12.崩れゆく理の時代 -1-
黒曜石の間に、深い静寂が降りていた。
淡い光を宿す球体が、静かな光を揺らしている。
その前に立つ父王の声は、ひときわ低く、ゆっくりとした響きを帯びていた。
「……その続きを、今、語ろう」
セディリウスは小さく息を整える。
その背後では、制度の核――黒曜石の球体が、静かに淡い光を宿していた。
王が一歩、球体へと歩を進め、左手をその台座の縁に添える。
その瞬間、黒曜石の表面に柔らかな光の文が現れた。
それは古い記録の言語――通常なら解読不可能なもの。
だが今、セディリウスには、その一文字一文字がはっきりと読めていた。
《クラヴィス継承者》と《未来視》を経て王位継承の資格を得た者のみが、読むことを許される記録。
それが、静かに彼の目に映っていた。
「……それは、今から遥か昔――」
父王の低く静かな声が、黒曜石の間に響く。
「理が大きく歪み、世界そのものが崩れかけていた時代の話だ。」
黒曜石の球体は静かに光を宿し続ける。
セディリウスはその中心で、王の言葉をじっと待ち続けていた――。
*
かつて、いまヴァルメリアと呼ばれるこの地は、《ノルディア都市連合》と称されていた。
王も中央政権も持たず、複数の都市国家が緩やかに結びついた連邦体――
当時、世界有数の魔術文明の中心地でもあった。
魔術は、建物の補強や修繕、食料の保存や加工、衣服や建材の恒常加工、
農作物の成長促進や水脈探索に至るまで、日々の暮らしの隅々にまで行き渡っていた。
中でも〈召喚陣〉を用いた労働支援魔術――
星辰術を通じて精霊との簡易契約を結び、短時間だけ現界させて労務を任せる術式は特に広く普及しており、
都市の路地や広場では、そうした小さな精霊たちが働く光景が当たり前のように見られていた。
市民も初歩的な魔術は日常的に学んでおり、
特に都市の有力な家門――いわゆる“魔術貴族”にとっては、
より高位の魔術を操れることこそが誇りであり、社会的な地位そのものだった。
「理にさえ手が届けば、人は何でも可能になる」
そんな思想が社会全体にまで浸透していた。
当時の支配勢力は、次第に大きく三派に分かれていた。
・ティルセオン派閥
魔術至上主義を掲げ、理さえ意のままにしようとする魔導貴族と高位魔導士たち。
・地方都市長老会・有力家門派
旧来の都市自治を守ろうとする伝統勢力。
・軍部・地方豪族連合
魔術への過剰依存を警戒し、武力と民意を背景に安定を図る現実派。
その中心にあったのが、《ティルセオン》。
連合内のあらゆる魔術師家門がその影響下にあり、
星辰術・存在改変術・記憶操作術――ありとあらゆる理論魔術を司る古き魔導機関だった。
次第にティルセオンは、魔術理論と研究権限を一手に集め、
かつて都市ごとに保たれていた自治や評議の権限すら凌ぐ力を得ていく。
政治も秩序も押し流し、軍事の指揮系統さえ左右し始めた――。
表面上はかろうじて均衡が保たれていた。
だが裏では――ティルセオンが進めていた禁忌の研究があった。
それこそが、後に『再構築魔術』と呼ばれる災厄の発端である。
──家々では光を灯すのも、空気を整えるのも魔術。
──衣服や建材にも恒常魔術が織り込まれ、
──農業は星辰暦と“理想の収穫日”を導く魔術儀式によって成り立っていた。
当時の暮らしは、いまのヴァルメリアからは想像もできないほど、魔術に満ちていた。
だからこそ、禁術《再構築魔術》の研究が進められていたことすら、
民の多くは“さらなる進歩”として歓迎していたのだ。
《再構築魔術》。
それは単なる高位魔術ではない。
理――すなわち、この世界を支える目に見えぬ“骨格”そのものに干渉し、
