七 蠢く闇
姉様たちが面白そうに揶揄ってくる。
「ねぇクク、足蹴く看病に通った剣士様は、郷にお帰りになったんだって?」
「そ、そうよ」
「ククが昔から雨宿りしていたあの窟で看病していたんでしょ? どんな人か見たかったわ」
「ええっ! た、ただ看病していただけよ」
「うふふ、慌ててどうしたの? 素敵な人だったんでしょ? 山の窟は祠の代わりよ。天上界とも繋がっているって言うじゃない。もしかしたらそれはそれは美しい、天上人の方だったのかしら?」
「な、何!? そんなことあるわけないでしょ?!」
含み笑いの女たちにやいのやいのと囲まれ、ククはすっかりのぼせてしまった。
数年に一度、いつもなら惜しげもなく伸びた髪を切り、村の蓄えにと売っていたのに、今回ばかりは肩をすぼめて寂しそうにしていたククの様子をみて、女たちは想い人ができたのだとすぐに感づいたと囃し立てる。
「ククに亭主ができれば、男手の無いこの村に希望の光が差すわよ。また戻ってきてくれるって?」
「亭主! そんなこと、あるわけないでしょ」
「いやだ、この子二度言ったわ!」
女たちの賑やかな笑い声と共に夕食の準備が始まった。
ククは父の代わりにこの里の長になった。残った女、子どもをまとめ山の里の切り盛りをしている。長といっても名前ばかりで、皆で知恵を絞り共同体で働いている。伝統を受け継ぎ、椿油の製造や和紙梳きを里の特産物として、麓の村で売り歩いて生計を立てていた。食べる物は山の恵みと小さな畑を耕し自給自足で食い繋いでいる。
里の女たちは皆、椿油のせいか、髪も肌も艶やかで美しく、山を下りれば注目を集めた。麓で商売に勤しめばいつしか『山の民』と呼ばれ特別視されるようになった。
とりわけククは美しかった。
透き通る肌は新雪のように白く柔らかで、黒髪は漆を塗った様に艶やかだった。吸い込まれるような大きな黒い瞳は愛くるしく、そして一見妖艶さも醸し出していた。山奥に住む謎の民、神秘的な容姿のククを見かければ男たちは皆、振り返るほどだった。
***
「さあ、焼けましたよ。みんなたくさんおあがり」
子どもたちがやってきて、串刺しの魚をほおばる。久しぶりの大量の魚に皆笑顔になった。
標高の低いこの山も、夜は冷え込む。焚火で暖を取り、魚や山菜、握り飯を和気あいあいと食べ、女と子供だけの集落は宵の口を迎えようとしていた。
(――出立前に食べられるように、握り飯でも夜中に置きに行こうかしら)
魚取りの楽しかった時を弾ける炎を通して思い出す。あっけなく別れてきたが、本心を言えば出立は見送りたかった。
「剣士様の獲った魚はおいしいわよ、クク。ありがとうね」
「これからは、私たちも魚捕りが上手くできるように鍛えるわよ。彼の獲るところをしっかり観察してきたから教えるわ!」
「ふ~ん、しっかり観察ねえ」
「また冷やかすの?!」
女たちの賑やかで甲高い声が焚火の煙と共に空に登ってゆく。夜闇がゆっくりと和みの山を覆い始めた。
冷え込みを感じ肌を摩る。気付けばなぜか、もう初夏に差し掛かろうというのに吐く息が白く濁っている。
「えっ?」
それでも暖を取る仲間たちは、気にすることなく歓談し食事を続けていた。
何かおかしい――ククが不意に思った時だった。
唐突に一陣の風が集落を渡って行った。鼻に付くその風に、ククの身体がゾワリと震えた。
(――昼の……あの風)
ククは何かを探るように薄紫の空を仰ぎ見た。
「どうしたの? クク」
義理の姉が子どもを膝に乗せたまま、ククの変化に気付き声をかける。
ククはすぐには返答できなかった。
森のしじまに耳を澄まし、神経を研ぎ澄ます。
『――逃げて』
ざわざわと梢や枝が強くぶつかりこすれ合う。それが森に響き渡り言葉となってククに話してくる。身体が硬直し、冷や汗が背中を伝った。またあの恐怖が山から伝わってくるのだった。
「どうしたのよ……顔色が悪いわよ」
何事かと心配する女たちに、ククは突然、声を張り上げ言い放った。
「姉様、みんな! 今すぐ、山を下りるわ。何かが来る!」
ククの動揺にも皆はすぐに理解できず、呆けた顔でククの顔を見るだけだった。
無防備過ぎた。
ククはなぜ、昼に起こったことを教訓にしなかったのだと後悔しきりになった。
こんなことはククが長になって初めてのことだった。
皆理解できないのも当然だった。ククが何を言おうとしているのか、察することなど出来やしない。
