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婚約破棄、それは静かな布石  作者: 朝比奈ゆいか
第1章・婚約破棄事件と王国の秘密
14/21

14.崩れゆく理の時代 -3-

翌日――。

セオドル・カルナスは、再び荒れた街路を進んでいた。

だが今回は、一人ではなかった。


背後には、軍の年長者たちが二名、距離を取ってついてきていた。

かつては歴戦の将とも呼ばれた男たち――だが、いまは疲弊の色が濃かった。


「……本当に行くのか、カルナス」

「……こんな場所に、長くは……」


歪みに染まりつつある路地。

遠くの空は薄紫に滲み、昼とも夜ともつかない。


壁は傾き、影が伸び縮みしている。

わずかながら、“理”の影響が濃い区域だ。


「昨日は行って戻って来ることも出来たけど…」

「……それはお前が異常だからだ」

「……異常、ね」


セオドルは微かに笑った。

自覚はあった。

この体はやけに丈夫に出来ていると思う。


(……だから、俺が行く)


振り返らず、静かに歩を進めた。


軍の者たちは途中で止まった。

額にはうっすらと冷たい汗が滲んでいる。


「……悪いがこれ以上は無理だ…。ここからは申し訳ないが、また任せる」

「今回も生きて戻れよ」


短い言葉を残し、二人は踵を返した。


その背を見送り、セオドルは一人、歪みの中を進んだ。


やがて――


かつての評議会塔、崩れた外壁を抜けて、あの扉の前に辿り着く。


重い扉を押し開けた瞬間――


ふ、と空気が変わった。


(……?)


そこだけ、“歪み”の圧が薄らいでいる。


昨日も、確かにこの感覚はあった。

だが、その時は気づかなかった。


今――はっきりと分かる。


(……この空間だけ、整えている……?)


机に向かう青年の姿は、変わらなかった。

灰の髪は乱れず、指先は静かに記録をなぞっていた。


セオドルは、静かに歩み寄り、低く声をかけた。


「……今日も、来させてもらった」


アルヴェン・レストールは、僅かに顔を上げた。


「……来たか」


その視線は、後ろをちらりと見た。


「今日は途中まで、他に二人ほど一緒に来ようとしたんだが……」

「途中で限界寸前になってしまってな。結局ここまでは俺一人だ」


淡々と返すセオドルに、アルヴェンはほんのわずか、口元を緩めた。


「……なるほど」


また一枚、記録を置き、椅子に深く腰を掛ける。


「……体質か、資質か――」


一瞬、視線が鋭くなる。


「筋肉だけで“理”を押し通すとは、呆れるほかない」


静かな皮肉が、わずかに混じった。


セオドルは肩をすくめかけ――ふっと眉をひそめた。


(……言い方ってものがあるだろうが)


喉まで出かけた言葉を、ぎり、と呑み込む。

今は、そういうことを言い返している場合じゃない。


「……理屈のほうは任せる。俺は――前に進むだけだ」


短く、わずかに硬い声音で返した。

そんな応酬に――わずかに、空気が和らいだ。


この時まだ、互いの壁は厚かった。

だが、そのかすかな綻びが――

この後の“親交”へと繋がっていくのだった。


その日、セオドルは長く留まらず、

必要な情報だけを受け取り、静かに引き上げた。


(……次も、来よう)


内心でそう決め、彼は再び軍の拠点へと戻っていった。




翌日。


「また行くのか?」

「……また頼む。俺にしか行けない場所だから」


仲間たちの問いに簡単に応え、セオドルは再び、崩れた評議会塔へと歩を運んだ。


セオドルは静かに歩を進め、長机の前に立った。

以前に比べ、ここに漂う空気が――心なしか、柔らかくなっている気がした。


(……少し、馴染んだかな)


