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婚約破棄、それは静かな布石  作者: 朝比奈ゆいか
第1章・婚約破棄事件と王国の秘密
13/21

13.崩れゆく理の時代 -2-

世界の〈理〉は、確かに軋み続けていた。

そして、崩壊を免れたはずの者たちにも、それは等しく牙をむいた。


わずかに残った都市部でも、

暦も地図も、もはや信じられるものではなかった。


この朝を迎えたとして、次の夜が来る保証はない。

そこに在ったはずの道が消える。昨日見知った者が、翌日には“いなかった”ことになる。


民は怯え、絶望に沈んでいた。

飢えと寒さよりも恐ろしいのは、

“何が現実なのか”さえ、誰にも分からなくなっていたことだった。


都市という枠組みは、すでに崩れかけていた。


各地に残った勢力――

ティルセオンの残党も、旧家門の長老たちも、軍の寄り集まりも、

それぞれ孤立し、互いに疑心暗鬼に陥っていた。


「どこまで信じられるか」

「何が今、真の情報なのか」


記録も魔術も“歪み”に影響され、正確さを失いはじめていた。


そんな中――


軍部と地方豪族の寄せ集めとなった仮統治組織に、一人の青年の名があった。

名を、セオドル・カルナス。


生き残った軍人たちの再編を進め、かろうじていくつかの安全圏を確保していた。


そしてもう一人――


瓦解した評議会の知略部門に、一人踏みとどまっていた若者がいた。

アルヴェン・レストール。


記録と理論の整備を、絶望的な状況下でも一手に背負い続けていた。


だがこの時、彼らはまだ――

互いの存在を知らなかった。


混迷の只中に、ふたつの意思が、それぞれに芽吹きつつあったのである。


セオドル・カルナスは、軍部の長たちの寄り合いで、

使い古された地図を睨んでいた。


だが、その地図すら、もはや正しいとは限らない。


「この拠点……昨日、視察に出した部隊が消息を絶った。

 道そのものが、“消えていた”らしい」


隣で呻くように告げたのは、年配の軍団長だった。


「……また、か」


セオドルは短く息を吐く。

いま最も恐れられていたのは、敵の軍勢でも、飢えでもなかった。


それは――“現実が裏切る”ことだった。


地形が変わり、時間が揺らぎ、味方同士でさえ記憶の整合が取れなくなる。

戦う以前に、世界そのものが彼らの意図を嘲笑っていた。


「……もう、どこが“無事”なのかさえ、判断がつかなくなっている」


軍議の場にいた誰もが、押し黙る。


セオドルは、静かに拳を握った。

兵も民も、限界だった。

いまこそ――決断せねばならない。


「……評議会に、話を通してこよう」


その言葉に、場がざわめいた。


ティルセオン残党ではない。

旧長老会でもない。


崩れた評議会の“理律局”に、なお一人、踏みとどまっているという名があった。

アルヴェン・レストール。


「奴がまだ“理”を読むことができるなら――」

「この崩れゆく世界で、“どこへ向かうべきか”の指針を得られるかもしない」


セオドルは、立ち上がった。


「俺が行く。……誰かが話をつけなければ、このままでは、全員、持たない」


その目に、軍の者たちは久方ぶりに“決意”の色を見た。




荒廃した都市の大路には、もはや往来の賑わいなど影も形もなかった。

崩れた石畳の隙間に奇妙な蔦が伸び、建物の壁面には、誰が描いたとも知れぬ意味不明の文様が浮かんでは消えていた。


空は昼とも夜ともつかず、灰色の光が漂っている。

何を見ても、何を聞いても、現実感が希薄だった。


セオドル・カルナスは、傷ついた軍靴で瓦礫を踏み越えてゆく。

薄汚れた軍衣の背には、かつての“部隊章”がかろうじて残っていたが――今やそれに意味はない。


(……それでも、動かなければ……)


