だが、必ず正しく使いこなす。
そう、心に誓った。
その誓いが静かに染み込んでいく中――
意識はわずかに浮上しはじめた。
冷たかった空気が、少しずつ温度を取り戻していく。
静かな余韻が、まだ胸に残っている。
瞼の裏に、かすかな気配を感じた。
「……っ、アルヴェン!?」
すぐ近くで、セオドルの焦りを帯びた声が聞こえた。
すぐ近くで、セオドルの焦りを帯びた声が聞こえた。
(……大丈夫だ)
意識は――とっくに戻っている。
ただ、いましがたまで体感していたものが、あまりに膨大で――
ほんのわずかに、呼吸と意識を整えていた。
……ほんの十秒ほど。
外の世界では、それだけの時間しか経っていない。
そして――ゆっくりと、静かに瞼を開いた。
しかし、セオドルにとっては、それがあまりに長く思えたのだろう。
「……っ、無事なのか? ……なんか今……手の甲、光ってたぞ……」
顔を寄せ、覗き込むようにこちらを見つめてくる。
鋭い眼差しの奥に、不安と焦りが滲んでいた。
(……そこまで心配されていたか)
ほんのわずかに胸が熱を帯びる。
アルヴェンは静かに瞼を開き、低く応えた。
「……問題ない」
短く、落ち着いた声だった。
「……ほんとか? ……なんか呪いとか、そういうんじゃ……」
「違う」
きっぱりと断じる。
セオドルは言葉を詰まらせたまま、こちらをじっと見つめていた。
(……気を使わせたな)
祭壇の空気は――変わっていない。
石板も、球体も、印鑑も、いまだそこに静かに佇んでいる。
だが――感じる。
(……明らかに、“見え方”が違う)
先ほどまで、文様にしか見えなかった石板の表面――
そこに、今ははっきりと“文字”が読めていた。
(……理解できる――)
意味が、脳裏に自然に浮かぶ。
それは、強制されたものではなかった。
(……これが、“受理”の結果か)
手の甲に淡く浮かぶ紋は、すでに沈静していた。
だが――身体の奥には、確かに“力”と“責務”が刻まれている。
すぐ横で――
「……ほんとに、平気なのか……?」
セオドルの低い声が聞こえた。
顔こそ平静を装っているが、声色には微かな揺らぎがにじんでいる。
アルヴェンは、わずかに視線を向けた。
「……問題ない。意識も明瞭だ」
短く返す。
それでも、セオドルの眉間の皺は消えなかった。
「……おまえ……手に……」
目線が、アルヴェンの左手に注がれている。
そこに浮かぶ淡い黒曜石のような紋――
セオドルは言い淀み――拳をぎゅっと握り込んだ。
(……もし、俺が止めていたら――……俺が代わりに触っていたら――)
そんな思考が胸をよぎっていた。
だが、それを口にはしなかった。
「……それ、何なんだ?」
努めて冷静な声を作る。
問いの形を取りながら――心は、なおもアルヴェンを気遣っていた。
アルヴェンはほんのわずかに視線を落とす。
(……“受理”の徴だ)
(だが――今は、まだ……)
それが何か――すべてを語るには、早すぎる。
それに、この力が持つ重さを、軽々しく説明できるものではない。
「……石板が――読めるようになった」
代わりに、そうだけを答えた。
事実であり――今、唯一言葉にできることでもある。
その間にも、左手の甲の紋は――
静かに、徐々に薄れはじめていた。
セオドルは、はっと目を見開いた。
「……読める? ……何が書いてあるんだ?」
すぐさま問い返す声には――
純粋な驚きと、なおも拭いきれぬ焦りがにじんでいた。
アルヴェンはわずかに頷き、石板の表面へと視線を向けた。
そこには――
いまや、明確な意味をもって読み取れる文字列が浮かんでいる。
その最後に――
《クラヴィス継承者 アルヴェン・レストール》
――という一文。
(……これが、“名” か)
クラヴィス。
その意味は――すでに深く刻まれていた。
けれど、この名を口にすることに、まだわずかな迷いが残っていた。
(……この責務を、軽々しく語ることは……できない)
それでも。
「――《クラヴィス継承者 アルヴェン・レストール》」
低く、静かに読み上げた。
