二十七 幻夢
麓では山の女たちが跪き、山に向かって必死に祈っていた。
村人たちは、そんな女たちを訝しげに見ながらも、騒がしい山を煩わしそうに見上げていた。
ムクドリの大群がギャーギャーと叫び鳴き、山を旋回している。
やがてその黒い塊はまるで暗号を伝えているかのように、グニャグニャと不気味に形を変化させ、頭上を飛び、そして去ってゆくのだった。
「鳥たちまで山から掃われている……」
臨む山の異変を感じた山の女たちは、身が縮む思いでいた。
「婆様、ククはどうなるのでしょう? 大丈夫なのかしら?」
ククを送り出した自分たちの過ちに気付き、女たちは弱気に長老に答えを求めた。
自分たちの為に、ククが死力を尽くしていることは承知していた。心の奥底では『助けたい。変わりたい』と思っていた。それでも、自分可愛さに見て見ぬ振りをしていたのだった。度胸がなくククのやさしさに甘え切っていた自分たちは愚かで残酷だった。
ようやく我に返り、懺悔すれば山の民の証として、山の騒めきに感じ入ることができた。ククの様に山の声は聞こえなくとも、今まさに、伝わる悪寒が女たちを襲っていた。
今更ククの為に何が出来るのだろうか。山に嬲られ、治まらない動揺がようやく女たちを動かした。
「悍ましい魔物の殺気を、やっとお前たちも感じ取ったか?」
一人むせび泣く婆の背を優しく撫で、女たちは頷き合った。
「子供たちはここに置いて、ククを助けに行きましょう。ククを生贄にしてしまったのは、私たちだわ」
武器になる物は何もない。それでも女たちはククを助けに行くために渓谷を目指し武者たちの後を辿った。助ける術などなかったが、ククに許しを乞い彼女を連れて帰りたかった。
***
浮かび上がる無数の気泡の膜を払いながら、佐羽狩はククを探した。
底も見えず、魔物が、いつ、どこから出てくるのか分からない暗い空間に神経を研ぎ澄まし、身をさらさす。
――ドボンッッ……
突然、背後から響いた鈍い音を捉え、俊敏に振り返った。
ゴポッゴポッっとかき混ぜられる水の音。
細かい気泡の隙間から、紅が鮮やかに舞っている。
長い黒髪が顔を覆い、舞い上がる白い気泡と共に、紅色の衣が揺れて登ってゆく――。
その光景が、脳裏に焼き付いた残像と照らし合わされ、佐羽狩は怯んだ。
(――夢の光景……赤い衣……姫……やはり、陀璃亜だったのか?)
もがき苦しむ女の白い手が佐羽狩を呼び寄せている。ひらひらと何度も何度も水に煽られ、しつこく呼び寄せている。
(……いや、違う)
夢で感じる切なさとは、かけ離れた感情が身体を走った。
ククを取り戻したいと乞う熱情が邪魔され、苛立ちまで呼び起こす。
はなはだしい勢いで燃え広がってゆく炎は、一瞬の隙を狙ってすべてを焼き尽くしてしまう。進むも、戻るも紙一重の判断だ。
隙は作りたくなかった。だが頭首に仕える者として、姫を見捨てることも出来ない。佐羽狩は抗う感情を抑え込み、仕方なく渦巻く水を逆流しながら、陀璃亜の元へと引き帰した。
縋りつく腕を掴み取り、細い首に絡まり絞めつけているマントを短刀で切り放す。
息苦しさにもがき、浮上してゆくマントを追うように、薄明るい水面を目指し大きく水を掻いた。揺らぐ水は、次第に空の色を映す。空気を欲っして、水を夢中で掻いた。
だがいつまでたっても水の中を彷徨っている。
薄暗い空が水の揺らぎの中に映る。
手の届きそうなところにはワシが飛んでいた。
雨が降り水の波紋が幾重にも模様を作り、木の葉が雨に打たれて音を立てている。
――それなのに呼吸が出来ない。
いまだ、ここは水の中なのだ。圧迫され、脈が脳をドクドクと叩いてくる。
