13.崩れゆく理の時代 -2-
世界の〈理〉は、確かに軋み続けていた。
そして、崩壊を免れたはずの者たちにも、それは等しく牙をむいた。
わずかに残った都市部でも、
暦も地図も、もはや信じられるものではなかった。
この朝を迎えたとして、次の夜が来る保証はない。
そこに在ったはずの道が消える。昨日見知った者が、翌日には“いなかった”ことになる。
民は怯え、絶望に沈んでいた。
飢えと寒さよりも恐ろしいのは、
“何が現実なのか”さえ、誰にも分からなくなっていたことだった。
都市という枠組みは、すでに崩れかけていた。
各地に残った勢力――
ティルセオンの残党も、旧家門の長老たちも、軍の寄り集まりも、
それぞれ孤立し、互いに疑心暗鬼に陥っていた。
「どこまで信じられるか」
「何が今、真の情報なのか」
記録も魔術も“歪み”に影響され、正確さを失いはじめていた。
そんな中――
軍部と地方豪族の寄せ集めとなった仮統治組織に、一人の青年の名があった。
名を、セオドル・カルナス。
生き残った軍人たちの再編を進め、かろうじていくつかの安全圏を確保していた。
そしてもう一人――
瓦解した評議会の知略部門に、一人踏みとどまっていた若者がいた。
アルヴェン・レストール。
記録と理論の整備を、絶望的な状況下でも一手に背負い続けていた。
だがこの時、彼らはまだ――
互いの存在を知らなかった。
混迷の只中に、ふたつの意思が、それぞれに芽吹きつつあったのである。
セオドル・カルナスは、軍部の長たちの寄り合いで、
使い古された地図を睨んでいた。
だが、その地図すら、もはや正しいとは限らない。
「この拠点……昨日、視察に出した部隊が消息を絶った。
道そのものが、“消えていた”らしい」
隣で呻くように告げたのは、年配の軍団長だった。
「……また、か」
セオドルは短く息を吐く。
いま最も恐れられていたのは、敵の軍勢でも、飢えでもなかった。
それは――“現実が裏切る”ことだった。
地形が変わり、時間が揺らぎ、味方同士でさえ記憶の整合が取れなくなる。
戦う以前に、世界そのものが彼らの意図を嘲笑っていた。
「……もう、どこが“無事”なのかさえ、判断がつかなくなっている」
軍議の場にいた誰もが、押し黙る。
セオドルは、静かに拳を握った。
兵も民も、限界だった。
いまこそ――決断せねばならない。
「……評議会に、話を通してこよう」
その言葉に、場がざわめいた。
ティルセオン残党ではない。
旧長老会でもない。
崩れた評議会の“理律局”に、なお一人、踏みとどまっているという名があった。
アルヴェン・レストール。
「奴がまだ“理”を読むことができるなら――」
「この崩れゆく世界で、“どこへ向かうべきか”の指針を得られるかもしない」
セオドルは、立ち上がった。
「俺が行く。……誰かが話をつけなければ、このままでは、全員、持たない」
その目に、軍の者たちは久方ぶりに“決意”の色を見た。
荒廃した都市の大路には、もはや往来の賑わいなど影も形もなかった。
崩れた石畳の隙間に奇妙な蔦が伸び、建物の壁面には、誰が描いたとも知れぬ意味不明の文様が浮かんでは消えていた。
空は昼とも夜ともつかず、灰色の光が漂っている。
何を見ても、何を聞いても、現実感が希薄だった。
セオドル・カルナスは、傷ついた軍靴で瓦礫を踏み越えてゆく。
薄汚れた軍衣の背には、かつての“部隊章”がかろうじて残っていたが――今やそれに意味はない。
(……それでも、動かなければ……)
周囲には誰の姿もなかった。
誰もがこの“都市の中心”へ赴くことを恐れたからだ。
