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四 咆哮


今朝は身支度を入念にした。


こんな緊張する朝はククにとって生まれて初めてのことだった。視線を気にするなんて自意識過剰にも程がある、と思いつつもやはり、あっけらかんとサワの元を訪ねることはできなかった。






普段通りを装い、サワの体調を確認する。

足の痛みもほとんど無いという。腹の傷もふさがり、化膿もしていない。

当の本人は治ったと豪語し、傷の心配など全くしていない。魚を獲る意気込みと気合ばかりが(みなぎ)っていた。


「よかった。サワ殿はもう怪我人ではございませんね」


そう言えば、サワはわざと足を引きずって「いててっ」とおどけて見せた。






ククはこの大きな少年を連れて、窟から少し離れた起伏の少ない清流に案内した。

空は澄み、不穏な風も感じない。川面の揺らぎが陽を反射し眩しい。

ククは川辺に籠と魚籠(びく)を降ろし、袖に(たすき)を掛けた。


「さあ、捕りますよ!」


と言いつつもサワからの指示を待つ。

サワはせっかく持ってきた釣り竿も持たず、裾を帯にはさみ水の中に入って行くのだった。


「魚など手づかみで捕れる」


目を輝かせ、川底に目を光らせる様子に、ククもつられ、裾をたくし上げると遊び半分に一緒に川に入った。


「ヒャ~、冷たい!」


子どものようにバシャバシャとククが歩けば魚がサワの元へ逃げて行った。


「よし、来た!」


サワの団扇(うちわ)のような大きな手が魚を一匹、二匹とすくっては、石で囲った生け簀に放り投げてゆく。その痛快な魚捕りにククは一層歓喜した。


「サワ殿、もう一度行きますよ!」


ククは川上に戻ろうと、威勢よく一旦岸に上がる。

するとサワが人差し指を口に当てて、静かな声でククを呼び止めた。


「ちょっと待ってくれ。あなたのその頭巾を濡らしてもよろしいか? 魚をもっと追い込みたい」


静かにと態度で示され、忍び足を取るククだったが、同時に髪の毛の先まで瞬時に緊張が走った。

今朝念入りに身支度を整えた理由がこの頭巾の下にあったからだ。


「え!……ええっ。あの、……どうぞ」


少し躊躇いながらも、ぱさりと頭巾を取れば、昨日あったはずの長い黒髪は耳朶の下から無くなっていた。


頭巾の手拭いを受け取るサワも、はっとし、驚いた様子を見せた。

せせらぎの音が大きく聞こえ、一瞬の沈黙があった。だがお互いが目を逸らすと、特に何を言うこともなくその場をやり過ごすのだった。


朝からの緊張は呆気なく幕を閉じた。


サワの反応に、過剰に意識していた自分が恥ずかしい。いい歳して、なんて言って欲しかったの?と思わず自分を叱責してしまう。

煩わしかった感情がすっと冷めて、期待していた下心に浅ましさを覚え虚しくなった。


「ほ、ほら、サワ殿、たくさんこちらに泳いできました」


ククは川上に戻るとサワに手で合図を送り、またそっと川に入った。逃げる魚を石の生け簀に追い込んでゆくと、サワは器用にその頭巾で囲いを作り、次々と魚を捕まえた。


年甲斐もなく、はしゃぎながら魚を捕まえると、山も笑うようにはらはらと、鮮やかな梢を揺らす。心地良いそよ風の中、没頭すれば時間はあっという間に過ぎ、魚も大漁に獲れた。






魚を竹串に刺し、塩を振って焼くと脂が滴り香ばしい香りが腹の虫を大いに騒ぎ立てた。

サワは「うまい!」と頷きながら面白いようにたいらげた。


「サワ殿、いつもの雑炊の量ではやはり足りなかったでしょう?」


その食べっぷりにそう思わざるを得ない。


「昨日までは怪我人だったから、食も細かったんだ。だから、そんなこと気にする必要ない」


「昨日まで?!」


「いいからほら、あなたもお食べなさい。おいしいですよ」


串を差し出され、一本だけ手に取り久しぶりの魚に舌鼓を打つ。


「おいしい!」


ククが微笑んでそう言えば、サワはもう一本差しだしてくる。だが、ククはもう十分だと遠慮した。

里の皆を差し置いて自分ひとりご馳走を食べるのは忍びない。


「まだ、食べられるだろう? 魚は苦手か?」


顔を歪めククの胸の内を探るような眼差しを向けてくる。


「ええ、私は一匹頂ければもう十分です。とてもおいしかったです。あの……サワ殿……。残った魚は頂いてもよろしいでしょうか?」


食べさせたい子供たちの顔が浮かんでくる。姉様たちの育ち盛りの子供たちには毎日でも魚は食べさせたいのだ。


「ああ、そうしてくれ。そうか、土産にするのならもっと、必要だな。あなたも、帰ってまた食べられる」


サワは川を見遣り再び立ち上がると、またざぶざぶと入り瞬く間に魚を魚籠にたくさん詰めて帰って来た。


(――サワ殿が居れば、きっと山の里は飢えること無く暮らせるわね)


