14.崩れゆく理の時代 -3-
翌日――。
セオドル・カルナスは、再び荒れた街路を進んでいた。
だが今回は、一人ではなかった。
背後には、軍の年長者たちが二名、距離を取ってついてきていた。
かつては歴戦の将とも呼ばれた男たち――だが、いまは疲弊の色が濃かった。
「……本当に行くのか、カルナス」
「……こんな場所に、長くは……」
歪みに染まりつつある路地。
遠くの空は薄紫に滲み、昼とも夜ともつかない。
壁は傾き、影が伸び縮みしている。
わずかながら、“理”の影響が濃い区域だ。
「昨日は行って戻って来ることも出来たけど…」
「……それはお前が異常だからだ」
「……異常、ね」
セオドルは微かに笑った。
自覚はあった。
この体はやけに丈夫に出来ていると思う。
(……だから、俺が行く)
振り返らず、静かに歩を進めた。
軍の者たちは途中で止まった。
額にはうっすらと冷たい汗が滲んでいる。
「……悪いがこれ以上は無理だ…。ここからは申し訳ないが、また任せる」
「今回も生きて戻れよ」
短い言葉を残し、二人は踵を返した。
その背を見送り、セオドルは一人、歪みの中を進んだ。
やがて――
かつての評議会塔、崩れた外壁を抜けて、あの扉の前に辿り着く。
重い扉を押し開けた瞬間――
ふ、と空気が変わった。
(……?)
そこだけ、“歪み”の圧が薄らいでいる。
昨日も、確かにこの感覚はあった。
だが、その時は気づかなかった。
今――はっきりと分かる。
(……この空間だけ、整えている……?)
机に向かう青年の姿は、変わらなかった。
灰の髪は乱れず、指先は静かに記録をなぞっていた。
セオドルは、静かに歩み寄り、低く声をかけた。
「……今日も、来させてもらった」
アルヴェン・レストールは、僅かに顔を上げた。
「……来たか」
その視線は、後ろをちらりと見た。
「今日は途中まで、他に二人ほど一緒に来ようとしたんだが……」
「途中で限界寸前になってしまってな。結局ここまでは俺一人だ」
淡々と返すセオドルに、アルヴェンはほんのわずか、口元を緩めた。
「……なるほど」
また一枚、記録を置き、椅子に深く腰を掛ける。
「……体質か、資質か――」
一瞬、視線が鋭くなる。
「筋肉だけで“理”を押し通すとは、呆れるほかない」
静かな皮肉が、わずかに混じった。
セオドルは肩をすくめかけ――ふっと眉をひそめた。
(……言い方ってものがあるだろうが)
喉まで出かけた言葉を、ぎり、と呑み込む。
今は、そういうことを言い返している場合じゃない。
「……理屈のほうは任せる。俺は――前に進むだけだ」
短く、わずかに硬い声音で返した。
そんな応酬に――わずかに、空気が和らいだ。
この時まだ、互いの壁は厚かった。
だが、そのかすかな綻びが――
この後の“親交”へと繋がっていくのだった。
その日、セオドルは長く留まらず、
必要な情報だけを受け取り、静かに引き上げた。
(……次も、来よう)
内心でそう決め、彼は再び軍の拠点へと戻っていった。
翌日。
「また行くのか?」
「……また頼む。俺にしか行けない場所だから」
仲間たちの問いに簡単に応え、セオドルは再び、崩れた評議会塔へと歩を運んだ。
セオドルは静かに歩を進め、長机の前に立った。
以前に比べ、ここに漂う空気が――心なしか、柔らかくなっている気がした。
(……少し、馴染んだかな)
理の歪みが強いこの場所。
初めてここを訪れた時は、胸の奥まで重苦しさが沈み込んでいた。
だが今は――感覚が慣れたのか。あるいは、部屋そのものが調整されているのか。
机に向かうアルヴェンの姿は、今日も変わらない。
