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二十五 渓谷を臨む


一定の感覚で頬に当たる温かな寝息。

温かく切ないまどろみから目覚めた意識の奥深くが、チリチリとくすぶっていた。

切り落とした髪を確かめるように首に手を回せば、ようやく意識がはっきりしてきた。


この偽り事はなんなのだろう。


まだ暗く、一匹の蛍が葉に止まり小さな光を瞬かせていた。

虫の音と寝息と鼓動。まだ深い夜の帳の匂い。


胸に寄せていた頬を名残惜しくも離し、佐羽狩の顔を覗き込む。闇で見えない顔に手を添わせて確かめた。頬に手を当て、愛おしさに僅かに指を動かし摩る。


「――ありがとう」


幸福の余韻に浸りたかったが目覚めた時に顔を合わすのも恥ずかしい。

佐羽狩を起こさぬようにククはそっと抜け出した。






***






遠く麓の寺から明け六つの鐘が微かに響いてきた。

もう日の出という時間なのに、空は暗く濁り、冷たい風を送り込んでくる。

兵たちは寒さに震え箕を着込み、大鍋の周りで暖を取りながら昨晩の残りの雑炊を啜っていた。魔物対峙に相応しい、不吉な天候。


決起しなければならないはずが、皆どうしたことか酒に酔ったようにぼぉっと虚ろな顔をしていた。頭首も重たい頭を振り、熱い茶を一気に飲み干しすと、酩酊状態の身体に無理やり気合を入れているようだった。


「魔物など、さっさと倒し、国に帰るぞ。麓の村を手に入れ新たな砦を築けば、次は必ず勝ち戦じゃ!」


兵士たちは頭首の声にようやく、重たい頭をもたげ、瞬きを繰り返し、意識を取り戻すのだった。

この様子にククは目を眇め、すでに忍び込んでいる魔物の影を探った。祈祷師たちに期待を寄せたが、その祈祷師たちも役目を忘れたように虚ろだった。


ククは最後の願いを込め山に祈った。

膝を地面に付き、手の平に集めた数枚の木の葉を一息で吹き飛ばすと、手を合わせて祈る。山の民の祈りを捧げ、皆を見守ってくれるように願った。

すると、それを見ていた祈祷師たちは曇った頭の中を蹴散らし、我に返ったように武者たちひとり一人に祈祷を行っていった。


その間にも空は黒炭を流したように陰り、鬱陶しいほど濃い緑と湿った土の生臭い匂いをあたりに充満させた。

佐羽狩の様子を窺えば、彼は昨日よりもむしろ圧倒的に尖っていた。

男たちに喝を入れ、気合の声を張り上げれば、締まりの無かった隊に緊張感がようやく伴った。

そうして、とうとう対峙の日が始まったのだった。


「進軍!」


佐羽狩の声に気勢をあげて、隊が渓谷を目指してぞろぞろと動き出す。


ククはただ止まらぬように前にすすむ。感情は心臓を盗まれたように空っぽになった。


昨晩、悲しみはすべてを置いてきた。皆に手間を掛けさせぬように今日は勤めを果たすまでだ。結末の分からない戦いだ。もしかすると命を落としても尚、甲斐の無いことかもしれないが。





***






暫く歩き、体が汗ばむころ、渓谷が現れた。

山の上から臨むと谷底から風に乗って(かわず)の声がやたらと煩く響いてくる。まるで耳鳴りのように付きまとう鳴き声が、神経を(むしば)むようで、すでに魔物の手中にいるのだと思わせた。


腕の立つ粒ぞろいだと言われていた武者たちは、その纏わりつく圧迫感にゴクリと唾を飲み込んだ。


そんな男たちを尻目に姫はひとり逞しかった。


「あそこにいるわ。酷い悪臭がするもの」


紅色の光沢のあるマントを風に孕ませながら滝つぼを指さす。

そんな陀璃亜の姿に、佐羽狩は顔を歪め、厳しく言い付けた。


「姫、あなたはここまでだ。下へ降りてはいけない」


渓谷から吹きあがってくる風がバサバサと音を立てて紅色のマントを煽る。

その光景を、――紅いマントのはためきを、佐羽狩は顎に手を当て、訝し気にじっと見つめていた。

思い詰めたように動かず、眉間に皺を寄せる佐羽狩の姿は、姫を大切に思っている証拠なのだと思えた。陀璃亜の、はにかむ姿を見れば一層、そう思えた。


「いきなりどうしたのよ。佐羽狩と一緒じゃなきゃ私は嫌よ。足手まといになんかにならないわ」


だが、姫の甘い声はまったく佐羽狩に通じない。すぐさまきつい言葉で返された。


「そういう問題ではない。得体のしれない魔物から姫のお命を守るのは難しいから言っているのです」


そこで折れる姫ではなかった。陀璃亜姫はフンッと顎を上げ、薄笑いを浮かべた。


「私を守る自信が無くなったの? 佐羽狩らしくないわ」


姫はいつにもまして、疑い深く佐羽狩の言葉の真意を探ろうとしていた。ククが側にいる限り、姫の嫉妬は渦を巻いて、膨らんでいく。


「私も、行くわ」


男たちは呆れながらも、あからさまな幼い態度を示す姫に慈しみを持って宥める。


「姫、時には従順になった方がよい。姫様のお命は大切ですからなぁ。それに、素直になれば佐羽狩殿も本気で惚れてくれますぞ」


差し迫った危機に、いつまでも緊張感の無い会話が続き、頭首はカッとなる。


「陀璃亜! 佐羽狩の言うことももっともだ。この先は地獄かもしれぬぞ。それでも行くか!」


頭首が一喝すれば、姫は有無も言わずはっきりと頷いた。


無知ゆえの自信、武将の娘としての度胸と気位、そしてククへの対抗心がこの若い姫を前へと突き動かすのだった。

ククを蔑む姫だったが、その毅然とした姿は尊い。

命の重さは等しいと言うがやはり、ククと姫では大きな格差があった。


戦とは程遠い、少ない人数で魔物に挑む。


眼下の滝つぼを見据えると、佐羽狩を先頭に渓谷を下った。


渓谷の底に降り立てば、風が野分のように吹き荒れ始めた。身体ごと吹き飛ばれそうになり、滝つぼには到底近づくことが出来なかった。地を這うように風の当たらぬ藪の茂みに身を伏せ、時を待つ。

この異様な風を体感し、ようやく皆が魔物の存在を明確に感じ取ったのだった。


山が唸り、木々がしなる。


祈祷師と姫は早速、九字を切り、呪文を唱え始めるのだった。






















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