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婚約破棄、それは静かな布石  作者: 朝比奈ゆいか
第1章・婚約破棄事件と王国の秘密
16/21

16.崩れゆく理の時代 -5-

静かな空気だった。

二人は、祭壇の前に立っていた。


黒曜石の石板。

宙にわずかに浮かぶ黒曜石の球体。

そして、黒曜石の印鑑。


三つの遺物が、中央の箱台に整然と並んでいる。

それらは時間に埋もれたものではなかった。

いまも確かに“力”を保っている。


(……ここまで来たのは初めてだ)


アルヴェン・レストールは目を細めた。


この遺跡に挑んだのは、ずいぶん昔のことだった。


理が暴走し、ここが“危険区域”に指定されて以降は、足を踏み入れることさえ難しくなっていた。

理の乱れが強く、層そのものが変化し続けるため、進める道は毎回違っていた。


だが――今回は違う。


(……理の揺らぎが弱まっている今なら……)


そう判断して進んできた。

そのはずだった。


けれど――心の奥に、ほんのわずかな違和感が残っている。


(……なぜだ?)


なぜ今だけ、ここに至れたのか。

本当に理の状態が理由なのか――そんな疑問が、一瞬、胸をかすめた。

だがアルヴェンは思考を切り替えた。


(……今は考える時ではない)


ただ、これまでとは確かに違う何かがあった。

それだけは、理由もわからぬまま感じていた。


「……さっきまでより空気が重いな」


隣で、セオドル・カルナスが低くつぶやいた。

声の調子にも、わずかな緊張がにじんでいる。

普段の彼なら、もっと気軽な調子で話していただろう。


(……当然だ)


アルヴェンは静かに息を整えた。


(ここは、“選別”の場だ)


確かな理由があるわけではない。

だが、そうとしか思えなかった。

この空間だけが、妙に整っている。

浮かぶ球体も――ただの飾りではなく、何かを待っているような存在感がある。


「……動かないのか?」


セオドルが小さく尋ねた。


「……少し、確かめている」


アルヴェンは短く応えた。


「ふぅん……」


セオドルは小さく息を吐き、それ以上は言わなかった。

ただ、視線は鋭さを帯びたまま、じっとアルヴェンの動きをうかがっていた。


普段なら、もっと軽口を交えて場の空気をほぐす彼が――

いまは無言で剣帯に手を添えている。


(……珍しいな)


その変化に、アルヴェンは内心で思う。


静かな時間が流れた。


アルヴェンは再び目の前の遺物に意識を向ける。


(……この空間の意図は……)


ただの装飾ではない。

球体も、石板も、明確な“意図”を宿している。


(……この男が、今ここにいるのも――)


もしここが“選別”の場ならば。

この男とともにここまで至ったことにも、何か意味があるのかもしれない。


アルヴェンは静かに一歩、前へと踏み出した。


それを見て――


「……おい」


セオドルが低く呼びかけた。


「おい、ちょっと待てって……

 一緒に触った方がいいとか、そういうんじゃないのか?

 ……取り残されるとか、そういうのないよな……?」


焦り混じりの声が場に響く。


(……自分の身より、俺の方を――)


ほんのわずかに、口元が緩んだ。

だがアルヴェンは、足を止めなかった。


「これは問題ないはずだ」


揺るがぬ声で、静かに言う。

セオドルは息を呑み、次の言葉を飲み込んだ。


「……ほんとに……気をつけろよ」


小さく重ねた声にも、わずかに未練が滲んでいた。

アルヴェンはわずかにうなずき、再び前へと進む。

石板の表層に浮かぶ淡い線が、かすかに揺れた。

文様のようなものが、ほんの一瞬、動いた気がした。


掌が触れた瞬間。


冷たい感触がじわりと広がった。

それはただの冷たさではない。

まるで意識の奥深くにまで染み込んでいくような、重い気配。


空間が――凍りついた。

背後で、セオドルの気配が強張ったのを、ぼんやりと感じた。


(……意識が、沈んでいく――)


思考がすっと深みに引きこまれていく。

そして、次の瞬間。

意識の中に――流れ込んできた。


……文字。


淡い光となって、石板の断絶文字が“意識そのもの”に焼き付いていく。


(……これは……)


理解できるはずのない古語。

体系も文法も不明な断絶文字――

だが今は、はっきりと“意味”がわかっていく。


読んでいるのではない。

理解させられている。


意識に、ひとつの概念が浮かぶ。


ことわり”。


(……世界を成す、根本の法則――)


時の流れも、存在の境界も、

空間の繋がりも、現象のすべても。


この世界を支える“見えざる骨格”。


それが“理”。


何人もそれを書き換えてはならない。


理の上に、世界が成り立っているのだから。


そして、“魔術”とは――

その理に沿って編まれた技術。


元は、人が理の流れに“共鳴”し、

そこから力を引き出す手段だった。


魔術は、本来――

理の枠を尊重し、その中で働くもの。


理に逆らわず、

理を壊さず。


理の秩序に従うことで、

はじめて世界に通用する“力”だった。


だが――


理を超えようとする者たちが現れた時。


世界は、崩れ始める。


整合は乱れ、歪みが生まれる。


……それでも。


理の本質を知る者たちは、

幾度となく、過ちを止めてきた。


時代が変わっても、

理の危うさを理解し、

その秩序を守ろうとする者たちがいた。


魔術の知、

理の知、

記録を積み重ね、警鐘を鳴らし、


知略と理性によって――

崩壊の危機を、何度も食い止めてきた。


だが、それは――


ほんの一握りの知者たちの意志に、

長きにわたり、支えられてきたに過ぎない。


もし、その力が追いつかなくなったら。


もし、理を超えようとする者たちが増え、

過ちが繰り返され――


知だけでは、

止めきれなくなる時が来たら。


その未来を見据えて――備えは作られた。


理の歪みを正し、

世界に――“動かしようのない現実”を刻む力。


それが、クラヴィス魔術。


世界の“理”そのものに関わるほどの――

重大な虚偽や歪みが放置されれば、


やがて、理は乱れ、

世界の均衡すら崩れかねない。


だからこそ。


整合された“出来事”だけを――

理と一体化させ、


世界に、“定まった現実”として刻む。


それが、この術の本質。


一度そうなれば――


いかなる虚偽も、偽りの記録も、

魔術による隠蔽も、権力による操作も――

それを覆すことはできない。


誰が何を言おうと、

どんな力を用いようと、


その“出来事”は、世界にとっての“真”となる。


――まるで、現実そのものを書き換える力。


本来、魔術とは――

未来を揺らし、可能性を広げるもの。


だが、この術は、逆だ。


“出来事”を、一つに定める。

いかなる力でも、変えられぬ“真”として。


それゆえ――強大であり、危険。


扱いを誤れば――

新たな歪みを生みかねない。


一度、誰かが歪んだ“真”を刻んでしまえば――

それすら、世界に残り続けてしまう。


だからこそ――


この魔術は、生まれつき備わるものではない。


選び、背負う意志があって、

はじめて、受け継ぐことが許される。


そして――


いったん受け継げば、

未来の世代にまで――その責務は続いていく。


“記録”と“整合”の系譜として。


だから――この場があり、

この“刻印”が存在する。


(……選ばせる、ということか……)


わずかに浮かんだその思いは、

次の瞬間、さらに深く――

意識の底へと沈んでいった。


石板の契約は、まだ終わっていない。

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