十七 すれ違い
ククは掴まれたに腕に力を込め反発した。
男もまた握った手をひねり上げ、苛立たしさを滲ませた。
「私を魔物が求めている木霊と認めた上でおっしゃっているのでしょうか? 私に関われば、魔物はあなた様をも、狙い襲ってくるかもしれません。それでもよろしいのですか?」
この日ばかりは、はっきりと言って述べる。好きでもない男と最後の時を過ごすなど、どうしても嫌だった。
ましてや、サワの顔がチラつく胸中のまま、この男を受け入れることなどできるわけがない。
長の息子はびくりと肩を揺らし、忌々し気にククの手を素早く放した。言葉の一撃に、卑しい笑みは消えたが、それでも男は去ろうとしない。
ククは負けずに睨みつけた。
「若旦那様、よくご覧ください」
酒臭い顔に顔を近づけ、泣きはらした目を見せつけてやる。
「月明かりの下の私の瞳はいかがでございましょう? これが木霊と呼ばれる所以です」
男はぎょっとし、のけ反りながらもまじまじとククの仄蒼く光り出す瞳を覗き込む。
「……つ、なんなんだ、気持ち悪い」
酔った足をふらつかせて、ククを睨みつけてくる。
「お、お前など、情けを掛けてやっただけありがたいと思え」
ククが凄んでまた一歩近づけば、慌てて暗がりの渡り廊下をヤモリのように逃げて行った。
長の息子は、領主の端くれとも呼べないただの遊び人だった。
ククは今の反発で鬱屈していた馬鹿馬鹿しさを晴らしたつもりだったが、やはり深い虚しさは消えることは無かった。
「なんて夜なの……」
積もり積もった感情を吐き捨てた。
雲の流れは早く時折霞む月が現れ、庭の草木に影を落とした。花の盛りを迎えた藤棚が風に揺れている。雲が切れ、薄く差し込む光が、揺れる影に隠れる人影をも映し出した。
美しく垂れ下がる藤の花の下に男が一人立っているようだった。だが顔は花房で覆われ見えない。
宴会で飲み過ぎ酔いを醒ましに来たのだろう。いつもなら気に留めることは無いのだが、さっきのやり取りを見られたかと思うと気まずかった。
ククは見ぬふりを決め込み、そそくさと踵を返しその場を離れた。
***
「疲れた……」
夜半の雨上がり、澄んだ空気を思いっきり吸い込めば心の中の嫌なものが浄化されてゆく。
いつもの古着に着替え、草履をペタペタと引きずりながら、疲れた体を寝床に運んだ。
明日、山に登れるだろうか。そんな不安さえ覚えるほど疲れ切っていた。
静けさの中に火の粉が爆ぜる音が響く。蠢く篝火が野生動物のように燃える様は、まったく寄り添う者のいないククに安らぎを運ぶ。
引き寄せられるようにその松明を目指しぼんやりと歩き、大きな門を出ようとしたその時、低い声に呼び止められた。
「クク、さん」
影に身を潜めていた男がククの行く手を阻むように現れた。
身構えたククに気付いたのか、男は近寄ってはこない。
青白い月明かりが見覚えのある男の輪郭を映し出していた。
「――サワ殿」
高貴な衣を纏ったサワは、畏敬の念さえ覚えてしまう程、崇高に佇んでいた。
一方のククはまるで雨ざらしのまま放置された暖簾のような衣を纏い、美しさなども全くない。商売終わりのくたびれた女そのものだ。先程藤の下にいたのが彼ならば、村長の息子を品なくあしらう姿も見られているのではないか。
話せばまた傷付くのは分かっている。
もう、話すこともない。過去もこれからも……いや、これからはないのだと思い至る。
だが、生涯が明日には閉ざされようとしているからか、冷たい目を向けるサワとの時間さえ名残惜しく、つい立ち止まってしまった。
後悔を残したくないと欲まで湧き、言えなかった言葉を伝えておきたくなった。
「――無事に……無事にお国に戻ることが出来てよかった」
ククの言葉はぽつんと暗闇に残されたまま、拾ってもらえないでいた。
(こんなことを親し気に言われても、嫌よね)
自然と身体が一歩二歩と退いて行く。
「待ってくれ」
逃げ場を探しているククに、挑むような足音が近づいてきた。
懐かしい声が記憶を蘇らせる。
山で別れた時もそう引き留められた。あの時の寂しさと山の匂い、花簪、背負う籠の重さが昨日のことのように蘇ってくる。あの日は彼の無事を祈った。心から祈ったのを覚えている。
彼はあの別れをどう思っていたのだろうか。少しは寂しいと思ってくれたのか。
「あなたは? あなたは無事に里に戻れたのか?」
月明かりが遮られ、大きな身体の影が目の前に落ちている。
「山で聞いたあの声は魔物だったのか。あなたの集落を襲ったのは魔物だったのか?」
迫ってくる気迫に、表情の見えない顔を仰ぎみた。
「里が襲われたことを知っているの?」
「あの夜、山の異変に気付き山をさまよった。荒らされ異様な光景の集落があった。そこにあなたの持っていた魚籠が投げ捨てられていた」
「――そう」
ククは悔しさを噛みしめるように何度も小さく頷いた。
「なぜ襲われる? なぜあなたが魔物をおびき寄せることが出来るんだ?」
身の上も、魔物のことも告げなかったククに怒りを露わに急き立ててくる。
「明日、山へ入り、あなたが魔物をおびき寄せると村長から聞いている。どういうことだか教えてくれ! 先程の男もあなたに何を言いに来た」
答えたいと思うのに、サワの荒げる強い声が植え付けられた男への恐怖を湧きあがらせ足をすくう。
「なぜなんだ!」
肩を掴まれ揺さぶられた。
声を荒げ、手を上げる男たちと同様に、サワに恐怖を覚えてしまう。身が竦み呼吸すらできなくなるほど体が震えてくるのだった。
「や、……やめて、ください」
口をわななきながら訴えるククの異常さに、サワはびくりと肩を揺らし、荒げていた息を飲み込んだ。
「――すまない。怖がらせるつもりなどなかった」
肩から手をのけ、憐れむような瞳でククを覗き込んでくる。近づく瞳を見つめ返せば看病していた時の面影が見えた。
「い、いえ、あの私こそ、お声をかけて頂いたのに……すみません」
話せばきっと、サワなら力になってくれる。
魔物対峙のあと山の女たちのこともお願いできるかもしれない。
「魔物は……」
淡い期待を込め見詰め返せば、不意に、サワの瞳が大きく見開かれぐっと眉根に皺がよった。
月明かりが陰り、蛙の声と虫の声だけが闇に響き渡った。
「……っ」
息を飲むかすれた声がし、闇に紛れ見えなくなった佐羽狩の黒い瞳を探す。
そうしてククは悟った。
月灯りに浮かび上がった蒼に。月が陰っても尚、仄明るく光を放つ瞳に。
「――サワ殿……」
彼に向け伸ばした手をすぐに引っ込め、ククは後じさった。
先程の村長の息子も農民たちも、この瞳に逃げていったのだった。
何を説明してももう無駄なような気がした。
でもサワにはわかってほしいのだと、いつまでも心が迷っていた。
そのためらいよりも早くサワは答えを出してしまった。
「――おまえも、魔物だから……なのか……」
許してはくれなかった。
おまえと呼ばれ泣きたくなる。魔物と呼ばれ失望に落ちてゆく。
ククはその場を駆けて逃げた。




