石もて追われたとしても
「北海道の地震」という本が1994年3月に刊行されている(島村英紀・森谷武男、北海道大学図書刊行会、ISBN4-8329-7191-3)。著者の一人、島村は東大でテープレコーダーを使用した陸上用の携帯型地震計を開発していた一人である。1972年に北大助教授、79年に教授となり、森谷らと共に世界で初めて海底地震計を開発した。手作りの時計基盤と超低速でカセットテープに一ヶ月記録するテープレコーダーをガラスの耐圧球に封じた海底地震計の開発と運用で得られたものが、第4章「海の地震を追って」、第5章「陸の地震を追って」で描写されている。
本書が刊行された前年の1993年7月12日に北海道南西沖地震が発生し、死者・行方不明者231人であった。震源地に近い(ほぼ直上の)奥尻島では21mの津波が到来し、島の南端の青苗地区だけで住民1401名中101名が犠牲になった。島村らは地震発生直後に震源域に海底地震計を投入し、余震データを収集している。
この地震は1983年の日本海中部地震と同系統の地震とされている(他に1964年の新潟地震、1940年の積丹半島沖地震など)。それまで日本列島はユーラシアプレートの東の端に乗っているものとされていた(小松左京「日本沈没」および同1973年版映画など)が、日本海中部地震以降は東日本は北米プレートに乗っており、北海道を含む東日本の日本海側で起きる一連の地震は新たなプレート境界の形成によって起きたと提唱された。
その後。1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)、2004年の新潟県中部地震、2007年の新潟県中越沖地震、更には1891年の濃尾地震などまで含めた「新潟-神戸歪集中帯」が提唱されるようになった。これは「プレート境界である」という説と、「陸側プレートの内部変形集中帯」であるとの2つの説があり、定まっていない(この論戦において北大の研究者の顔は見えない)。一方、海底地震計は、ガラス球で耐圧する基本構造がそのまま使われ続けている。
島村は世界各地で海底地震計を使い、観測を続けていた。一方で、地震予知はできないと表明していた。2005年、地震計横領疑惑で北大より告訴され、2006年に詐欺容疑で逮捕勾留、「地震予知という国策に反したための冤罪だ」と主張したが2007年、執行猶予付き有罪判決が出た。また民事裁判→和解で北大に対し和解金を支払った。その後は評論家、エッセイストとして活動している。
森谷は2006年に北大を退官、教授にはなれなかった。VHF(FM)ラジオ波の伝搬異常を検出することで直前の予知ができると主張していた(ギリシャ研究者の同様の主張は短波帯であり、また、太陽の黒点活動上昇と連動したスポラディックE層活性化はBCLやアマチュア無線の世界では以前より知られていた)が、現在では学術発表の場は閉ざされているようである。手作りフィルムカメラによる蝶の写真の発表歴がある。