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三十 終章


崩れ落ちた渓谷を前に、呆然と立ち尽くしていた男達がわらわらと頭首の元へ集まって来た。精兵たちの活躍もなく、怒涛の勢いで終わった戦だったが、魔物の死を見届け、男たちは安静を得て強張りを解いた。


立ち込めていた暗雲は千切れて白い空に溶けていった。

吹き荒れていた雨風は嘘のようにやみ、肌に纏わりつく湿気を残した。


水に浸かった男たちが集まれば、腐った魚のような悪臭が強烈に放たれた。その悪臭にいつもなら声を荒げ、男たちを蹴散らす陀利亜だったが、今はただ、存在していないかのように静寂を保っていた。

崩壊した渓谷を前に目を閉じ、手を合わせて微動だにしない。


「――佐羽狩殿はあの中か……」


男たちは消えた滝つぼの上に積み上がった土砂を指さし、顔を伏せた。






***






一輪の花を携えるように抱きかかえ、そして儚い命を守るように、丁寧に(むしろ)の上に寝かせた。

小袖をはぎ取り、湯で白く折れそうな身体を拭き、黒く美しい髪を手で梳く。


魔物に食われる恐怖を負わせてしまった。

それでなくても、彼女は、望まぬ相手に身を売った後悔、女たちからの残酷な信頼を受け入れ、身も心もボロボロだったのに。

全てを耐えていた身体は、あまりにも細く頼りない。

触れたら壊れてしまいそうな精神に、もう二度と傷を負わせたくはない――。





***






夜明けの匂いがする。夜露に濡れた若草の匂い。美しいさえずりに、木々を仰ぎ見て鳥を探す。揺れる梢に朝日が差すと、目くるめく思いが木漏れ日の様に踊り出す。


『おはよう、ございます。具合はいかがですか?』


岩肌に手を突き、息を整えて返ってくる声を待つ。


『――おはよう。大丈夫だ。問題ない』


薄明(はくめい)の空の月の様に、孤高な姿が現れ、胸を撫でおろす。

――その白い月に手を伸ばす。


月が呼んでいる。山が呼んでいる。


「……クク」


「ここよ」そう言おうとして、声が詰まる。


「……クク、大丈夫だ」


あたたかい温もりが唇に落ち、喉が潤ってくる。


『ここよ』


意識の中で応え、揺蕩(たゆた)っていた夢から目を覚ました。






(かすみ)の中にサワの顔が浮かぶ。しっかりとその輪郭を捉えるまで、ククは瞬きを繰り返した。

手を伸ばそうとしたが、身体が重く、動かなかった。


「……クク、大丈夫だ。終わった」


耳元で低い声が囁き、ようやく意識が鮮明になる。

終わったとは? 思考が動き出した。


終わったとは……魔物を対峙できたということなのか。それとも、命が尽きたということなのか。


ククは頭を少し動かしながら、辺りを見回した。

暗い岩肌、差し込む光、背にあたるのは大量の(わら)の上に敷かれた(むしろ)。素肌の上に掛けてあるのは自分が持ち込んだ布団だった。

大きな手が髪を梳き、頭を撫でている。眦から溢れて落ちてゆく涙を親指で拭い、頬を摩ってくれる。その腕から下がる袂の柄には見覚えがあった。父の残した着物だった。


「――助けて……くれ……た……の?」


声を振り絞り問えば、嬉しそうな顔で相槌が返ってくる。


「山の民を守る健気で勇敢な(ひと)を救った」


サワの瞳は潤み熱く揺れ、ククを見詰めて離そうとしない。


「――魔物は?」


「倒した」


化け物を対峙した勇敢な男。ククの中に彼が戦っている光景は残っていない。だが荒げた声で名を呼ばれ、強い力で腕を引かれ光の中に戻された記憶がある。

その逞しい彼が傍に居た。その穏やかな眼差しに包まれれば心がほぐれ、体の芯がじんわりと熱を持ってくる。だが同時に現実に目覚めて冷えてゆくものもあった。


「あなたの持っていた毒は強い神酒(みき)だ。俺がすり替えた。魔物に毒は逆効果だ。それに、あなたを苦痛で醜い姿にしたくはなかった」


始めから彼は助けようとしてくれていたのか。

心が混乱し一つ大きく息を吐けば、腹部に痛みが走った。


「痛むのか?」


心配げに覗き込む愛しい顔が迫ってくる。


――痛む。腹部も、そして心も痛い。動揺する感情が、拙い精神が、縋るものを求めてやまない。

瞳の奥がかっと熱くなり、また涙が溢れてくる。小さく頷けば、ぽろぽろと熱い涙が頬を伝い、耳元に落ちていった。

サワは再び手で涙を拭うと、頭をそっと自分の方へ手繰り寄せ、自分の頬をククの頬に寄せてくる。冷たいククの頬に熱を与えてくれる。摺り寄せる頬は、そのうち熱く柔らかい唇に変わり、そのままククの唇に落ちてくるのだった。


