二十四 夢の中
導かれるように、ククは蛍の後を追った。足音を立てぬよう下草を踏みしめ、湿った闇の中を歩いた。
今夜はもう魔物が現れないでほしい――そう願いながら。
幼い頃は母に手を引かれ、よく蛍を見にいった。最後の夜にこの光景に出会えた喜びが唯一の慰みとなった。
蛍が飛んで行く先には、小さな湧き水が流れていた。幼い頃に訪れた場所はここだっただろうか? と辺りを見回す。すると金色の光がふわりふわりと帯を引き闇に浮かんでククを呼んでいた。
また一匹、また一匹と増えてくる。
(――これは……山の宝物ね)
山の自然が安らぎを与えてくれる。
“山の宝物”そう称して幼い頃から集めた記憶を並べて夢を見る。
無数の木漏れ日の林、サギの真っ白い羽、細かい枝の繊細な影、四季の葉の彩り、木の皮の匂い、白い野兎の赤ん坊、とろりと甘いあけび、聞き入ってしまう蛙の声、熱い夏山に轟く稲妻、そして秘密の窟……。
佐羽狩を看病した窟は、幼い頃見つけ、よく雨宿りに立ち寄った秘密の場所だった。渓谷でひとり水遊びをした帰り、白い雲の城がそびえたち豪雨となった。稲妻が走り怖くなり、あの窟を見つけて逃げ込んだのだった。数日後、同じように雨宿りに立ち寄れば、先客が居て驚いた。刀を持った男の子だった。ぼさぼさの髪と泣きべそ顔を覚えている。稲妻が走り、ククは狭い窟の奥に身を寄せ、そこから男の子を呼んだが、男の子は泣いて立ち尽くしていた。「男は泣くもんじゃない」とククが言えば、プイと横を向いて走り去っていった。
あの頃から気が強くて、思ったことをそのまま言う嫌な子だった。
男の子を泣かせたまま追いやったことに胸がずっと痛んでいた。
あの子は、どこの子だったのだろうか?
それ以来ずっと気がかりのまま大人になった。
「ごめんね」と、もうあの子にも謝ることが出来ない。
そんなことを思い出していれば、誰かに打ち明けたくなる。好きな事、嫌いな事、後悔していること、胸に秘めていること、みんな話して、自分のことを分かってほしくなった。
(わたしは、最後まで我が強くて勝気ね……)
馬鹿みたいに感傷的になってしまい、思いがはち切れてしまった。ククは涙でぼやけてゆく金色の帯をひたすら見つめ、静かに落ちてくる覚悟を胸に積み上げていった。
相変らず、ふわりふわりと蛍は飛んでいた。
胸に手を当て瞼を閉じると、蛍の残光が焼き付き、尾を引いている。また瞼を開けてもそこに変わらぬ闇と金色の帯があった。
山の夜は眠りの中の様に静かだった。まるで夢の中に迷い込んだようだ。
「きれい……」
涙を堪えたくぐもった声が闇に吸い込まれてゆく。空気がぐっと冷え込んで肺に入ってくる。
「きれいだな……」
澄ましていた耳に、突然低音が響き、毛先まで恐怖が走った。背後から聞こえた声に思わず木の幹に縋りついて振り返った。
「――さっ、佐羽、狩、さま」
いつから居たのか。一人きりだと思い込んでいた。空想に身を置いていたせいか、気配さえまったく感じなかった。
「驚かせてすまない。一人で出て行くので心配になった」
少し恐縮した声が返ってくる。
随分前から見張られていたようだ。先程自ら『魔物の急所』だと名乗って置いて、自覚が無かった。いなくなれば魔物対峙も何もなくなってしまう。
「もっ……申し訳、ございません。」
短慮な行動に平身低頭謝れば佐羽狩に遮られた。
「あっ、いや、あなたを拘束するわけではない。ただ……、あなたの心中を察したら心配になっただけだ」
「心配……」
不意打ちの言葉に胸が締め付けられて苦しくなる。
感傷に慕っていたククは隙だらけだ。佐羽狩の言葉がいちいち、柔らかくなった心に刺さってくる。
昨晩、傷つけられたのにも関わらず、それを忘れてまた彼を優しい男だと思ってしまうのだった。
