10.静かなる起点
夜が明けきる前の王宮は、まだ静けさを保っていた。
窓の外には淡い光が差し始め、白い石壁にわずかな色彩が戻りつつある。
王宮中枢の私室――そこに、セディリウスと王は向き合っていた。
未来視を告げた直後だった。
王は、机上に置かれた《精査完了報告書》に手を触れることもなく、静かに口を開く。
「……少しは落ち着いたか」
セディリウスはわずかに頷いた。だが、胸中は未だ波立ったままだ。
脳裏には、あの焼け落ちた王都の景色が繰り返し浮かび上がる。黒く煤けた街並み、砕け散った黒曜石球体――そして、静かに背を向けて消えたリディアの姿。
……なぜ、あの時、彼女は振り返らなかったのか。
絶望していたわけではないように、彼には思えた。
どこか――諦めでも、怒りでもなく。
むしろ、全てを抱え、静かに背負い続けた何かがそこにあったように感じた。
もはや整合も裁きも果たせぬほど崩れた世界の中で、なお彼女は、その場に留まり続けていたのではないか――
そんな風に、セディリウスはあの光景を思い返すたび、胸の奥に言葉にならぬ圧迫感を覚えた。
それが、自らが今手にした“責務”という重さと、どこか通じるものなのかもしれない――
だがその意味に、まだ明確な答えは持てずにいた。
「……すべてを整理できたわけではありません。でも――あの崩壊の光景だけは、今も鮮明に焼きついています」
声に出した途端、わずかな震えが自分の内側から漏れ出していくのを感じた。
あれは夢ではない――回避しなければ訪れるかもしれない現実の一端だ。
それに対して王は、揺るがぬまま答えた。
その声は静かだが、決して優しくはない。事実だけを告げる、重い声音だった。
「忘れるな。お前が視たのは“避けるべき未来”だ。
だが、その未来を回避するのは、お前一人の力ではない。
この国は、王家とクラヴィス――ふたつの柱によって支えられている。
クラヴィスと共に、この制度を保たねばならぬ。
それが――未来視を継いだ王家の責務だ。」
セディリウスは拳を軽く握りしめた。
掌にこわばる感覚がじわりと広がる。未来を背負う重み――それが現実のものとして、静かに彼の身体にのしかかっていた。
「……ですが、そのためには、僕はまだあまりに知らなすぎるのです。
父上――さきほど仰っていましたね。“制度の始まりを教える時が来た”と。」
目を伏せていた王は、静かに目を細める。
その眼差しには、僅かな覚悟と、王としての責務の重さが滲んでいた。
「そうだ。お前が継承を果たした以上――もはや避けては通れぬ話だ。」
短く告げると、王は椅子を静かに後ろへ引き、ゆっくりと立ち上がる。
その所作には迷いがない。ただ静かな決意だけがあった。
「ついて来い。黒曜石の間へ向かう。」
セディリウスは一瞬だけ息を整え、無言で頷いた。
そして父の背へと静かに従う。まだ幼い頃、王宮を歩く父の背を小さく見上げて追いかけていた日の記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
だが今は違う。父の背は、王としての責務を背負う重みを帯びている――その意味を、少しずつ理解し始めていた。
王宮の私室を出ると、静寂の中にふたりの足音だけが石造りの回廊に響く。
先導する王の足取りは迷いなく、やがて彼らは王宮奥部の一角――封印区画へと至る儀礼回廊へ踏み入った。
そこは、王家とクラヴィスの資格者のみが許される禁域。
衛士たちは誰ひとり声を発することなく道を開き、一礼して退いた。
衛士の表情にも緊張が宿っている。日常とは違う空気が、確かに今ここにあった。
セディリウスの心臓がわずかに脈打つのを、自分でも自覚する。
この先に何が待っているのか――それをまだ知らぬまま、ただ一歩ずつ進んでいく。
幾重にも重なる封印扉が、静かな魔術の光を伴ってゆっくりと開かれていく。
その度にわずかに空気が変わり、まるで別の領域に踏み込んでいく感覚を覚えた。
やがて、最後の扉が音もなく開かれた先に――静謐な空間が姿を現した。
黒曜石の間――
そこは王宮の最奥に隠された、まったく異質な空間だった。
