16.崩れゆく理の時代 -5-
静かな空気だった。
二人は、祭壇の前に立っていた。
黒曜石の石板。
宙にわずかに浮かぶ黒曜石の球体。
そして、黒曜石の印鑑。
三つの遺物が、中央の箱台に整然と並んでいる。
それらは時間に埋もれたものではなかった。
いまも確かに“力”を保っている。
(……ここまで来たのは初めてだ)
アルヴェン・レストールは目を細めた。
この遺跡に挑んだのは、ずいぶん昔のことだった。
理が暴走し、ここが“危険区域”に指定されて以降は、足を踏み入れることさえ難しくなっていた。
理の乱れが強く、層そのものが変化し続けるため、進める道は毎回違っていた。
だが――今回は違う。
(……理の揺らぎが弱まっている今なら……)
そう判断して進んできた。
そのはずだった。
けれど――心の奥に、ほんのわずかな違和感が残っている。
(……なぜだ?)
なぜ今だけ、ここに至れたのか。
本当に理の状態が理由なのか――そんな疑問が、一瞬、胸をかすめた。
だがアルヴェンは思考を切り替えた。
(……今は考える時ではない)
ただ、これまでとは確かに違う何かがあった。
それだけは、理由もわからぬまま感じていた。
「……さっきまでより空気が重いな」
隣で、セオドル・カルナスが低くつぶやいた。
声の調子にも、わずかな緊張がにじんでいる。
普段の彼なら、もっと気軽な調子で話していただろう。
(……当然だ)
アルヴェンは静かに息を整えた。
(ここは、“選別”の場だ)
確かな理由があるわけではない。
だが、そうとしか思えなかった。
この空間だけが、妙に整っている。
浮かぶ球体も――ただの飾りではなく、何かを待っているような存在感がある。
「……動かないのか?」
セオドルが小さく尋ねた。
「……少し、確かめている」
アルヴェンは短く応えた。
「ふぅん……」
セオドルは小さく息を吐き、それ以上は言わなかった。
ただ、視線は鋭さを帯びたまま、じっとアルヴェンの動きをうかがっていた。
普段なら、もっと軽口を交えて場の空気をほぐす彼が――
いまは無言で剣帯に手を添えている。
(……珍しいな)
その変化に、アルヴェンは内心で思う。
静かな時間が流れた。
アルヴェンは再び目の前の遺物に意識を向ける。
(……この空間の意図は……)
ただの装飾ではない。
球体も、石板も、明確な“意図”を宿している。
(……この男が、今ここにいるのも――)
もしここが“選別”の場ならば。
この男とともにここまで至ったことにも、何か意味があるのかもしれない。
アルヴェンは静かに一歩、前へと踏み出した。
それを見て――
「……おい」
セオドルが低く呼びかけた。
「おい、ちょっと待てって……
一緒に触った方がいいとか、そういうんじゃないのか?
……取り残されるとか、そういうのないよな……?」
焦り混じりの声が場に響く。
(……自分の身より、俺の方を――)
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
だがアルヴェンは、足を止めなかった。
「これは問題ないはずだ」
揺るがぬ声で、静かに言う。
セオドルは息を呑み、次の言葉を飲み込んだ。
「……ほんとに……気をつけろよ」
小さく重ねた声にも、わずかに未練が滲んでいた。
アルヴェンはわずかにうなずき、再び前へと進む。
石板の表層に浮かぶ淡い線が、かすかに揺れた。
文様のようなものが、ほんの一瞬、動いた気がした。
掌が触れた瞬間。
冷たい感触がじわりと広がった。
それはただの冷たさではない。
まるで意識の奥深くにまで染み込んでいくような、重い気配。
空間が――凍りついた。
背後で、セオドルの気配が強張ったのを、ぼんやりと感じた。
(……意識が、沈んでいく――)
思考がすっと深みに引きこまれていく。
そして、次の瞬間。
意識の中に――流れ込んできた。
……文字。
淡い光となって、石板の断絶文字が“意識そのもの”に焼き付いていく。
(……これは……)
理解できるはずのない古語。
体系も文法も不明な断絶文字――
だが今は、はっきりと“意味”がわかっていく。
読んでいるのではない。
理解させられている。
意識に、ひとつの概念が浮かぶ。
“理”。
(……世界を成す、根本の法則――)
時の流れも、存在の境界も、
空間の繋がりも、現象のすべても。
この世界を支える“見えざる骨格”。
それが“理”。
何人もそれを書き換えてはならない。
理の上に、世界が成り立っているのだから。
そして、“魔術”とは――
その理に沿って編まれた技術。
元は、人が理の流れに“共鳴”し、
そこから力を引き出す手段だった。
魔術は、本来――
理の枠を尊重し、その中で働くもの。
理に逆らわず、
理を壊さず。
理の秩序に従うことで、
はじめて世界に通用する“力”だった。
だが――
理を超えようとする者たちが現れた時。
世界は、崩れ始める。
整合は乱れ、歪みが生まれる。
……それでも。
理の本質を知る者たちは、
幾度となく、過ちを止めてきた。
時代が変わっても、
理の危うさを理解し、
その秩序を守ろうとする者たちがいた。
魔術の知、
理の知、
記録を積み重ね、警鐘を鳴らし、
知略と理性によって――
崩壊の危機を、何度も食い止めてきた。
だが、それは――
ほんの一握りの知者たちの意志に、
長きにわたり、支えられてきたに過ぎない。
もし、その力が追いつかなくなったら。
もし、理を超えようとする者たちが増え、
過ちが繰り返され――
知だけでは、
止めきれなくなる時が来たら。
その未来を見据えて――備えは作られた。
理の歪みを正し、
世界に――“動かしようのない現実”を刻む力。
それが、クラヴィス魔術。
世界の“理”そのものに関わるほどの――
重大な虚偽や歪みが放置されれば、
やがて、理は乱れ、
世界の均衡すら崩れかねない。
だからこそ。
整合された“出来事”だけを――
理と一体化させ、
世界に、“定まった現実”として刻む。
それが、この術の本質。
一度そうなれば――
いかなる虚偽も、偽りの記録も、
魔術による隠蔽も、権力による操作も――
それを覆すことはできない。
誰が何を言おうと、
どんな力を用いようと、
その“出来事”は、世界にとっての“真”となる。
――まるで、現実そのものを書き換える力。
本来、魔術とは――
未来を揺らし、可能性を広げるもの。
だが、この術は、逆だ。
“出来事”を、一つに定める。
いかなる力でも、変えられぬ“真”として。
それゆえ――強大であり、危険。
扱いを誤れば――
新たな歪みを生みかねない。
一度、誰かが歪んだ“真”を刻んでしまえば――
それすら、世界に残り続けてしまう。
だからこそ――
この魔術は、生まれつき備わるものではない。
選び、背負う意志があって、
はじめて、受け継ぐことが許される。
そして――
いったん受け継げば、
未来の世代にまで――その責務は続いていく。
“記録”と“整合”の系譜として。
だから――この場があり、
この“刻印”が存在する。
(……選ばせる、ということか……)
わずかに浮かんだその思いは、
次の瞬間、さらに深く――
意識の底へと沈んでいった。
石板の契約は、まだ終わっていない。