一枚目
ああ、誰かと思えば驚いた。初めまして。
僕はヴォリオ。貴女の名前は……いいえ、別にそれは重要ではないね。黒い髪色と瞳だから、黒の貴婦人と呼ばせてもらおうかな。その色とりどりの服も素敵だ。
僕も同じ色味で似た服を着ているって? はは、確かにそうだけれども、貴女に比べたら質は落ちるよ。
僕の話を聞きに来たってことで合っているかな。
貴女が来た時のためにおもてなしをと考えて、高純度の藍銅鉱を練り込んだ器を用意したんだ。貴女は水しか口にできないって読んで、目を楽しませる方がいいと判断した。気に入ってもらえると嬉しいな。
灯りが小さくて見えづらいかもしれないけど、これは容赦してほしい。碑文の劣化を防ぐためには地下で保管しておくのが一番都合がいいんだ。
さあ、どこから話そうか。まずは僕達がどうして楽園を抜け出したかを知りたい?
それならば、始まりから語ろうか。
Α ∽ X
僕が世界を認識した時、全てがとても眩しくて頭を胸にうずめたことを覚えている。何もかもが輝いて、その光に目が焼けそうだった。きっと湖からの反射光が酷かったんだろうね。
その環境に少しずつ慣れたら緑の雑草と白い樹木が目に入った。その時の僕は大雑把に何かと何かとしか認識できなかった。
地面に吻を垂らして僕は興味のままに樹木で頭をこすってみる。木肌特有のざらつきを感じてびっくりしたよ。そして、背後から軽い振動がして振り向いた。
白髪の少女が両手に籠と糸枠を抱えて立っている。生成りの簡素な服は、黒い羽毛に覆われた僕とは大違い。
「あなたはなぁに?」
無表情な彼女はそう聞いた。意識を持ったばかりの僕は言葉が理解できない。彼女の声を似せて『なぁに』と言い返しただけ。
しばらく沈黙していた少女が荷物を地面に降ろす。
「ふしぎなこ。つれてかえろう」
先程まで僕が執心していた樹木に彼女が触れる。指先から美しい白糸が紡がれた。それを糸枠でくるくると巻き取って、最後にたわんだ部分を撫でる。糸は途切れて、幹から生えていたはずの枝もまた一本消えた。
その光景に僕はわくわくした。次は何をするんだろう。あの時の僕は好奇心の塊で、だから彼女が近づいても警戒しなかった。まさか、僕の首に巻き付けるとは思わなかったんだ。
食い込んだ糸が僕を締め上げる。恐怖で混乱した僕は翼をばたつかせた。吻を彼女にぶつけてとにかく逃れようとする。でも、振りほどけないから絶叫した。
痛みに動転していると後ろから抱えられた。少女ではないよ、彼女は尻もちをついていたから。首元が一気に楽になって眼を動かした。
相手は老人だった。彼女より全体的にもっと白かった。まるでさっきの樹木のよう。
「これ、ギョハティ。無体なことをしちゃいかん」
「ダムジのところにつれてかえろうとしたの」
「はぁ。せめて紐にしてから使うべきじゃったぞ……悪かったの、お主よ」
僕の頭上で繰り広げられる会話の雰囲気から害意はなかったと判断した、はず。何分、遠い過去の事だから朧気なんだ。それに、思い出そうとすると今でも喉がきゅっと絞まる気がする。
話を進めよう。
僕は二人の居住地に連れてこられた。
草木は途絶えて灰色の大岩がいくつか現れる。その内の一つに入った。中をくり抜いただけの質素な造りで、床には枯れ葉が敷かれている。どれも雑草の成れの果てで、あの白い木々は見当たらない。枯れ葉に向かって飛び込んだら柔らかくて面白い。
老人は祖父と名乗って僕の頭を撫でた。
「ここで産まれた子のようじゃな。黒い羽毛は珍しいが……言葉は分かるかの?」
『の?』
