15.崩れゆく理の時代 -4-
都市の外れ――理の歪みが濃く、まともに地図さえ引けない区域。
そこを、ふたりの影が静かに進んでいた。
「……今日の空、妙に静かだな」
セオドル・カルナスは、ふと空を見上げた。
頭上は昼とも夜ともつかぬ、淡い灰色。
だが今日は星も太陽も滲んではおらず――妙に“澄んで”いた。
「……理の濃度が落ち着いている」
隣を歩くアルヴェン・レストールが静かに言う。
歩きながらも、空間の微細な気配を読み取っているのがわかった。
(……たしかに、今日は空気が違うな)
セオドルは小さく頷いた。
「やっぱり、今日は来て正解だったか?」
「……そちらが“休め”と言っただろう」
「いやまあ、そうなんだけどな……」
セオドルは苦笑を漏らす。
「……しかし、よく分かったな。今日がこういう日だって」
その言葉に、アルヴェンの目がわずかに揺れた。
(……表情にでも出てたか?)
自分の表情を、ここまで正確に見抜かれたことはなかった。
元来、誰にも感情を読まれることなどなかったはずだ。
だがこの男は――
いつの間にか、そんなものまで見通してくるようになっている。
「……顔にでも、出ていたか?」
「さあな」
セオドルはにやりと笑って肩をすくめた。
(……まったく。ごまかし下手なやつだ)
アルヴェンは小さく息を吐いた。
だが、不思議と――不快ではなかった。
(……考えてみれば)
初めは、敵味方すら分からぬ中、ただ“来る者”として警戒していた。
だが、この男は――
距離を測り、余計な詮索もせず、必要な時だけ正面から向き合ってくれる。
軽口も多いが、肝心な場面では一切外さない。
(……こういうやつとなら――)
言葉にはしなかった。
だが、ふとそんな想いが胸をよぎる。
(――今の自分が、こういうやり取りをしているとは……)
わずかに、自嘲めいた息が漏れた。
「それで、どこへ行くんだ?」
「……行けばわかる」
「行けば、ねぇ……」
セオドルは、あきれたように呟きながらも、その背に歩を合わせた。
(……まあ、たまには、こういうのも悪くはないか)
(アルヴェンも――どこか楽しそうだしな。気分転換にはなりそうだ。……連れ出せて、よかったか)
そんなふたりが向かっていたのは――
《知識の断層》。
それは、かつて魔術文明が最盛期だった時代、深層知識と禁術の封印を目的に作られた遺跡群である。
今や、その内部は理の乱れが濃く、各勢力すら立ち入りを避ける“危険区域”となっていた。
そんな場所に、今――二つの影が踏み込もうとしていた。
「……おい、マジでここなのか?」
崩れかけた入り口の前で、セオドル・カルナスは呆れたように息を吐いた。
「道中から嫌な気配はしてたが……よりによって、ここかよ」
「比較的、理の流れが安定している地点が、今はここと判定された」
そう言って、隣のアルヴェン・レストールは淡々とした表情のまま、崩れた柱の配置を静かに見渡していた。
「……なぁ。俺、“たまには頭休めてこい”って言ったよな?」
「聞いていた」
「……だったらなんで、こんな場所なんだよ!
こんな物騒なとこ、連れてくんじゃねぇよ……」
セオドルは肩をすくめ、思わず苦笑した。
(まったく、こいつらしい……)
結局ここまで来た以上、今さら止めるつもりはなかった。
セオドルは剣の留め具を軽く整え、歪んだ石段に足をかける。
「……言っとくがな。俺が役に立つのは戦う時だけだ。
罠? 魔術? 全部そっち任せだからな」
「了解している」
「マジでだぞ? 絶対罠にはまるなよ?
もし俺が一人で迷ったら――……出られなくなるんだからな!」
「……その時は、気づいたら救助する」
「ちが……ちがう、気づいたらじゃなくて!