唯一、義姉だけが顔色を変え、皆を急き立てた。
「ククの言うことを聞いて! 皆、里長から言われていたでしょう。ククには聞こえるものがあるって。たぶんそれよ。ククの母様だって、皆を山崩れから逃がしてくれたじゃない。ククにも同じ血が流れているのよ!」
そうこうと問答している間にも、野分のような湿った風が吹き始めた。急変する不可思議な天候にも駆り立てられ、皆が慌てて立ち上がると家に入り荷をまとめ始めた。
「駄目! 駄目よ、みんな、荷は後回し! まずは逃げて!」
ククが声を張り上げると女たちは一斉に家を飛び出し、子どもの手を引き、散り散りに山を下り始めた。
まるで川に投げ込まれた小石のように、女たちは突然起きた災難に足掻くことも出来ないまま飲み込まれていった。
異変は容赦なく集落を襲ってきた。
集落に暴風が吹き荒れ、家々の扉がバタンバタンと音を立て、そして山の彼方に飛んでゆく。すると、一瞬山が静まり返り、なぜか蛙の鳴く声がひどく大きく聞こえ始めた。沼地や水辺に居るかのように大きく山に響き渡る。耳を塞ぎたくなるほど騒がしく、そしてその異常さが益々気を焦らせた。
「きゃぁぁぁ――!!」
叫びの声が闇を劈いた。
女たちが逃げたのと反対方向の木立が揺れ、蠢く影が見えた。
ククは夜闇を掻き分け、声がした方へ必死に駆け寄った。
腐った水の匂いと血の匂いが辺りに立ち込めて咽るほどだった。堪らず口と鼻を袖で覆いながらも、蠢いていた影を捉える。
(――あれは何?)
影……闇が動いている。揺らめき、また地面を這い、そしてそれはククに覆いかぶさってくるのだった。身をかわすにも逃げようがない。
身体に巻き付いてくるのを手で必死に払いのけると、それを嘲笑うように闇は膨張してゆくのだった。
闇は視界を遮り、逃れようとするククに迫ってくる。
「何者なの! 里の人たちに手出しはさせないわ」
そう言うが、ククにはなんの策もなく、手立ても無い。ただ闇に向かって叫ぶだけだ。こんな虚しい状況に直面し、ようやく母の苦悩に気付く。
(――母さんにもこうやって、山からの知らせだけが届いたのね)
ククは山の神に、そして母に助けを乞う。
闇を払いながら、気持ちの起伏が狂ったように胸の内で暴れていた。その混乱する感情を手玉に取るように、闇はククを包み込み、脳裏に入り込んでくる。
『覚えている。血と肉の味も、美しい面立ちも、純粋な心臓も。木霊の裔。私を歯牙にもかけない凛々しさも愛おしい。もう一度、同心同体、末永く共に生きよう……』
(――何を言っているの?)
ククは入ってくる声を迎え撃つように、闇を見据えた。ククの瞳は闇の中で蒼く仄かに光を放っていた。
「――魔物」
――記憶の糸が一瞬だけ時を辿る。
滝、野分、そして眩しい光と底のない闇――。
闇と対峙しているククの頭上で雷鳴が鳴り響いた。野分が運んできた雷が稲妻を走らせ一瞬辺りを明るく照らす。その間、闇は消えて無くなるのだった。
雷が激しく何度も打ち始めた。
天が狂ったかのように、恐ろしいほどの数を打ち落とすのだった。山が稲光で白く発光するほどだ。
――攪乱。
ククを弄んでいた魔物は、無数の稲光を浴び消え去っていった。
雷鳴が山にこだました。その名残がまだ耳の奥で響き渡っている。
魔物が消え去ったがククはしばらく放心していた。
山に日常の夜が戻る。
雨のしたたりが葉を伝い落ちる音が聞え、我に返る。
鬱蒼と生い茂る緑と土の匂い。覆う木々の天井から月の光が差し込んでいた。闇よりも明るいその群青色に胸を撫でおろし安堵の息をつく。
「――消えた」
瞼を閉じ、強張りを解くと、もう一度、闇を慎重に注視した。
(――ここは……)
ごくりと唾を飲み込んだ。
見覚えのある景色。だが集落からは程遠い場所。
眼下には滝つぼを見下ろす渓谷が広がっていた。そして月明かりに浮かぶ小さな影に再び緊張が走った。
「だ、れ?……」
影はゆらゆら左右に揺れてククの目の前で倒れ込んだ。見覚えのある小袖の柄に、胸をドンッと叩かれる。ククもまたその人影に駆け寄り倒れ込んだ。足を絡ませ這いつくばりながら投げ出された手を必死で握った。
「――義姉さ、ま……義姉様! いやぁぁぁっ~~!」
ククの強烈な嗚咽が、こだまする。こだまが山を駆け抜ける。
こだまの後を追うように深い霧が立ちこめると、あっという間に山を覆い隠してしまった。