理の歪みが強いこの場所。

初めてここを訪れた時は、胸の奥まで重苦しさが沈み込んでいた。

だが今は――感覚が慣れたのか。あるいは、部屋そのものが調整されているのか。


机に向かうアルヴェンの姿は、今日も変わらない。

乱れぬ灰の髪。白磁のような指先。積まれた記録を淡々と捌いていく。


セオドルはわずかに喉を鳴らし、言葉を探した。


「……また、来させてもらった」


アルヴェンはふ、とわずかに息を吐く。


「……お前のほうこそ、よく歩いて来たものだ」


アルヴェンの目が、ちらとセオドルの顔を見た。

敵意も拒絶もない――ただ、無駄な感情を挟まぬ静かな視線だった。


「昨日より“理”の濃度が上がっている。……次は、保証できないぞ」


「保証なんか元から期待してないさ」


セオドルは苦笑し、軽く肩をすくめた。

その軽口に、アルヴェンは、わずかに目元を緩めた。


「……無謀な男だ」


そう言いながらも、すでに机の一角を空けている。

ここしばらく、同じやり取りが繰り返されていた。


この場所が、いま最も確かな“情報”を手にできる唯一の場であることは、誰の目にも明らかだった。

セオドルは、無理を押してでも通い詰めた。

たとえ軍の者たちが止めようとも。


「……昨日と今日、どう変わってる」


低く問う声に、アルヴェンは手元の図を静かに示した。

古い地図に、複雑な符号が書き加えられている。


「……この一帯、境界が崩れ始めている。おそらく、明後日までが限界だろうな」


「民の移動先、あるか?」


「あるにはある。だが……」

アルヴェンは小さく息を吐いた。


「……余裕はない。もたぬ者も出るだろう」


「……だろうな」


短く、だが深く――その現実を、セオドルは呑み込んだ。

感情を挟めば、判断を鈍らせるだけだ。

だがその姿を見て、アルヴェンの口から、ふと漏れた。


「……意外と、考えているのだな」


セオドルは肩をすくめた。

「言われ慣れてる。だが、一応これでも“長”の端くれでな」


その返しに――アルヴェンの肩がわずかに揺れ、口元もわずかに緩んだ。

その瞬間、空気が――微かに、和らいだ。


これまで、必要最小限の言葉しか交わしてこなかった二人。

だが、こうして言葉が返されるたびに、

無意識のうちに、互いへの“隔たり”が、わずかずつ解け始めていた。


セオドルは深く息を吐き、再び図面を覗き込んだ。


「……なら、動けるうちに民を移すか。余計な混乱は避けたいしな」


「……最短の動線は、ここだ」


アルヴェンの指が、正確に道筋を示す。

迷いも、躊躇もない。


「――助かる」


低く短く、その一言を残してセオドルは踵を返す。


去り際に――アルヴェンの声がかかった。


「……カルナス」


「ん?」


「……明日も来るのか?」


「――来る。必要がある限りはな」


その答えに、アルヴェンはただ、小さく頷いた。


こうして、通う日々が――

静かに、積み重なっていく。



数日が過ぎた。


セオドルは変わらず、日々この“崩れた評議会塔の一角”へと足を運んでいた。

軍の者たちは最初こそ心配していたが、今では――


「……まあ、セオドルなら大丈夫だろう」


半ば呆れたように、そう言うほどだった。


それほどに、彼の体は異様に“強靭”だった。

まさに、理に抗う筋力と生命力の塊のように――。

そして今や、セオドル自身にとっても――

ここの空間は、ただの義務ではなくなっていた。


歪んだ都市の中で、“正気”と“理”に裏打ちされた情報が、唯一手に入る場所。

そして――ほんのわずかだが、皮肉混じりのやり取りが、妙な“気晴らし”にもなっていた。


そんな想いとともに、今日もまた、扉が静かに押し開かれる――。


「……来たか」


変わらぬ空間、変わらぬ影。

相変わらずアルヴェン・レストールは、崩れた塔の奥――歪みの中心に、独り、座していた。


(……変わらないな)


