九 神話
虫の息の義姉を背負い、転がりながら逃げた。
深い霧が立ち込め、どこを彷徨っているのかもわからなかった。ただ、無我夢中で山を下っているのであろう道をひたすら進んだのだった。
木々の陰影が浮かび上がる暁の頃、麓では里の女たちが身を寄せ合って山を仰いでいた。熊笹が生い茂る藪を掻き分けククが現れた時、女たちは歓喜を上げて、走り寄ってきた。
「クク! 無事だったのね」
泥だらけの顔を摺り寄せ喜び合うも、ククの背でぐったりとしている仲間に気付き、歓喜が悲鳴へと変わる。
「ど、どうしたの? 怪我をしているの?」
皆の問いに答える前に、薬師の婆を呼んだ。
「婆様……義姉様を……助けて! 魔物に襲われたわ」
義姉を背から降ろし、腕に抱えた。泥まみれのククの腕の中で横たわるククの義姉、萌を皆が心配げに取り囲む。
萌の呼吸は荒く、顔は蒼白だ。時折呻き、顔を歪めると体を強張らせ痙攣をおこした。
婆が診るも施しようがなく顔をしかめるばかりだった。着の身着のままで逃げたのだ。水も食料もないのに薬などあるはずもなかった。
ククは義姉を強く抱きしめ、無心に無事を祈ることしかできなかった。
皆、途方に暮れていた。どうしたらよいのか分からず、ククの答えをただ待っていた。
「み、みんな……」
皆に説明をしなければと思うのに、喉に石が詰まっているかのように声が出てこない。己を奮い立たせようとしているのに、恐怖が消えず容赦なく涙まで込み上げてくる。
「ご、ごめんなさい」
皆に、そして義姉に頼りなく謝るが、甘えることは許されない。
年老いた婆が背を摩ってくれる。皆の励ましがある。だがそれ以上の助けは無い。
ククは震えが治まらない手で涙を拭い、大きく息を吐き気持ちを落ち着かせた。そして山で起きた出来事を思い出し、恐怖と悔しさを噛みしめながら声を振り絞った。
「――山の声が『逃げて』と言ってきたの」
女たちは口を手で塞ぎ、漏れる悲鳴を抑えた。
「みんなを逃した後、悲鳴が聞こえて駆けつけたの。そこに黒い影が蠢いていた。そしてそれが襲い掛かって来たの。あれは得体のしれない『魔物』だった」
思い返せば魔物はただ覆いかぶさって来ただけで、傷つけてくることは無かった。ただ、獲物を見つけて喜んでいるだけだった。
「逃げ場が無いと思った時、突然雷が鳴り出して……稲光が激しくなると同時に、魔物は消えていった。魔物が去った後、そこでふらついていた萌義姉を見つけたの」
皆が顔を見合わせる。理解が難しい話に戸惑い、矢継ぎ早に疑問をぶつけてくる。
「――突風が吹き荒れて雷が鳴っているのは逃げていてわかったわ。その後恐ろしい咆哮が聞こえたのよ。それから山が霧に包まれて全然前が見えなくなった……」
「――あの咆哮は魔物だったの? 獣の間違えじゃないの」
「――萌姉は魔物に襲われたの? 雷に打たれたんじゃないの?」
懐疑心と不安からククを問い詰める。魔物ではなく野分や突風、地震の類なのだと恐怖から逃れたく皆が自分勝手に主張するのだった。
「義姉様を襲ったのも、野分が起きたのもきっと魔物の仕業よ」
そう言い返すも、証明するものなど無いのだ。萌を魔物が襲っているところを目撃したわけでもない。
「私は木霊の裔として山の声が聞こえる。それを信じてくれるのであれば、魔物だって信じてほしい」
木霊姫の魔物の神話が山の民には残っていた。
「――あれは……神話の魔物だった」
山を崇める女たちは山の神秘を信じている。言い伝えられてきた神話も粗末に扱うことなど決してしない。
「神話の魔物……だったの?」
説明できない奇怪な現象だった。だが、昨晩現れた魔物はククとのつながりを求めてきた。義姉が倒れていた場所も、魔物が眠っているとされる渓谷だ。
「襲い掛かってきた闇が……、いいえ、闇と化した魔物が私に話しかけて来た」
「――なんて?」
「私を木霊の裔と呼んでいた。覚えている、そして再び共に生きようって……」
その言葉は、皆を不安に陥れた。まさに神話の話に繋がるのだ。
女たちは山の民に伝わる神話を心の内で反芻した。
「木霊姫を襲った魔物か……」
長老の婆は魔物と姫の末路を思い出し、憤るのだった。
――五百年前、滝で水浴びをしている木霊の姫に心を奪われた蛙がいた。
蛙が美声で鳴くと木霊の姫は節をつけ、鳴き声を山々に反響させた。
姫は蛙を大そう褒めた。二人の戯れは毎日続き、蛙は次第に姫に執着していった。
晩夏も過ぎ秋になると木霊の姫は蛙の元を訪れなくなった。暑さをしのぐ水浴びは必要なくなったからだ。
蛙は自分の元へ姿を現さなくなった姫への慕情を募らせた。蛙の慕情はやがて狂気になり姿を魔物に変えた。そして、木霊の姫を襲ったのだった。
変化した大きな口で姫を飲み込むと、血肉を味わい、自分の身体と同化した姫に大そう満足したという。
だが、木の精霊「木霊」を崇めていた山の民たちはそのことに怒り、天罰が下るよう、神に祈った。天が怒り荒れ狂う野分の中、姿を現した魔物を山の民は対峙し、渓谷の滝つぼに沈め大岩で封じ込めたという。
昨晩の魔物は、姿こそ闇となっていたが、確かに血肉の匂いと水の腐ったような悪臭がした。
そして「同心同体となり共に生きよう」と木霊の裔のククに告げたのだった。