ふと思い描いてしまった情景に頭を振る。別れが迫り、叶わない思慕に苛まれる自分に(あき)れてしまう。


(――しっかりして! 村でも魚捕りや狩猟を練習するべきということよ)


明るく温い陽を背負い、白い歯を見せてサワはククに自慢げに魚籠を差し出してきた。


「今まで世話になった。こんなので申し訳ないがお礼だ。国に帰ったら、改めてお礼に伺いたいと思う」


嬉しかった。名乗れない以上、これっきりの縁だと覚悟はしている。


「ありがとうございます」


丁重にそれを受け取り、サワに必要以上に頭を下げた。


「そんな……礼を言うのはこっちだ」


サワは照れてポリポリと頭を掻いた。その、頭を掻く仕草のまま、はっとした顔になる。


「最後までむさ苦しい姿で、失礼した!」


唐突に顔を赤らめながら、清い川に再び入り、体を洗い始めた。長い髪も頭を川に付けて洗い、持っていた短刀で無精ひげを剃り落した。

ククは陽の下に突然晒された男性の裸を見てしまい、あたふたと戸惑った。看病していた時に何度も目にしていた、裸体もなぜか陽の下では(なま)めかしいのだ。


(最後まで……か)


一抹の寂しさを覚えながらも視線をずっと自分の手元に落として洗い終えるのを待っていたが、ふと丁度良い物を持っていたことを思い出した。

村で作った椿油を籠から取り出し、川から上がり体を拭うサワに手渡した。


椿油を作るには手間暇がかかるが、とても高値で売れる里の特産物だ。ククは化粧こそしないが、この椿油は毎日愛用している。


サワは小さな竹筒に入ったそれを受け取り、どう扱うのか分からず手の上で転がしている。


「サワ殿、後ろを向いて屈んでください」


背に垂れ下がった赤みがかった長い髪を手拭いで、しっかり拭き乾かすと、椿油を少し付けて撫でる。何日も梳いていなかったまとまりのない髪が、手櫛でするんと波打った。


「髪は背中で縛りますね」


細く裂いた手ぬぐいを紐代わりにし纏めた。広い背中に垂れ下がる赤みがかった房を手で撫でて形を整えた。すると低い声が背中に響き、ククの手に伝わって来た。


「あなたの匂いと同じだ……」


サワは背を向けたまま、躊躇いがちにククに語る。


「――その、あなたの髪は……美しかった。髪が短くなろうともあなたが美しいのは変わりない。それにあなたは思いやりもあり、朗らかだ」


例えお世辞だとしても、気持ちが浮き立った。初めて異性から掛けられた甘い言葉は、女としてククを目覚めさせ、感じたことのない喜びに体をしびれさせるのだった。


「そ、そんなこと、初めて言われました。でも……とても嬉しいものですね。……サワ殿も、体を清められ、驚くほどの美丈夫になられましたよ」


肩越しで小さく笑うと、サワの肩も笑っていた。照れくささから向き合うことが出来ず、肩越しから覗き込むように話す。


「秋口に椿の種を集め、それを磨り潰して油を抽出するんです。サワ殿にこれは差し上げますね」


春のこの時期、椿油を麓の村まで売りにゆけば、裕福な家の女性たちがこぞって買ってくれる。


「ああ、だが男の俺が……これを持っていると、なんだか女々しい感じがして恥ずかしいなぁ」


「お郷の女性に……」とは言えなかった。思い人、恋人、妻、そしてうわ言で言っていた姫にサワが微笑む姿を想像したくなかった。


(――きっと待っている女性(ひと)がいるわよね。サワ殿は魅力的な人だもの)


胸に込み上げる思いに蓋をし、ククは威勢よく声を出す。


「さぁ! 陽が高くなりました。そろそろ戻りましょう」


火を消し籠を背負った。

サワも腰を上げ、名残惜しむように空を仰いだその時だった。


不意に悪寒が走った。


二人の間を生臭い風が通り過ぎ、凪いでいた気持ちを一瞬で攫って行く。天地が境なく、風の道がぽっかりと空いた、無の中に放り込まれたような剥き出しの恐怖が迫ってくる。ククはサワの腕を掴んで身構えた。


「サワ殿、気を付けて……」


言うが早いか、唸り声が山を覆った。





――おおぉっ……うっっうぉぉぉぉぉぉぉぉ――






サワの腕を引っ張り、木立の裏に身を潜めた。


何者か分からない、低く耳をつんざくような恐ろしい唸り声が山に轟いた。



(――山の神、木の精霊、何事でしょう? どうかお鎮めください。お守りください……)



ククは戦慄しながらも必死に山に問いかけた。























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