周囲には誰の姿もなかった。

誰もがこの“都市の中心”へ赴くことを恐れたからだ。

かつて《評議会塔》があった区画――そこは、“理の歪み”が特に濃いと噂される場所だった。


壁面が滑らかに歪み、影が光に逆らって動く。

聞こえぬはずの声が、空耳のように耳元を掠めた。


だが、セオドルの歩みは止まらなかった。


(名前は、確か……アルヴェン・レストールだったか……)


名だけは、軍政記録の中で聞いていた。

瓦解した評議会の理律局――そこに、なお一人だけ踏みとどまり続けている若き天才がいると。


誰とも通じぬ混乱の中、今なお“理”を読み、“整合”を維持できる希少な存在。

その知識が頼みの綱だった。


(……だが、まだ“正気”なら、の話だけどな)


この世界では、理に触れる者ほど狂気に呑まれやすい。

むしろ、その可能性の方が高い。


それでも、行かねばならなかった。

指針もなく彷徨えば、軍も民もやがて崩れ去る。

このまま滅ぶより――わずかでも“道”を求めたかった。


やがて、崩れかけた石造りの門が現れた。

《評議会塔》――その外郭にあたる建造物だったはずの場所。


だが、いまや塔そのものは姿を失い、周囲に残ったのは歪んだ回廊と、一部の構造物だけだった。


その奥――朽ちかけた扉の前に、かすかに人の気配がある。


セオドルは歩みを止め、深く息をつく。


(……さてと)


重く、軋む扉を押し開けた――。


扉の内側は、静まり返っていた。

埃の匂いと、微かな魔力の残滓が漂っている。


だが、それは不快ではなかった。

この都市に溢れる“歪みの気”よりは、よほど正しい空気に思えた。


かつての議事堂の一角――

今は崩れた壁面の中に、わずかに残された“部屋”がある。


中心に据えられた長机。

その上には、黄ばんだ羊皮紙と、無数の記録片が積み重なっていた。

破れかけた魔術用紙の束や、時代を超えた古書さえ交じっている。


そんな机の向こうに――ひとり、若き影があった。


長い外套の裾が椅子に垂れ、背筋は痛ましいほど真っ直ぐに伸びていた。

その姿は、異様な静謐をまとっていた。


灰色の髪は乱れもせず、白磁のごとき指が、一枚の記録紙の上を静かに滑っている。


セオドルは、思わずその場に立ち止まった。


(……生きている)


それだけで、まずは驚きだった。

そして、その瞳は――正気だった。


天才の名は伊達ではなかった。

世界が崩れ、人が狂い、魔術が裏切る今なお、

目の前の青年は、確かな意志を持って、この場に座していた。


……その名が、アルヴェン・レストール。


静かに、彼は視線を上げた。

扉のほうから響いたわずかな足音を、確かに捉えていた。


「……軍部か」


低い声が、室内に落ちる。

セオドルは、正面に立ち、わずかに頭を下げる。


「セオドル・カルナス。……軍の一端を預かる者だ」


言葉は簡潔だった。

この場で長々と自己紹介をする余裕など、誰にもなかった。


「……この状況で、ここへ来るとは」


アルヴェンは、静かに椅子から立ち上がる。

指先の動きも止まり、その灰の瞳がまっすぐセオドルを捉えていた。


「……話を聞こう」


低い声が、崩れかけた室内に落ちる。


セオドルは一歩、室内へと踏み入れた。

互いに名を告げたのみ――けれど、その一歩は確かなものだった。


(……この青年、本当に一人でここに踏みとどまっているのか)


そう思った時、アルヴェンがゆるく視線を伏せ、机上の記録へと指を戻した。


「……明日の“理”は読めん。……続きは、また来る気があるなら」


静かに――だがはっきりと、そう言い置いて。


セオドルは、短く頷き、そのまま部屋を後にした。


その背に――淡い灰の瞳が、一瞬、鋭く光っていた。


――この時、二人はまだ知らなかった。

この出会いが、後の“制度”と呼ばれる枠組みの、最初の礎となることを。

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