五 山の声
「な、なんだ?!」
サワはククを背に隠し、辺りを睨め回した。襲ってくる獣を待ち構えるかのように、短刀を握り締め腰を低くした。身を忍ばせ、様子を窺うが、しばらくしても唸り声が再び聞こえてくることは無かった。
静寂が戻り、ただ、せせらぎと魚が跳ねる音がする。山の時は静謐に流れていた。
「――はぁ」
飲み込んだままの息をひとつ吐き出すと、肩の力が抜けてゆく。今一度辺りを見回せば、ざざざっ~と下草が風に靡いて、そのまま山の中へに逃げるように消えていった。
「あの声、実は、昨晩も聞こえてきたんだ」
山に住むククにも、あんな声は初めて聞いた。だが、何かがククの記憶に残っているような、そんな気もするのだった。
「あ……あの声は……」
だが思い出そうとするが、繋がらないのだった。感覚だけが漠然とククの中に併存しているのだ。
「不吉だな」
サワはきっと、獣を思い描いているのだろう。
先程の声が形のある獣ならば、サワにとっては恐れるに足りないだろう。だが、戦の多いこの世は不吉だらけだ。人同士が殺し合い、恨み辛みが徘徊している。
(――人でも獣でもないかもしれない……)
山に薄気味悪い影を感じていたククはやはり滝つぼの骸と結びつけてしまう。
「――滝つぼの亡霊かも……」
小さい独り言をサワが拾う。
「――亡霊?」
問い返す言葉はあからさまに論外だと言い放つようだった。長年武人として生きてきたがそんなことあるわけないと、笑い飛ばすのだった。
ククは滝つぼに兵士の遺体が眠っているのだとサワに告げた。
「兵たちの怨霊が彷徨い始めたということか?」
それだけではない。滝つぼには魔物が眠っているとも言い伝えられている。
獣ではない何かをククは感じ取っていた。
感じるその力――。
山の民、木霊の末裔と呼ばれているククには常人にはない、山の神秘が与えられているのだった。
心に届くのだ。聞こえてくるのだ。山の声が。『逃げろ』と――。
青ざめ黙り込むククに気付き、サワは背を丸め、薄気味悪い笑い声をあげた。
「くっくっくっ、亡霊は巨大狼よりも恐ろしいかもなあ~」
からかい混じるその言葉を聞くや否や、丸まったサワの背中をククは勝気に押し戻した。
「サワ殿! もう、やめてください。獣ではなく地鳴りかもしれません。山崩れなど起きたら大変です。さ、もう帰りましょう」
そう、説明するより他ない。現実的な答えを聞けばサワも改めた。
「――それも、そうかもしれないな」
大量の魚が入った魚籠を持ち上げ、二人で窟に向かって歩き出した。
かといって、サワは地鳴りとは断定せず、辺りを警戒しながら歩く。やはりなにやら、殺気を感じるのだという。
無下にできない恐怖に考え込みながら、歩を早めた。
(――『逃げろ』っていったい何から逃げるの?)
心で山に問いかけたが返事は帰って来ない。だが、ククが通り過ぎれば梢がガサガサと騒ぎ立て、緊張や恐怖などの負の感情を心に流し込んでくるのだった。
(――サワ殿の感じる殺気はどんなものなのかしら)
獣、亡霊、天変地異、どれからも、逃げるには困難だ。
鬱蒼とした木立の隙間から時折天上より光が差し雲糸のように輝く。だがそれはまやかしで、本当は光ではなく針ではないだろうかとさえ思われ恐怖がともなってくる。
山の声――聞こえる神秘の声はいつもククに寄り添っていてくれた。
ククの母にも聞こえていたというが、その母も若くして亡くなり、もういない。