一人でいるよりも安堵を覚える自分が情けなかった。
「一緒に眺めてもよろしいか?」
以前のような明るい声に惑わされ、気がますます緩む。暗闇で顔は見えないが、目尻に皺を寄せて笑っている顔まで思いおこさせた。
「ええ」
つい二つ返事で了承してしまったが、また月明かりに浮かぶ蒼い瞳を見られたくはなく、俯きながら少し場を開けた。そうすると佐羽狩は上背のある体を気ばかりに縮こませ、隣にしゃがみこんできた。チラリとククを見て佐羽狩はそのまま蛍を眺めた。
隣に座る男はククの知る男で、事実本当は何者なのかも全く知らない男だ。
大将を討ち取る凄腕の持ち主。頭首の右腕であり、今日連れている兵たちからは一目置かれている剣士らしい。
だがククの知る佐羽狩は、窟に寝かされても文句も言わず、熱にも痛みにも辛抱強く耐えて、感謝を言う剣士というより紳士で温和な男だ。
生首こそ握っていたが、佐羽狩が刀を振り残忍に戦う姿を想像することは難しい。
今も、隣の男からは穏やかな空気が滲みだしている。まるでこの山の様だ。堂々として穏やかに寄り添い、圧倒的な威厳がある。
儚い夢の中で彼が穏やかに問う。
「この山は、この時期に蛍が見られるのか?」
「いいえ。普段なら雨の季節を過ぎてからです。気の早い蛍がまちがったのね」
同じ物を愛でて、同じ気持ちになった。
次の蛍を見ることが出来なくても心の中にこの光景がずっと残る。
「そうか、まだ少し寒いからな」
腕を摩る佐羽狩はマントを羽織ってなかった。
「マントは置いてきたのですか?」
「ああ、姫に掛けて来た」
そうだった……。
静かに心を遠ざけた。看病の日々も静かに遠ざかっていく。
「寒くなってきました。私はもう、戻ります」
これは、儚い夢。
胸の軋みが聞こえてしまいそうな気がして、この愛しい時間に終わりを告げた。
ククは全てを断ち切るように、潔く立ち上がった。
別れの言葉を告げようと、口を開いたが、何を言えばいいのか分からずやめた。感傷的な言葉はもう言うものではない。明日は魔物対峙の日だ。
「佐羽狩様もお休みください」
そういって立ち去ろうとすれば、にわかに空気が一変し重くなった。
「――あなたは」
立ち上がった佐羽狩は、一歩ククに近づいた。
「以前、俺に死を買って出るなと言っておきながら、自分はそれでいいのか?」
袴についた草を払い落とす手が荒々しい。
以前武者として命を懸ける佐羽狩にそう言った覚えがある。誇りと命を引き換えにするのを理解できなかった。
「俺はあなたが身投げすることを惜しいと思う」
あの時ククもそう思った。佐羽狩が命を懸けて戦うことを惜しいと思った。
しかし……
「私の死は武士のような誇り高きものではありません。――私が魔物の元へ自ら出向くのは最終手段です」
それ以上、自分のことを話す必要はない。そう思っていても、話を続けたのは、自分を解ってほしかったから。
「……その日、食べる物にも困り皆を路頭に迷わせました。魔物が欲しているのが私ならば、これ以上傲慢に生きてゆくわけにはいきません」
背景を知らぬ佐羽狩には理解できないだろう。
慮って「惜しい」と言ってくれた。だが惜しい以上の言葉はかけてくれない。
分かっていたが、なんとなく悔しくて、寂しくて、ククは溢れ出る言葉を遮ることが出来なかった。
「生きるためにやりつくしました。身を売った引け目などもありません。あなたは、この私の行いを他人事と思ってくださればいいのです」
放胆な口をきく声は、他人の声のように聞こえてくる。癇癪を起した幼子みたいだ。
佐羽狩は黙ったままだった。きっとめんどくさいと思われた。ククは身の置き所なく体を竦めて背を向ければ、舌打ちが聞こえた。
――ギィーギィー
丁度よく森の奥で鳥が鳴いた。これ以上、もう何も聞きたくなかった。