「温厚で好奇心が強い。ギョハティのよき話し相手となろう」
『ぎょは?』
長い首を左右に揺らして僕はダムジを見つめる。限りなく白に近い灰色の瞳はなんだか安心した。
一方の少女は真顔のまま僕についた葉を撫でる。そこから生成りの糸が紡がれた。
「これね、いつもこのいろなの。あなたはどんないろになるんだろうね」
ダムジより濃い色の目は伽藍堂で、けれども、その違いが生じる理由を幼い僕は分からず、地面に落ちる糸を掬って遊ぶだけだった。
当時の暮らしぶりは今と全然違っていた。
僕も含めて食事は天から降ってくる雨水だけ。草を噛んでも汁と残骸が滴るだけで食べ物としては摂取できなかった。
少女――ギョハティは時々散歩してあらゆる物から糸を紡いだ。湖畔から少し離れた場所には鉱石が点在していてね、そこでも同じことをしていたよ。
僕は暇で仕方なかったから彼女に着いていったりもした。言葉を少しずつ覚えて会話が成立した頃だったか、ギョハティに聞いたんだ。
『鉱物の糸の色ってみんな違うの?』
「うん。おなじいろにみえてもそれぞれ」
『あの白い木や雑草はいつも同じだよね』
おぼつかないながらもダムジから布の織り方を教わって色の感受性には自信があった。五つある目玉でじっと糸を確認したから間違いない。
ギョハティは一瞬言い淀んで足元に転がっている剣を指差す。
「らくえんのものと、がいかいのものだとじゅんどがちがう。そうダムジがいっていた」
彼女は素足で剣を踏みつけて粉々にした。
「これはいとにできないからいらないもの。そういうものもある」
バラバラになった鉄の破片が彼女の肌に食い込んだ。無造作に取り除くだけだったから僕はハラハラした。
『痛くないの?』
「わたしたちはからだがきずついてもいたくない。ちというものもでない」
僕も血は出ないけど痛みは感じるから、共感は出来なかった。ああ、今でも彼女はたまにやらかして周囲を驚かせているね。隠すのは上手になったけれども。
その後は洞穴に戻ってダムジに聞いたんだ。
『らくえんって何? がいかいって?』
「ギョハティが話したのか」
瞠目した彼に首をかしげていると頭をぽんと優しく叩かれた。
「……楽園は、ここのことじゃの。外界は、楽園の外じゃ」
『ここと外』
ダムジは洞穴に置かれた古い紙の本を僕に読み聞かせてくれた。
「儂ら糸紡ぎの一族はかつて外界で暮らしていたのじゃ。しかしの、儂らは見た目こそ人間と似ているようで、寿命は異なる種族だった為にこの場所に逃げ込んだのじゃ」
人間と寿命という言葉もその時初めて知ったよ。
糸紡ぎの一族は異形として攻撃されることが多かったらしい。ギョハティが本当に小さな頃までずっと流浪していた、と。
「この楽園はかつての神域と限りなく近い場所じゃからの。許された者しか住まう事は出来ぬ」
『ダムジ達は許されたの?』
「条件付きで、だがの」
含みを持たせる彼の態度に僕は不安を覚えた。
それでも疲れが上回ったから体を横たえて布を被る。当時の僕は瞼なんて無かったから明るい楽園内は刺激が強かったんだ。
いつもだったら意識が落ちるんだけど、なかなか寝付けなくて。だから、二人の会話を聞いてしまった。
「ダムジ。あのこをいとおくりしたくない」
「じゃが、聖餐の獣を奉納せねば楽園を追われてしまう。可愛いギョハティ、お主の心優しさを忘れていた儂を許してくれ」
「いやだ。ダムジもおいていかないで。ひとりになりたくない」
聞いたことのない涙声に頭を起こしかけたけれども、それはいけない気がしてずっと動かないでいた。
それから数日? 数か月? 数年?