かつて《評議会塔》があった区画――そこは、“理の歪み”が特に濃いと噂される場所だった。
壁面が滑らかに歪み、影が光に逆らって動く。
聞こえぬはずの声が、空耳のように耳元を掠めた。
だが、セオドルの歩みは止まらなかった。
(名前は、確か……アルヴェン・レストールだったか……)
名だけは、軍政記録の中で聞いていた。
瓦解した評議会の理律局――そこに、なお一人だけ踏みとどまり続けている若き天才がいると。
誰とも通じぬ混乱の中、今なお“理”を読み、“整合”を維持できる希少な存在。
その知識が頼みの綱だった。
(……だが、まだ“正気”なら、の話だけどな)
この世界では、理に触れる者ほど狂気に呑まれやすい。
むしろ、その可能性の方が高い。
それでも、行かねばならなかった。
指針もなく彷徨えば、軍も民もやがて崩れ去る。
このまま滅ぶより――わずかでも“道”を求めたかった。
やがて、崩れかけた石造りの門が現れた。
《評議会塔》――その外郭にあたる建造物だったはずの場所。
だが、いまや塔そのものは姿を失い、周囲に残ったのは歪んだ回廊と、一部の構造物だけだった。
その奥――朽ちかけた扉の前に、かすかに人の気配がある。
セオドルは歩みを止め、深く息をつく。
(……さてと)
重く、軋む扉を押し開けた――。
扉の内側は、静まり返っていた。
埃の匂いと、微かな魔力の残滓が漂っている。
だが、それは不快ではなかった。
この都市に溢れる“歪みの気”よりは、よほど正しい空気に思えた。
かつての議事堂の一角――
今は崩れた壁面の中に、わずかに残された“部屋”がある。
中心に据えられた長机。
その上には、黄ばんだ羊皮紙と、無数の記録片が積み重なっていた。
破れかけた魔術用紙の束や、時代を超えた古書さえ交じっている。
そんな机の向こうに――ひとり、若き影があった。
長い外套の裾が椅子に垂れ、背筋は痛ましいほど真っ直ぐに伸びていた。
その姿は、異様な静謐をまとっていた。
灰色の髪は乱れもせず、白磁のごとき指が、一枚の記録紙の上を静かに滑っている。
セオドルは、思わずその場に立ち止まった。
(……生きている)
それだけで、まずは驚きだった。
そして、その瞳は――正気だった。
天才の名は伊達ではなかった。
世界が崩れ、人が狂い、魔術が裏切る今なお、
目の前の青年は、確かな意志を持って、この場に座していた。
……その名が、アルヴェン・レストール。
静かに、彼は視線を上げた。
扉のほうから響いたわずかな足音を、確かに捉えていた。
「……軍部か」
低い声が、室内に落ちる。
セオドルは、正面に立ち、わずかに頭を下げる。
「セオドル・カルナス。……軍の一端を預かる者だ」
言葉は簡潔だった。
この場で長々と自己紹介をする余裕など、誰にもなかった。
「……この状況で、ここへ来るとは」
アルヴェンは、静かに椅子から立ち上がる。
指先の動きも止まり、その灰の瞳がまっすぐセオドルを捉えていた。
「……話を聞こう」
低い声が、崩れかけた室内に落ちる。
セオドルは一歩、室内へと踏み入れた。
互いに名を告げたのみ――けれど、その一歩は確かなものだった。
(……この青年、本当に一人でここに踏みとどまっているのか)
そう思った時、アルヴェンがゆるく視線を伏せ、机上の記録へと指を戻した。
「……明日の“理”は読めん。……続きは、また来る気があるなら」
静かに――だがはっきりと、そう言い置いて。
セオドルは、短く頷き、そのまま部屋を後にした。
その背に――淡い灰の瞳が、一瞬、鋭く光っていた。
――この時、二人はまだ知らなかった。
この出会いが、後の“制度”と呼ばれる枠組みの、最初の礎となることを。