乱れぬ灰の髪。白磁のような指先。積まれた記録を淡々と捌いていく。
セオドルはわずかに喉を鳴らし、言葉を探した。
「……また、来させてもらった」
アルヴェンはふ、とわずかに息を吐く。
「……お前のほうこそ、よく歩いて来たものだ」
アルヴェンの目が、ちらとセオドルの顔を見た。
敵意も拒絶もない――ただ、無駄な感情を挟まぬ静かな視線だった。
「昨日より“理”の濃度が上がっている。……次は、保証できないぞ」
「保証なんか元から期待してないさ」
セオドルは苦笑し、軽く肩をすくめた。
その軽口に、アルヴェンは、わずかに目元を緩めた。
「……無謀な男だ」
そう言いながらも、すでに机の一角を空けている。
ここしばらく、同じやり取りが繰り返されていた。
この場所が、いま最も確かな“情報”を手にできる唯一の場であることは、誰の目にも明らかだった。
セオドルは、無理を押してでも通い詰めた。
たとえ軍の者たちが止めようとも。
「……昨日と今日、どう変わってる」
低く問う声に、アルヴェンは手元の図を静かに示した。
古い地図に、複雑な符号が書き加えられている。
「……この一帯、境界が崩れ始めている。おそらく、明後日までが限界だろうな」
「民の移動先、あるか?」
「あるにはある。だが……」
アルヴェンは小さく息を吐いた。
「……余裕はない。もたぬ者も出るだろう」
「……だろうな」
短く、だが深く――その現実を、セオドルは呑み込んだ。
感情を挟めば、判断を鈍らせるだけだ。
だがその姿を見て、アルヴェンの口から、ふと漏れた。
「……意外と、考えているのだな」
セオドルは肩をすくめた。
「言われ慣れてる。だが、一応これでも“長”の端くれでな」
その返しに――アルヴェンの肩がわずかに揺れ、口元もわずかに緩んだ。
その瞬間、空気が――微かに、和らいだ。
これまで、必要最小限の言葉しか交わしてこなかった二人。
だが、こうして言葉が返されるたびに、
無意識のうちに、互いへの“隔たり”が、わずかずつ解け始めていた。
セオドルは深く息を吐き、再び図面を覗き込んだ。
「……なら、動けるうちに民を移すか。余計な混乱は避けたいしな」
「……最短の動線は、ここだ」
アルヴェンの指が、正確に道筋を示す。
迷いも、躊躇もない。
「――助かる」
低く短く、その一言を残してセオドルは踵を返す。
去り際に――アルヴェンの声がかかった。
「……カルナス」
「ん?」
「……明日も来るのか?」
「――来る。必要がある限りはな」
その答えに、アルヴェンはただ、小さく頷いた。
こうして、通う日々が――
静かに、積み重なっていく。
*
数日が過ぎた。
セオドルは変わらず、日々この“崩れた評議会塔の一角”へと足を運んでいた。
軍の者たちは最初こそ心配していたが、今では――
「……まあ、セオドルなら大丈夫だろう」
半ば呆れたように、そう言うほどだった。
それほどに、彼の体は異様に“強靭”だった。
まさに、理に抗う筋力と生命力の塊のように――。
そして今や、セオドル自身にとっても――
ここの空間は、ただの義務ではなくなっていた。
歪んだ都市の中で、“正気”と“理”に裏打ちされた情報が、唯一手に入る場所。
そして――ほんのわずかだが、皮肉混じりのやり取りが、妙な“気晴らし”にもなっていた。
そんな想いとともに、今日もまた、扉が静かに押し開かれる――。
「……来たか」
変わらぬ空間、変わらぬ影。
相変わらずアルヴェン・レストールは、崩れた塔の奥――歪みの中心に、独り、座していた。
(……変わらないな)
セオドルは心中で苦笑する。
「……今日の道は少し歪みが薄かった。歩きやすかったぞ」
