二十九 すなわち 共鳴
『起きなさい』
ククの脳裏に山の声が響いた。
『コダマ、起きて』
ククは手放した意識を必死で取り戻した。
記憶の沼に沈んでいた悪夢までも引き連れて。
“もう一度、同心同体末永く生きよう――”
その言葉に神経がささくれ立つ。
(――そんなの嫌よ)
小袖の袂を探ると竹筒を取り出した。
身体がズルズルとずり落ちてゆくなか、洞窟のような暗い内臓の底へ、それを放り投げたのだった。
***
裂かれ、半身になった身体を引きずり、魔物は滝つぼへ戻ろうとしている。だが山と天がそれを阻んだ。魔物の退散を阻止するように、山は滝つぼに土砂を流し込み、天は稲妻を乱れ落とした。
「戯け! 苦しむのはお前の方だ」
佐羽狩に憤怒の念を浴びせられた直後、魔物はなぜか、じわじわと悶え始めた。瞼の膜が何度も上下に動き、口を何度も開閉し奇天烈な行動を起こし呻き出す。
瀕死の状態だった武者たちも、よろめきながらも立ち上がり、息の根を殺し魔物の様子を窺った。
「残念だがなぁ、その苦しみを今、止めてやるよ」
佐羽狩だけはいまだ平気な顔で嗤っている。
悶える魔物の上に飛び乗り、胴の上を駆け上がれば、魔物は体をグネグネと大きくうねらせ、佐羽狩を振るい落とそうとする。
「終わりだ!」
そう言い放つと、佐羽狩は魔物の脳天を刀で思いきり串ざした。
ドスッと鈍い音と同時に稲妻がドンッと刀を伝って落ちるのだった。
――ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ――
叫び声が山を駆け、尾を引き麓まで響き渡る。
長く赤い舌が、執拗に佐羽狩の足に絡みついてくる。佐羽狩は稲妻がバリバリと音を立てて放射する刃でその舌を切り落とし空へ飛びあがった。そして魔物の首を目掛け刀を上から下へ思いっきり振り落ろした。
ドスンッと、魔物の首が転がり落ち、取り囲んでいた兵たちが悲鳴を上げて逃げ去ってゆく。
佐羽狩はそれでも手を緩めることは無かった。事切れて動かなくなった魔物の身体に、刃を向け続けた。黒い腐臭のする血を浴びながら一心不乱に薄く胴を切り刻んでゆくのだった。
「――生きててくれ……姫」
死んだ魔物の呻き声が永遠と山々を駆け巡っている。
空が割れるように雷鳴が轟き、木々がしなり、ガサガサと山が唸る。
蛙や鳥、獣たちが一斉に鳴き始めると遠くから地鳴りが響いた。
谷の岩壁にすべての音が反響し、こだまとなって繰り返し、重く、高く、響き渡る。
鼓膜をつんざく轟音に、その場に居るものは皆、耳を塞いで身を屈めていた。
――反響そして、全てが共鳴する。
音が空気を揺らし岩盤を砕き、水を沸騰させたようにバシャバシャと跳ね上げた。
山の中腹まで登ってきていた山の女たちは、駆け巡るこだまに、体を震わせ一心に祈りを捧げていた。
「山が怒っている!」
山を鎮めるために、ククを守るために懸命に声を振り絞り祈っていた。
そのうち、地が大きく揺れ始め、女たちは大木の根元に集まり身を寄せ合った。
土砂が木々を押し倒し、渓谷の岩盤が崩れ落ちる。
「逃げろ! 山へ上がれ」
頭首の下知より早く、男たちは転げながら山の斜面を登り、必死で逃げてゆく。頭首もまた降り注ぐ小石や泥から陀利亜をかばい、傷つきながらもようやく渓谷を見下ろす断崖に辿り着いた。
渓谷は幾許も無く、砕けた岩盤と土砂に埋まってしまった。舞い上がる土煙を雨が流し落とせば、川も滝つぼも消えていた。
天変地異が然からめた光景に皆が呆然と立ち尽くす。
唯一の名残りは、積もった土砂の上にちょろちょろと短い滝が流れ落ちているだけだった。
父に身を寄せながら、陀利亜もその崩壊した光景に体を硬直させていた。
色を無くした顔面に涙がとめどなく流れ落ちている。
「――さ、佐羽、狩……」
唇がわなわなと震え出し、息を飲む音がした。
芯棒が抜け、立ち上がることが出来ない身体を腕で支え、空と地の境まで這いつくばってゆく。
「陀利亜、危険だ、戻れ!」
耳を失ったかのように、父の声にも反応しなかった。
そのうち、谷を見下ろす、その丸まった背から、微かな声が聞こえ始めた。
重く肺から吐き出す呼吸と節。
一呼吸、一呼吸に念のこもった呪文が紡ぎ出されていた。
雨が止み、夜明けのような静けさに包まれた渓谷に、呪文が注がれてゆく。
余韻を残し満遍なく染み渡るように注がれてゆくのだった――。




