11.記録と裁きのはじまり
黒曜石の間に、静かな沈黙が流れていた。
祭壇の奥――黒曜石の球体が、ほのかに光の脈動を刻みながら、静かに宙に浮かんでいる。
その前に立つセディリウスは、父王の次の言葉を待っていた。
ここから先は、誰もが知ることのない国家の核心。
そのことだけは、王子自身も本能的に感じ取っていた。
王はわずかに息を整え、一拍の間を置くと静かに語り始める。
「――お前も薄々感じていよう。今この国を支えている仕組みは、決して最初から存在していたものではない。」
セディリウスはわずかに眉をひそめた。
当然の前提として受け止めてきた国家の制度――『整合制度』。
その根幹が、元々存在していなかったという父の言葉は、彼の中の常識を静かに揺さぶった。
整合制度――
ヴァルメリア王国において、日々のあらゆる出来事――契約、商取引、裁判、行政判断――
そのすべては「記録の整合性」によって判断される仕組みだ。
証言や主張がどれほど巧妙でも、証拠とわずかでも食い違えば、整合は不成立と判断される。
逆に、証拠と証言に矛盾がなく、すべての整合が確認された記録だけが正式な国家記録として認められ、永久封印される。
それゆえ、市民の間ではこう言い慣わされてきた。
――《嘘が記録に残せない国。事実だけが記録として残り、そこからのみ裁きが下される》――
これは、整合制度について市民が理解している表層の姿だった。
裁きも行政も取引も「整合された記録」をもとに決定される。
そこに人の勝手な思惑やその場の都合、感情が入り込む余地はなく、制度は徹底して公平である――
そう、市民たちは教わってきた。
だが――
王の声はさらに深く、制度の奥底へと踏み込んでいく。
「お前が今、目の前にしているこの黒曜石の球体、石板、そして承認印――」
王はゆっくりと石板へ視線を移す。
そこに据えられた古びた黒曜石の板は、何も語らぬまま静かに沈黙を守っていた。
「これらは、かつての災厄の果てに古代遺跡で発見されたものだ。そして国家が崩壊しかけた混沌の中で、制度の“核”として据えられた。最初から整合制度が完成されていたわけではない。」
セディリウスは思わず球体を見つめた。
制度の象徴――それが、実は国家をかろうじて支える最後の防壁であることを、今ようやく理解しつつあった。
王の声音はさらに低く、そして静かに続いた。
「遥か昔――この世界では、理は今よりも穏やかに均衡を保っていた。
理とは、世界そのものを形作る見えざる骨格だ。存在の境界、時間、空間、生命、すべての基盤となるものだ。」
セディリウスは小さく頷いた。
王家の学びでも何度となく教えられてきた『理』という概念。
だが、ここから語られる内容は今までの教本とは別の、封じられた歴史の領域に踏み込んでいく。
「当時、魔術は誰もが日常的に使っていた。
人は星の力を借り、自然と対話し、精霊に祈り、魔術と共に生きていた。
理を脅かさぬ限り、魔術は民の生活を支える当たり前の技術だった。」
それは、今のヴァルメリアとはまるで別の世界だ。
市民が誰一人魔術を使えぬ今と違い、かつては魔術が広く開かれていた時代があったのだ。
「――だが、人は愚かな欲望に手を伸ばした。」
王の口調がわずかに重くなった。
「再構築魔術――
それは、理そのもの――つまり世界の法則の骨格そのものを書き換えようとする禁忌だった。」
セディリウスは息を呑む。
魔術の土台である『理』にまで干渉しようとする暴挙。
それがいかに恐ろしい行為かは、王族の学びの中でも何度も繰り返し叩き込まれてきた。
「結果は――破滅だった。」
王は感情を荒げず淡々と語る。
だが、その奥に積み重ねられた歴史の重みは、ずしりと胸に響いた。