マジで、絶対助けに来いよ……!? 本気で、頼むからなっ……!」
「……了解した」
淡々と返すアルヴェンの声に、セオドルは「……マジだぞ……」と小さく呟きながら歩を進めた。
半ば本気、半ば冗談めかして。
そんな軽口を交わしつつ、二人は静かに《知識の断層》の奥へと踏み込んでいった――。
崩れた回廊に、足音が静かに響いていた。
歪んだ気配は濃い。
空気の中に、ひんやりとした重みが満ちている。
「……なんでまた、ここに目をつけたんだ?」
石段を下りつつ、セオドルがぼやいた。
「……今の理と制度に縛られない場は、ここと……あと数カ所だけだ」
アルヴェンは静かに応じた。
「考えるなら、ここが適している」
「適してる、ねぇ……」
セオドルは肩をすくめた。
(……いやいや、“休め”って言ったよな?)
(遺跡でも“のんびり眺める”くらいかと思ったのに……)
(なんで誰も攻略してない遺跡を、“攻略する”ノリで来てんだよ……!)
内心でツッコミを入れつつも――
そんなところもまた、“らしい”と思えてしまう自分がいた。
「……まあ、お前が楽しそうなら、それでいいけどよ」
ほんの冗談めかして言う。
「……楽しんでなどいない」
即座に返された。
「おっと、冗談だってば」
――そんなやりとりが自然に交わせるほど、今のふたりの間には確かな“気心”が芽生えていた。
ふと、前方の壁に複雑な文様が浮かび上がった。
「……罠、か?」
「思考誘導の結界だ。ここに入る者を“選別”する」
「選別……って、おいおい」
セオドルは片眉を上げた。
「俺、そんなので弾かれたりしないよな?」
「さあな」
アルヴェンが静かに微笑む。
「……おい、笑うな……!!!」
セオドルは思わず声を荒げた。
「いやマジでだぞ!? 弾かれたら、ちゃんと助けに来いよ? ひとりでここ戻るのは絶対無理だからな!?」
「……わかっている。そうなれば、救助する」
「ほんと頼むからな……」
内心の冷や汗を隠しつつも、ふたりは慎重に歩を進めた。
歪んだ空間に、ふっと圧が満ちる――
(……この結界なら、理を害する意志がなければ、通れるはずだ)
アルヴェンはそう判断していた。
この手の古い封印は“意図”を見る。歪みや破壊衝動を持つ者は通れないが――
案の定、ふたりはそろって、難なくその場を通過していた。
「……通れた、な」
「……意外と順応性はあるのだな」
「だろ? ……なんたって、筋力には自信がある」
「筋力が関係するのかは不明だが」
(……本当に、素でこうなのか……)
くす、とアルヴェンが口元を緩めた。
そんな応酬を重ねつつ、さらに奥へ――
やがて、一際広い空間にたどり着いた。
「……ここは……」
古びた黒曜石の柱がいくつも立ち並び、中央には低い祭壇のようなものがあった。
その中央に、黒曜石で組まれた箱台――そしてその上には、三つの遺物。
石板。
黒曜石の球体。
そして、黒曜石の印鑑。
それらは――明らかに、“今も”力を保っていた。
アルヴェンが、静かに前へと歩み寄る。
(……ここまで来られたのは、初めてだ)
この遺跡には、何度か挑んでいる。
だが、理の流れが乱れて層そのものが変化するたび、奥へは進めなかった。
ましてや、この“祭壇”の存在など――今まで、知る由もなかったのだ。
「……見つけた、か」
低くつぶやき、その目がわずかに細められた。
隣で、セオドルも静かに剣帯に手をかけた。
普段なら軽口のひとつも出すところだが、いま目にしたこの光景に、さすがの彼も気配を引き締めていた。
(……これは……)
言葉にならない気配が、場に満ちている。
――この時、ふたりはまだ知らなかった。
ここから先、すべてが動き出すことを。