――空と水を彷徨う幻夢の中を漂っていた。
それに気付けば、佐羽狩は目を閉じ、幻を遮断する。
暗闇の中、陀璃亜を抱え、足で水を蹴った。――蹴った。
「――――っ、はっ!」
不意に顔に空気が当たり、閉じていた目を開くと同時に呼吸を解放する。
水面に顔を出した陀璃亜は、佐羽狩の頬に自分の頬を寄せ、荒い呼吸を繰り返している。水の中にいる時よりも、しがみ付く腕をきつく巻き付け、べっとりと貼り付いた黒髪の下から覗く瞳に、愛しい男を映し、その抱擁にまどろんでいた。
「――もう、いかないで……」
陀利亜の佐羽狩に対する想いは、年頃の少女が抱く憧憬や偏執とは違う異常なものがあった。
男たちが慌てて川辺に駆け寄り、二人を水から引きずり出した。
「魔物は、女は、いたのか?」
武者たちは及び腰で水面の奥を覗き込んだ。佐羽狩は重く貼り付く上衣と甲冑を脱ぎ棄て、水底の様子に目を凝らした。
「見える」
水底に黒い影が右へ左へと蠢いて、今にも飛び出してきそうだ。そう思ったのも束の間、水が螺旋を作り底へ引いて行くと、一気に高い波が押し寄せてきた。
「構えろ!」
怒号に武者たちは中腰で身構えるが、吹き荒れる野分がその気合を阻むのだった。
煽られ槍や刀を構えるどころか、立っていることも儘ならなくなった。男たちは何のために参陣したのか、すでに降参状態だった。
その中、佐羽狩だけは仁王立ちで叫ぶのだった。
「来いっ!」
言い放った直後、滝つぼから水がザブザブと溢れ出す。勢いよく攻めてくる濁流に、川辺の男たちは容赦なく足をすくわれ流された。
――うっっうぉぉぉぉぉぉぉぉ――
魚捕りの時に聞いた、あの唸り声が轟く。
白い鱗が飛沫に交じり光ったかと思えば、光は旋回し突如水を跳ね上げ、ドスンッと巨体を打ち上げた。それはぬるぬると伸びて男たちを取り囲んでいく。男たちは逃げ惑うも、その白い尾の壁に阻まれ、身動きが取れなくなった。白い壁は僅かに収縮と膨張を繰り返して息づいている。そして嘲笑うように体をひくひく震わせながら、枡に酒を注ぐように、そこへ濁流を流し込んでくるのだった。
「水攻めだ!」
水は、容赦なく嵩を増し、逃げまどう男たちを飲み込んでいった。
佐羽狩は咄嗟に、袴に刺していた短刀を抜き、魔物の白い胴に杭を打ち、身を固定した。流れが緩くなれば、ぐさりっ、ぐさりっと短刀を刺しながら肉の壁を登った。
「でかい図体は、切り刻みがいがあるな」
全体重をかけ、深く差しグイっと引き裂くと魔物は腐臭と黒い血を撒き散らした。流されまいと残った男たちも佐羽狩に倣う。だが、
「うわ、何だこの血は! てっ、てっ、手がぁ!」
その血に触れれば、振れた箇所が黒く染まって壊死のようになってゆくのだった。
「――ふんっ、亡霊たちの恨みが沁み込んだ血、という訳か」
血に触れ、わめく男たちを他所に、佐羽狩は笑いながら、黒い血で濡れた手を袴で拭き取るのだった。
「ったく、きたねえなぁ。こんな生ぬるい怨念じゃ俺には効かん。俺がどれほど長い時を掛けて恨みを買いながら生きながらえて来たか、お前は知らないだろう?」
佐羽狩は魔物の背に乗り、黒い血がしたたり落ちる短刀を投げ捨てた。代わりに鞘から刀を抜き、猟奇的な笑みを浮かべたまま、魔物を小突くように、ぐさぐさと背に突き立て声を張り上げた。
「ククはどこだ。ほら、そろそろ頭を出せ。殺してやる」
そう言うと、両手で握り締めた刀を炭のような天に向けた。
空には黒雲が押し寄せ佐羽狩の頭上で渦を巻く。
暗い空が一瞬発光し、雷が轟いた。
狂ったように銀の稲妻が空を裂き、地を目掛けて落ちてくる。
木々が焼け、まるで地獄絵の如く黒煙と赤い炎が立ち上った。