煌びやかな装飾も、王権を示す紋章もない。ただ静かに、冷たい光を湛える石壁が空間を包み込み、静寂が重く積もっている。
そこにあるのは、誇示ではなく――国家そのものを支えるための無機質な機構。
部屋の奥、封印結界に守られるようにして据えられたのは、一枚の古びた黒曜石の石板。
その手前の祭壇には、黒曜石で削り出された重厚な承認印――王家の承認を司る印鑑が慎重に安置されている。
そして部屋の中央、低く組み上げられた台座の上に――
静かに浮かんでいた。
黒曜石の球体が。
淡い光がわずかに揺らめき、まるで呼吸しているかのように静かに鼓動を刻んでいる。
その位置は、手を伸ばせば届くほど近い。けれど、そのわずかな距離の先に、言葉にできぬ緊張が満ちていた。
ここには――整合された記録が積み重ねられている。
国家の制度が依拠する「事実」そのものが、ひとつずつ封じられ、覆すことのできない形で保存されているのだ。
虚偽も憶測も許されず、ただ証拠に裏付けられた真実だけが、この球体の内部へと収められていく。
これが国家の心臓部。
この封印装置が、裁きと秩序の根拠であり、王国の制度を静かに支え続けている。
すべての記録は、ここで守られ、裁かれ、積み重ねられていく――それこそが、王国最大の秘密であり、《制度の核》だった。
王はゆっくりと祭壇の前に歩を進め、振り返る。
その背中は、もはや父としてではなく、“王”としての威厳を纏っていた。
セディリウスの視線は、祭壇中央に浮かぶ黒曜石の球体へと吸い寄せられていた。
あの時、夢で砕け散った球体――。
今こうして実物を目にしても、現実感はまだ曖昧なままだった。
……だが、確かに今はここにある。静かに、沈黙のまま、揺らめく光を宿し続けて。
けれど同時に、セディリウスは理解していた。
この球体が崩れる未来は、ありえない幻ではない。
ほんのわずかな綻び――整合が失われ、制度が機能を止めれば、この光景も現実になり得る。
それが“未来視”の重さなのだと、改めて胸の奥が冷たく締め付けられた。
「……これが、この国を支える制度の核だ。」
セディリウスは静かに頷いた。
目の前に浮かぶ黒曜石球体――それが、自身の未来視で崩壊した象徴だったことを、改めて実感する。
だが今はまだ、この制度は動いている。
それを守るために、自分はここにいる――そう胸の奥で静かに覚悟を刻んだ。
「……これが……クラヴィス、なのですか……?」
思わず口にした王子の問いに、王はわずかに首を振った。
「違う。」
その声は、静かにだがはっきりと響いた。
「これは制度の核――
事件や証言の記録を蓄え、整合を判定し、国家の真実として封印する装置だ。
“クラヴィス”とは……その記録を整え、整合を成立させ、最終の裁きを執行する資格を持つ者の名だ。
制度を支える実務の中枢――それが、クラヴィスだ。」
セディリウスは静かに球体に視線を戻す。
まるで全ての真実が、この黒曜石の中で眠っているように思えた。
だが――なぜ、ここまで記録が絶対のものとされるのか。
その疑問が、ふと口を衝いて出た。
「……なぜ、これほどまでに“記録”が国家の核に据えられているのですか?」
王は淡く目を伏せる。
それは、長く秘された問いであり――やがて語るべき宿命でもあった。
「――それを知るには、制度の始まりまで遡らねばならぬ。
なぜなら、この制度は、かつて国家そのものが崩壊しかけた末に生まれたものだからだ。」
その声に、ほんの僅かな苦みが滲んでいた。
ヴァルメリア王国の根幹に横たわる、決して語られぬ過去――その重みが、王の言葉の背後に確かにあった。
そして王はゆっくりと一歩踏み寄り、低く、静かに告げる。
「次に教えるべきは、“この国がどうしてこの制度に至ったのか”――その起源だ。」
セディリウスは、わずかに息を整え、静かに頷いた。
王の背後――封印区画の奥、黒曜石の石板が静かに佇んでいた。
あの中には、すべての制度の出発点となった《始まりの記録》が今なお封じられている。
今回からしばらく、制度の中枢部分に踏み込みますので、あとがきは控えめに進行します。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。