分からないけれども僕は機をうかがってはダムジの書物を漁った。教えてもらった本から文字を覚えて、話してくれる内容から単語の意味を聞いたり類推した。あの時の様子から、二人とも直接は教えてくれないと思ったんだ。
ギョハティは背丈が伸びて、ダムジは髪だけじゃなくて目も真っ白になった。僕はというと、見た目は何も変わらない。どんどん知識が増えて中身は変わったかもしれない。
いつものように糸紡ぎに出ていくギョハティを見送って、ダムジの膝に乗っかる。もう彼は目が見えていない。
「最近は儂のほうばかり構っておるからに、ギョハティが怒ってしもうたぞ」
『寝る時は側に居るのに』
「たくさん話したい年頃なのじゃ。お主のお陰で言葉もしっかりしてきたのう」
小さく不満を漏らした僕にダムジは笑った。
穏やかな空気で欠伸をしていたら、彼がいきなり切り出す。
「これは独り言なのじゃが……本当はギョハティを遺したくはないのじゃ。あの子は最後の一人として長い孤独に耐えることになる。生き物からすれば不死と錯覚するほどの長い時を。追われた時に滅ぶべき存在だったのを、引き延ばしたせいで……何故、あの子が背負う必要があるのか。長老に賛成した全員の罪を、何故」
僕の羽毛が濡れる。真っ白い木肌のような枯れた手が震えている。
聞き流した僕をそっと地面に置いてダムジは出ていく。時が来たんだと僕は察した。
そしてギョハティが無言で帰ってきた。出会った時の真顔を思い出すような、心を閉ざして何も感じないようにしている痛ましい表情だった。
「ヴォリオ、糸送りについてきて」
『……分かった』
後ろ足で立ち上がって彼女の後を追う。
湖の近くに真新しい樹木が一本、寂しげにそよいでいる。他の木々はなくなっていたせいで、余計に目立った。
ギョハティはその唯一の白の前で足を止めると、優しい声音で語りかけた。
「ありがとう、ダムジ。ぎりぎりまで残ってくれて」
彼女によって眩く白い糸が紡がれる。その度に一本ずつ枝が消えていく。最後のひと巻きまで終えると、ギョハティは声もなく泣き崩れた。
糸送りは朽ちた体から魂を解放するもの。そして、残された糸は織物として神々に捧げる。それが糸紡ぎの一族が楽園に住まう条件。そうやって彼等は樹木と化して同じく糸送りさるまで待つのだと、埋められた書物に記されていた。
僕自身は痛みを感じても、孤独や死そのものを怖いと認識はしていない。ただ、僕と違って末裔にとってはどちらも辛いもの。少なくとも、そう思えた。
だからかな。
気が付いたら僕は彼女に語りかけていた。
『別の場所にいこうよ』
薄墨色の瞳から真新しい雫が落ちる。僕は吻でそっと拭って返答を待った。
ギョハティは唇を噛んで視線を落とした。
「居場所なんてどこにもない」
『分からないよ。もしかしたら見つかるかも』
「あったとしても、一人じゃそんなの、意味ない」
僕はうっかりしていたんだ。聖餐の獣とはこの場所で生まれる世界の異物で、僕の役割は贄として捧げられることにある。だから、ギョハティが一人で出ていく提案だと勘違いさせて余計に悲しませてしまった。
それで、今度は言葉を足して問いかけた。
『楽園から出て僕と一緒に探そう。僕達が暮らせる場所を』
「無かったからここにいるんだ! 私達は人間と違う、どこまでものけ者にされる!」
強く睨まれた僕はそれでも冷静に考えた。そして、あの埋められた本を彼女に見せようと思い立った。
渋々着いてくるギョハティは困惑した表情で本を見つめる。
「この本、汚れているし見たことがない」
『楽園と外界の境界線に埋まってたんだ。ほら、ここ。この記述』
とんとん、と口先でつついた箇所は糸紡ぎの一族と人間の話だった。
かつて、一部の者は人間と暮らしやがて人間と同じような終わりを迎えるようになった、という内容。具体的な方法は書かれておらず、穢らわしい伝説だと作者は貶していた。
「私、人間になるの?」
『嫌なら別の方法を考えるよ』
彼女には人間とのいい思い出はきっと無かったのだろう。表情には嫌悪感がかすかに浮かんでいた。それでも、ギョハティは嫌だとは言わない。代わりに上目遣いになった。
「ヴォリオは、どうしたいの?」
『僕はギョハティが側にいたいと願うなら、一緒にいるよ』
そうして彼女が出した結論は、貴女の知っての通り。僕達は住み慣れた楽園から離れることにした。
Α ∽ X
こうして僕達は終わりが見えない暗闇のような旅に身を投じることになった。
続きが知りたいって?
なるほど、僕まで異形から人間の姿になったことが気になるのか。そうだよね。貴女はそんな想定していなかったはずだ。
でも夜が明けてきたみたいだから終わりにしよう。
それに、ギョハティに会ってみたいと思ったんだろう?
その身に纏う布を織った彼女だって貴女達に聞きたいことがあるはずだ。次は彼女が不在なんてことがないようにするから大丈夫。
それでは、また会う日まで。