書き換えようとする術だった。
星の運行を逆転させ、国の運命さえ意図的に変えられると信じた者たちがいた。
他国を衰退に導き、自国の繁栄を選び取ろうと――星の流れそのものに手を加え始めた。
また、存在の境界に干渉しようとした魔術師たちもいた。
死者を蘇らせ、不老不死の肉体を作り出し、
ついには“不死の軍勢”さえ創り上げんとする野望が語られていた。
さらには、記憶や歴史そのものに手を加えようとする動きもあった。
敵国の民の記憶を塗り替え、この地が元より自らの領土であるかのように――
過去さえ再構築できると信じていたのだ。
本来、不可能であるはずの異端の術式が、次々とティルセオンの手によって実証されていった。
最初は――。
魔術の発動効率や威力を高めようと、「魔術が世界に作用する根本の仕組み」を書き換える実験から始まったという。
それは、この世界そのものの骨格を揺るがす暴挙だった。
まず現れたのは、ごく小さな乱れだった。
昨日まで当たり前のように使えていた魔術が、突如発動しなくなる。
逆に、誰も意図せぬ術式が暴走を始める――。
家々の壁はきしみ、空の色は朝夕を問わず変わり続ける。
最初は、「魔術の誤作動か」「新たな潮流だろう」と、軽く受け止められていた。
だが、異変は静かに――確実に、生活の隅々に浸透していく。
昼の最中に星が現れ、夜に太陽が昇る。
春の花が咲いた翌日に、凍てつく寒波が襲う。
昨日までそこにあった街路が、翌朝には別の場所へと繋がっている。
数日前に建てた建物が消え、逆に古びた廃屋が忽然と現れる。
昨日交わしたはずの会話の記憶が、人によって食い違い始めた――。
――世界が、静かに軋み始めていた。
やがて、何処よりも早くその“歪み”が広がっていったのが、《ノルディア連邦》だった。
禁忌に踏み込んだ《ティルセオン》の術式は、根源たる〈理〉そのものに裂け目を穿っていたのだ。
ノルディアの地では、空と大地の境界さえ曖昧になり、昨日あった街並みが朝には消え、全く異なる構造が現れる。
民は、今が何年何月なのかもわからず、暦も記録も崩れ去っていった。
その異常は、やがてノルディアの外へと波及しはじめる。
他国の空にも異様な光が観測され、季節の狂いが周辺諸国を襲った。
世界そのものが――“理”の歪みに巻き込まれつつあったのだ。
だが、その兆候を目の当たりにした時には、すでに手遅れだった。
――それは、一年にも満たぬほどの短い間だった。
《ノルディア都市連合》と呼ばれた枠組みは、急速に崩壊していった。
それでも、完全に崩れ去ったわけではなかった。
わずかに残った集団が、荒廃した中に、かろうじて勢力の枠組みを残していた。
・〈ティルセオン残党派閥〉
今なお魔術至上主義を掲げ、かえって過激な理論へと走りつつあった狂信的魔導士たち。
・〈地方都市長老会・旧家門派〉
辛うじて生き延びた自治都市の系譜。旧来の秩序と人々の暮らしを守ろうとする勢力。
・〈軍部・地方豪族連合〉
混乱の中、民衆を守るため再編された武力組織。現実的な統治力を持つが、広域を支えるには力不足だった。
三者はそれぞれ異なる思想のもと、互いに離合集散を繰り返していた。
共通していたのは――この混沌に「終わりが見えぬ」という絶望感だった。
民はまともな生活など望めず、土地によっては理の濃度が危険域に達し、
人が踏み入ることさえ許されない“歪みの地”が拡大していた。
安全な区域は日に日に減少し、定住すらままならず、
通貨も記録も機能せず、「信用」という概念そのものが崩れ落ちていた。
それが――《制度》と呼べるものが生まれる、直前の光景である。