「クク……」
呼び止めたのか、呆れて呟いたのか分からない。
わさわさと風に踊り出す下草を踏みつけ、蛍の飛び交う闇にククは向かって歩き出した。だが低い声を風が連れてきてしまった。
「――俺はあなたを弔わない。魔物に自らなる者に情はかけない」
ククは蛍に視線を預けていて良かったと思った。顔を見てそんな言葉を返された時には、きっとその残酷さに泣き崩れていただろう。
「――そう……」
二人でいることが恐ろしい。時に抗うことが出来たなら、蛍など一緒に見なかった。
背を向けたまま小さく相槌を打ち、蛍の飛び交う間をすり抜けて歩いた。
明日死ぬと分っているのに、胸に激情が込み上げて、今死んでしまいたいと思ってしまう。
死にたい。
愛されたい。
逃げ出したい。
傍に居たい。
渾沌の塊になった。
もう、蛍さえ瞳に映らない。
それなのに――
足早に遠ざかるククを逃してはくれなかった。
重い溜息が背後から耳元に落ちてきた。同時に腕を取られ、夜風で冷えた背中に温もりが覆いかぶさるのだった。
体ごとぎゅっと抱きしめてくる腕は逞しく、硬い。ククの力では解くことなどできない。
失望と快楽に気が触れてしまいそうだった。
「――クク」
震えているのはククの心臓か、それとも耳元で囁く男の声か。
突然の衝動に勘違いをしたくなかった。弱くなった気持ちが縋りついてしまわぬように、差し伸べられた手を恐れてしまう。
――他人事と思ってくれと言ったから、目の前の身を売る女に、ただ欲望のまま手を出そうとしているのか? 先程、情はかけないと言っていた。ならば、これは情ではなく、安易に芽生えた女への欲求なのかもしれない。
(どうして……? どうして、あなたまで……)
困惑に病んでいくククの心は、椿のようにポトリッと落ちた。
「――佐羽狩、様……」
(――身を売った引け目などないと強気に言ってしまった)
ククは佐羽狩の腕に額を寄せて、惨めに乞う。
「――私は粗末でふしだらな女です。ですが、あなたとはこれ以上のことは……できません」
村長に命じられ身を落とした嫌な記憶が佐羽狩で上書きされるのは幸福であるのかもしれない。しかし自身が没落した末路でもあり救いがない。心を密かに寄せていたこの男の前では、自分らしく気丈な女でいたかった。
「――離してください」
ククの願いに応えることなく、佐羽狩の腕は隙間なくククを抱きしめ離さなかった。骨が軋むほどの強さで抱きしめられ身動きが出来ない。力づくならば、もう、拒むことも出来なくなる。
ククは心の中で佐羽狩に願った。どうか、気持ちを受け止めてほしいと。
佐羽狩は近くの大木に背を凭れかけ、腰を下ろすと、ククを強い力で引き寄せた。
倒れ込むククを膝の上に座らせ腕の中に閉じ込めた。
逃げられなかった。
もう、逃げる気力も無くなっていた。
佐羽狩の着物に焚き染められた香の香りが、忘れられない記憶となって心に沁みついてゆく。
おとなしくなったククに、佐羽狩はようやく腕を緩めた。相変わらず黙したままだったが、腕の中のククを覗き込んでくる。佐羽狩の吐息が後れ毛を揺らしてくる。
「――サワ殿」
「大丈夫だ。寒いから、こうしてる。……あなたは、寒そうだ」
ぴたりと寄り添った体は熱く、ククは寒さなど微塵も感じなかった。
佐羽狩はククの頭を胸に寄せ、撫でるだけで、それ以上のことは何もしなかった。ククは最初こそ戸惑っていたが、寄せた耳に聞こえてくる鼓動と、撫でるやさしい手に、いつの間にか安堵を覚えた。やはりこれは、夢の中に違いないと思いながら。
そうして硬く厚い胸に凭れ、幸福にたゆたいながら、しばらく蛍を見ていた。
頭の奥がゆっくりと霞んでゆく。
蛍もまた、いつの間にか山の奥へと消えていった。