「……んっ」


どうしてこんなことをするのか分からず、覆い被さるサワの胸を力なく押した。

余韻を湛え緩慢に唇を離したサワは、変わらず穏やかに微笑んでいる。ククが顔を反らせばまた、顎をくいっと掴まれ戻された。


「――痛く無くなる。……俺はあなたにこうされると、痛く無くなった」


唐突に隠していたことを暴かれたようで、ククは顔を赤く染めた。恥ずかしさを隠すため眉根を寄せて真顔で返答した。


「と、当然ですよ。く、薬を飲ませていたんですもの……」


そう反論すれば、「さっき、飲ませたばかりからなぁ。もう一度はなぁ」と笑うのだった。

彼の穏やかな声を聞けば幸福が押し寄せてくる。だがきっとこれは、嫉妬に変わることもわかっていた。


「――サワ、殿」


思いがせめぎ合ってなかなか言い出せないが、ククは覚悟を決め、強張る手をぎゅっと握り締めた。


「――助けてくれて、ありがとう……ございました。……もう、大丈夫です」


ククの小刻みに震えている手を大きな手がしっかりと握る。サワの気遣いは全て、ククにとって切ないのだった。


「――だから、もう……お国に……お戻りください。皆が心配なさります」


陀璃亜姫が心配している。姫の顔がすぐに浮かび、本当に嫉妬している自分の浅はかさに呆れる。


「もう……ここで……ひとりで平気ですから」


サワの手に力がこもり、指が蔦の様に絡まってくる。


「――あなたは……どうするんだ?」


問われれば、考えていなかった。今までは山の民として生きたいと頑なに思っていたが、今ではその気力も薄くなっている。今までの自分を、受け入れたくなかった。汚れた自分はもう、いらなかった。だが、ふと思つく。ひとつだけ、してみたいと思っていたことがあったことを。


「――鳥……鳥みたいに、どこかへ……」


呆然と思考し、遠くを見つめるククに、サワは怯んだような短い溜息をついた。


「――そんな目をされると、胸が塞がるな」


武骨な手がククの手の甲をそっと摩る。


「あなたの追う願いはそれなのか?」


今だけでも優しく寄り添ってくれるサワから、本当は離れたくはない。でも仕方がない。


大きな手が離れて行けば、ククはぎゅっと目をつむった。

サワが腰を上げ、去る姿を見たくなかった。


だが、隣に横たわる熱はいつまでたっても離れて行こうとはしなかった。瞼の上にまた、柔らかく熱いものが落ちてくる。


()()()()()()()()()()……」


そういって、サワは耳元でクスクス笑う。


「え?」


「お返しだ」


「お返し?」


何の話か? と小首を傾げれば「覚えてないならいい」とまた耳もとで低い声が笑い出すのだった。


木霊(こだま)姫はやはりこだまが得意だ。同じ言葉が返ってくる」


「木霊……姫?」


そう呼ばれれば、不思議と胸が高鳴り、血潮が熱く騒ぎ出してくる。


「俺は、ずっとここにいる。時に抗い彷徨うのはもう、終わりだ。やっと見つけたんだ。あなたと、……自分を」


「――ずっと?」


「そうだ。昔みたいに寄り添って傍に居る」


「――昔みたいに?」


奇怪な程に平然と言い、瞳に起伏ある情を宿しているサワは、何を見ているのか?

昔みたいに……とはいつのことか? 