セオドルは、息を詰めたまま、じっとその横顔を見つめている。
そして――わずかに声を震わせた。
「……それ……どういう意味なんだ?」
低く、問いかける。
焦りとも、戸惑いともつかぬ声。
だが――その奥には、確かな“心配”が滲んでいた。
アルヴェンは静かに石板を見つめながら、わずかに息を整える。
(……今、すべてを語るには……)
軽々しく説明できるものではなかった。
「……これは――」
ほんの少しだけ、言葉を選ぶ間。
「……この場では詳しくは話せない」
「だが――問題はない。あとで、きちんと説明する」
低く――だが確かな声で、そう告げた。
セオドルは、喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
視線にはまだ焦りと迷いがあったが――アルヴェンの静かな眼差しを見て、わずかに息を吐く。
「……ほんとに……何かあったら、言えよ」
そう小さく言い置きながら、セオドルは一度、視線を祭壇の方へと向けた。
その背に――アルヴェンが淡々と声を重ねる。
「……補足だが」
「知力と武力の上限が上がるらしい」
さらりとした口調だった。
セオドルはぴたりと動きを止め――思わず振り返った。
「……は? なんで武力も?
……お前、文武両道でも目指してんのかよ」
少し間を置いて――ぶつぶつと続ける。
「……ったく、そんなのまで備わったら、
世の姫様たちが放っとかねぇぞ。羨ましいやつめ」
ぶつぶつと続けながら――けれどその声音には、少しだけ安堵の色が混じっていた。
そんな様子を見て、アルヴェンはほんのわずかに口角を上げる。
「脳筋は――護衛だけしていればいい」
淡々とした声音だったが――微かに冗談めいた響きが滲んでいた。
セオドルは、しばし絶句したあと――肩をすくめ、息を吐く。
「……そりゃまた言ってくれるな」
軽く目を細めながら、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「けどよ――武力まで上がるとか聞かされたら、護衛の立場がねぇだろ」
軽口めかしてはいたが、その言葉の奥には――ほんのわずか、本気の色も混じっていた。
この国きっての剣士としての誇りはある。
それを越えられるとなれば――そう簡単に受け流せる話でもない。
だが、同時に。
アルヴェンが平然とこうしていることが――何よりも安心だった。
セオドルは――ひとつ、息を吐いた。
ちらりと石板を見やる。
さっきまで冗談めいたやり取りをしていたものの――
胸の奥には、まださきほどの後悔が残っていた。
(……もし、俺が――止めていれば)
けれど――引きずっていても仕方がない。
アルヴェンが「問題ない」と言った以上――今はそれを信じるしかない。
「……他のも、ちょっと見てみるか」
努めて軽い調子を装いながら、口にした。
そして――おもむろに手を伸ばした。
祭壇の上――黒曜石の印鑑へ。
アルヴェンは、それに気づいた瞬間――
「――待て」
声をかけようとした。
だが。
ほんのわずか――反応が遅れた。
さきほどまで交わしていたやり取り。
セオドルの心配。
和ませようとした自分。
ほんの数秒、気が緩んでいた。
だから――セオドルの動きに、一瞬、遅れてしまったのだ。
「……っ」
指先が、印鑑に触れるのが見えた。
(……しまった――)
その瞬間――
淡い光が、にじみ出た。
「――セオドル!!」
思わず声が上がる。
セオドルの身体が、微かに震えはじめた。
苦しげに眉をひそめ――そのまま、意識を手放していく。
(……っ、これは……!)
アルヴェンの胸に、不穏な予感が走る。
自分のときには――起きなかった現象。
アルヴェンはすぐさま駆け寄り、その身体を受け止めた。
(……っ、俺のときは――こんなことは……!)
脳裏に、焦燥が走る。
――止められなかった。
判断が、遅れた。
(……こんな、はずじゃ……っ!)
強く抱き留めたまま――
アルヴェンの瞳に、焦りと苛立ちが滲む。
闇のように――静寂が満ちていった。