「理の骨格が乱れた瞬間、世界全体に異常が連鎖した。
魔術体系は暴走し、国土は歪み、存在そのものの境界すら曖昧になった。」
「生きていた者が消え、消えたはずの者が現れ、季節も空も時の流れさえ狂った。
これは単なる魔術暴走ではない――世界そのものが崩れ始めたのだ。」
王のまなざしは、遠い過去の光景を静かに見つめるかのようだった。
セディリウスは無意識に身体をこわばらせる。
教本では決して語られぬ“国家の原罪”が、今まさに目の前で解き明かされていく。
「その混乱の中心にいたのが――ヴァルメリアだ。」
王は続ける。
「だが理は人格も神も持たぬ。ただ均衡を保とうとする“骨格”だ。
異常を察知した理は、まるで自己修復機能のように、暴走の中心部を切り捨て、調整を始めた。」
「それが――《理の罰》と呼ばれる現象だ。」
理が誰かを裁くわけではない。
ただ、壊れた世界の歪みを修復するために“排除”という名の調整を発動する――
それが罰と呼ばれてきた理由だと、セディリウスはようやく理解した。
「そのとき、この国は既に崩壊寸前だった。
王は存在せず、民は散り、軍と評議会が辛うじて仮の秩序を保とうとしていた――」
王は、そこでようやくセディリウスに視線を戻した。
「――そして、そこから始まったのだ。今お前が立っている、この制度の原型は。」
淡く光る黒曜石の球体が、静かな呼吸のように揺らめきを刻んでいた。
セディリウスはその光景を前に、これから語られる“本当の始まり”に向けて、ゆっくりと息を整えた――
王はわずかに目を細め、静かに続ける。
「……あの頃、この国には王すら存在していなかった。混乱と崩壊の只中だったからだ」
「理の罰が進行する中、かろうじて残された軍と評議会が、暫定の統治を続けていた。だがそれも、まさに瓦解寸前だった」
セディリウスは僅かに息を呑む。
自らが立つ王座――そこに王がいなかった時代。その事実の重さがゆっくりと胸に沈み込んでいく。
「……その混迷の只中にいたのが、ふたりの男だ」
王の語りは、ゆっくりと舞台を変えていくようだった。
「ひとりは――記録と理論を統べる知略の青年。誰よりも制度を知り、だが誰よりも理の歪みに苦しみ、限界に追い詰められていた」
「もうひとりは――軍の長を預かる、民に慕われた武人。荒廃する国土の中で、せめて人々の命と心を繋ぎ留めようとしていた男だ」
わずかに、セディリウスの中に奇妙な感覚が湧く。
まるで、二人の姿に自分たち王家とクラヴィス家の面影が重なるようだった。
王は淡く苦笑を浮かべる。
「……性格も役割も違ったが、奇妙な友情があったのだろうな。互いに支え合いながら、二人は混迷の時代を生き抜いていた」
「だが、制度の核が生まれたのは、偶然とも呼ぶべき“出会い”によってだ」
王はゆっくりと祭壇の奥――黒曜石の石板へと視線を投じる。
「彼らが足を踏み入れたのは――《知識の断層》と呼ばれる古代の封印遺跡だった」
「そこに眠っていたのだ。この球体も、石板も、印も――制度の原型となる核が、誰にも知られずに埋もれていた」
セディリウスは、思わず息を詰めた。
目の前の球体が、まるで遥かな過去を静かに証言しているかのように、淡い光を揺らめかせている。
「それは、古の失われた魔術文明が残した、世界の断片だったのだろう。」
王の声音はさらに低く、わずかに重みを帯びて続く。
「だが――発見は、ただの遺跡発掘に留まらなかった。そこから、すべてが始まったのだ。」
一度、王は言葉を切る。
黒曜石の光がゆっくりと脈打つ中、重たく静かな間が流れる。
「……その続きを、今、語ろう。」
静寂の中、王子は小さく息を整え、父の次なる言葉を待った。
その背後で、制度の核が微かな光を宿し続けていた――。