「……そうか。こちらでは逆に、“昨日”とは空の回転がずれていた」
そう言って、アルヴェンは微かな疲労を滲ませる。
見れば、その目の下には薄く影が落ちていた。
セオドルは、不意に眉をひそめた。
(またあまり寝てないな……)
通ううちに、だんだんとわかってきた。
アルヴェンは、休むという発想が抜けている。
ほとんど不眠不休で、記録と解析を続けている。
(……どう考えても、無理をしている)
一度はそれとなく言ったこともあった。
だが――
『俺が休めば、このわずかな均衡すら崩れる気がしてるんだ…』
そう返された。
その言葉に、強がりや慢心はなかった。
ただ――“責任”と、“焦り”が滲んでいた。
そして同時に――それが、危うい「思い込み」でもあることを、セオドルは薄々感じていた。
しばし、沈黙が落ちる。
静かに流れる時間のなかで、セオドルはふと問いかけた。
「……顔色が悪いぞ。食えてるか?」
「……今朝、少し」
「“少し”か……」
セオドルはわずかに眉を寄せた。
その時だった。
アルヴェンがふと、机の端に手を伸ばす。
「そういえば……今、“使える食料”はどうなってる?」
「携行食はあるぞ。味はともかく、腐らないやつだ」
セオドルは肩をすくめて答えた。
「なら――一つ譲れ」
「……言うようになったな」
セオドルは、くっと口元を緩めた。
「ついでにもう一つ言ってやろうか? 食わないと死ぬぞ」
それに――アルヴェンのほうも、わずかに口角を上げた。
「……さすがに、空腹で計算ミスはしたくないからな」
「ようやく学んだか、天才様」
「……言ってろ、脳筋」
軽く押し問答をしつつ、包みをひとつ机に置く。
それを受け取ったアルヴェンの手つきは、妙に丁寧だった。
――少しずつ、だが確実に。
ふたりの間の“壁”は薄れてきていた。
そして――。
通い始めて、半月ほどが過ぎたある日。
セオドルはいつものように、塔を訪れていた。
地図の更新、民の移動先、歪みの変化――情報を得るため。
そしてまた――例の皮肉の応酬も兼ねて。
だがその日は、扉を押し開けた瞬間、いつもと少し違う空気を感じた。
(……ん?)
机の奥で、アルヴェンがやや深く座っていた。
相変わらず疲労は色濃いが、目の奥に漂っていた極端な張りつめた空気――
それが、今日はわずかに薄らいでいる気がした。
(……今なら、少しは余裕がありそうだな)
セオドルは、静かに歩み寄った。
「……おい」
「……カルナスか」
応じる声に、いつものような張りつめた響きはなかった。
「……たまには、考えるのをやめろよ」
思わず、口から出ていた。
アルヴェンが静かに顔を上げる。
「……なんだ、急に」
「見れば分かる。……今なら少しは落ち着いてるんだろ?」
「このままじゃ、そのうち倒れるぞ」
「……それは避けたいところだが……」
「前に――お前、遺跡を見るのが好きだって言ってたろ」
「今のうちに行っとけよ。護衛ぐらい俺がついて行ってやる」
アルヴェンは、呆れたように息を吐いた。
「……言うようになったな」
「最近じゃ、寝るのも食うのも、俺が言ってやってるからな」
「……だが、なぜ貴様が俺の好みまで把握している」
「そりゃ――通ってりゃ分かるだろ」
「……脳筋のくせに、妙なところで観察眼が鋭い」
「便利な奴だろ」
「……いや、厄介だ」
そう言いつつ――アルヴェンはふっと肩を落とした。
「……まぁ、そうだな。今なら、行けそうだ」
その言葉に、セオドルは満足げにうなずいた。
こうして――。
ふたりは、“危険区域”とされていた古代遺跡――《知識の断層》へと向かうことになる。
それは、まだ誰も知らぬ“始まり”だった。