セオドルは心中で苦笑する。


「……今日の道は少し歪みが薄かった。歩きやすかったぞ」


「……そうか。こちらでは逆に、“昨日”とは空の回転がずれていた」


そう言って、アルヴェンは微かな疲労を滲ませる。

見れば、その目の下には薄く影が落ちていた。

セオドルは、不意に眉をひそめた。


(またあまり寝てないな……)


通ううちに、だんだんとわかってきた。

アルヴェンは、休むという発想が抜けている。

ほとんど不眠不休で、記録と解析を続けている。


(……どう考えても、無理をしている)


一度はそれとなく言ったこともあった。

だが――


『俺が休めば、このわずかな均衡すら崩れる気がしてるんだ…』


そう返された。

その言葉に、強がりや慢心はなかった。

ただ――“責任”と、“焦り”が滲んでいた。

そして同時に――それが、危うい「思い込み」でもあることを、セオドルは薄々感じていた。


しばし、沈黙が落ちる。

静かに流れる時間のなかで、セオドルはふと問いかけた。


「……顔色が悪いぞ。食えてるか?」


「……今朝、少し」


「“少し”か……」


セオドルはわずかに眉を寄せた。


その時だった。

アルヴェンがふと、机の端に手を伸ばす。


「そういえば……今、“使える食料”はどうなってる?」


「携行食はあるぞ。味はともかく、腐らないやつだ」


セオドルは肩をすくめて答えた。


「なら――一つ譲れ」


「……言うようになったな」


セオドルは、くっと口元を緩めた。


「ついでにもう一つ言ってやろうか? 食わないと死ぬぞ」


それに――アルヴェンのほうも、わずかに口角を上げた。


「……さすがに、空腹で計算ミスはしたくないからな」


「ようやく学んだか、天才様」


「……言ってろ、脳筋」


軽く押し問答をしつつ、包みをひとつ机に置く。

それを受け取ったアルヴェンの手つきは、妙に丁寧だった。


――少しずつ、だが確実に。

ふたりの間の“壁”は薄れてきていた。


そして――。

通い始めて、半月ほどが過ぎたある日。


セオドルはいつものように、塔を訪れていた。

地図の更新、民の移動先、歪みの変化――情報を得るため。


そしてまた――例の皮肉の応酬も兼ねて。


だがその日は、扉を押し開けた瞬間、いつもと少し違う空気を感じた。


(……ん?)


机の奥で、アルヴェンがやや深く座っていた。

相変わらず疲労は色濃いが、目の奥に漂っていた極端な張りつめた空気――

それが、今日はわずかに薄らいでいる気がした。


(……今なら、少しは余裕がありそうだな)


セオドルは、静かに歩み寄った。


「……おい」


「……カルナスか」


応じる声に、いつものような張りつめた響きはなかった。


「……たまには、考えるのをやめろよ」


思わず、口から出ていた。


アルヴェンが静かに顔を上げる。


「……なんだ、急に」


「見れば分かる。……今なら少しは落ち着いてるんだろ?」

「このままじゃ、そのうち倒れるぞ」


「……それは避けたいところだが……」


「前に――お前、遺跡を見るのが好きだって言ってたろ」

「今のうちに行っとけよ。護衛ぐらい俺がついて行ってやる」


アルヴェンは、呆れたように息を吐いた。


「……言うようになったな」


「最近じゃ、寝るのも食うのも、俺が言ってやってるからな」


「……だが、なぜ貴様が俺の好みまで把握している」


「そりゃ――通ってりゃ分かるだろ」


「……脳筋のくせに、妙なところで観察眼が鋭い」


「便利な奴だろ」


「……いや、厄介だ」


そう言いつつ――アルヴェンはふっと肩を落とした。


「……まぁ、そうだな。今なら、行けそうだ」


その言葉に、セオドルは満足げにうなずいた。

こうして――。

ふたりは、“危険区域”とされていた古代遺跡――《知識の断層》へと向かうことになる。

それは、まだ誰も知らぬ“始まり”だった。

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