ククは胸の奥に漂う多幸感に思いを馳せた。

そうすると視えてくるのだった。悠久の時の面影が――。

季節の移ろいや幼い頃、そしてもっと遥か昔まで――。


温かい日差しと若葉の匂いが身体の奥に伝わり、山の声が聞こえてくる。


『コダマ、おかえり』と――。





宙に浮くような不思議な気持ちが体の中を巡っている。


横殴りの雨と乱れ打たれた雷はいつのできごとだったか。

ククはまだ受け入れられない現状に、静かに窟を見渡した。


光が差し込む方へ顔を向ければ、鮮やかな梢が揺れているのが見えた。光の筋が清々しい空気の流れを見せてくれる。外は凛とした山の静けさを湛えている。


そうして彷徨う瞳にふと、金色の光が横切ったようにみえた。


「……蛍?」


だが不思議に思う。この窟はそんな奥まで続いていないのだ。


煎じた薬と白湯を持ってきたサワに問う。


「奥に蛍が飛んでいたわ……」


それを聞き、サワはなぜか、けだるそうに一つ溜息を零した。


「ここは……どこ? あの(いわや)ではないの?」


黙っていてくれとでも言うように、サワはククの頭を撫で、目を眇めた。窟の奥をじっと見つめ、そしてまたククに優しい瞳を向けた。


「――窟だ。俺たちが出会った場所だ」


蛍がゆっくりと近づいて来る。

二人を見下ろす頭上に止まり、金色の光を点滅させている。


ククが蛍に目を奪われていると、サワは突然、先程よりもずっと深く唇を重ねてくる。お互いの愛情を確かめるように、そして体の猛りを抑えきれないとばかりに、胸を合わせ、何度も何度も唇を合わせてくるのだった。


岩の壁に立てかけられているサワの刀が、ゴトリッと音を立てて傾いた。静かな窟にその音は大きく響く。サワは名残惜しそうに唇を放し、刀をきつく睥睨した。


そうして、冷たく光る双方のまま、仕方なさげに刀に手を伸ばした。





***






「女は魔物に食われ、死んじまったな……」


「佐羽狩殿は逃げることができただろうか……」


男たちは陀璃亜の姿を横目に見ながら、ひそひそと小声で話し、佐羽狩の身を案じていた。


「あいつは憤りを知らん。生き延びていればまたひょっこり姿を見せる。先日の戦もそうであったろう」


話し合う男たちを背に、陀璃亜は貝のように押し黙ったままだった。

生き残った数名の祈祷師が荒涼とした渓谷に鎮魂の祈りを捧げ始めた。武者たちもそれに(なら)い手を合わせる。滅びた魔物が再び現れぬように入念に祈った。祈り終えれば、早計に安堵し、溌剌とした笑みまで浮かべていた。


「佐羽狩殿が首を落としたのを見ました。あれで死なないわけがない。その上、このように屍ごと生き埋めじゃあなぁ」


谷底を見遣り、佐羽狩の心配をすることもなく、武勇ばかりを語り出す。語りに興奮し戦意を取り戻せば、勝鬨を上げて薄情にも自分の手柄の様に喜び合った。


「さあさあ、御屋形様、魔物の(うろこ)でも落ちていれば勝利の証になる。谷に降りて探しに行きましょう」


陽気な男たちの声にも惑わされることなく、頭首は渋面のまま渓谷をいまだ凝視していた。

いや、谷を見ていたわけではなかった。

谷を見下ろし、跪くわが娘の背をじっと窺っていた。男たちはそれに気づいていなかった。


「御屋形様、魔物は倒したんだ、さあ、戻りましょう」


男たちがしつこく問うと、頭首ではなく、陀璃亜がおもむろに振り向いた。


向けた瞳は光を失い沈んでいた。まるで死んだ獣の目のようだ。その瞳がじんわりと奥底から鈍く金色の奇異な輝きを放ち始めたのを、頭首は見逃さなかった。


「――陀璃亜……」


その姿に慄然(りつぜん)とし喉元を詰まらせた。


「さ、姫もお立ちください。歩けぬなら私が大将の代わりに背負いましょう」


「御屋形様もさあ!」


「さあ!」


浮足立つ男たちが清々しい面持ちで下知を待っている。

そんな男たちを尻目に頭首は一向に態度を変えようとはしなかった。


名状し難い、我が娘の姿に、胸を突かれて動けなくなっていた。


頭首は、乾いた喉を動かし、煩い男たちに掠れた下知を飛ばした。


「――いや、まだだっ」


















読んで頂きありがとうございました。

ご感想をお待ちしております。


また、神話の時代、山の神のお話を書かせていただきました。

「山深く響くこだまは、狂愛のなごり ~輪廻する想い~」

興味のある方は是非、こちらも読んで頂けたらと思います。


会話の謎も解けると思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

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