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十一 面影に縋る


サワと別れた日、どうして神様はこの男に巡り合わせたのだろうと思った。

身分違いも甚だしく、繋ぐ縁など全くない。

引け目を感じさせ、尊さばかり抱かせた。

別れを辛くさせたのは二度と会えない寂しさと、始めから分かっていた行き場の無い恋心が、哀れに思えたからだった。


遅咲きの恋――めぐり合わせたのはこのためだった、と今なら思えるのだった。


恋を知ることか出来たからこそ、知らない男を相手に甘い気分になることは決してなかった。

口づけをされても、サワのなごりにすり替えることで、無限の後悔と憎悪から逃れることが出来た。恋と呼ぶにはあまりにも一方的で拙かったが、今のククにとってあの恋が唯一の生きる支えになっていた。





***






女たちは早速、村外れの空き家に身を寄せ合い、生活を始めた。家は朽ちる寸前のあばら家だった。どうにか、雨が防げるくらいだ。分け与えられた食料は僅かな米と雑穀だけで、山の暮らしの様に季節の実りを豊富に食べることも出来ず、山での生活より粗末だった。

そうして休む暇もなく次の日には、田植えの手伝いに出るようにもなった。


山の女たちは、現状の貧しさに文句を言い合うことこそしなかったが、こんな生活を虐げられたという非難の目を時折ククに向けるのだった。

そんな皆の思いを分かっていたがすぐにどうにかできるわけもなく、「当面辛抱してほしい」そう言って励ますよりほかなかった。

ククは皆をこれ以上落ち込ませないように、人一倍働き溌剌と過ごして見せた。

村長の息子との取引は山の女たちには言わなかった。相談してもどうにもならないことは気苦労させるだけだ。誰が代わりにという話でもない。それに、恥ずかしくて実際に口に出して語れなかった。


そのうち、ククが夜な夜な出かけるようになると、女たちはククに不審な目を向けた。だがそれを機に次第に生活が彩られ安定し、大工まで入るようになると、ククが出かける目的に各々がなんとなく感付いたようだった。


時折、明け方帰ってきては、布団を頭から掛けて嗚咽を堪えるククを密かに心配するが、誰も直接ククに声を掛けることはしなかった。痩せて青白い顔を見れば、甘い果物をこっそり山の麓で捕ってきて渡すことぐらいの思いやりしか示すことがなかった。






***






ククは、男を持て成すことなど、当然知らなかった。

年甲斐もなく極めて初心(うぶ)だった。


初めて酒の席に招かれ、勝手知らぬままぼんやりと佇んでいた。

女中たちに倣い酒を運び給仕をしていたククを、村長は領主たちの前に呼び出した。従順に酒を振舞っては、領主たちの話に付き合っていたククだったが、村長の手引きであれよあれよという間に、若く身なりの良い男に手を引かれ、誰にも見せたことのない肌を晒すことになってしまった。


東の国の名将に召し抱えられたと自慢げに話す色の浅黒い男は、ククを遊び女と呼び手荒に扱った。閨事の知識も満足に無かったククは、そんな男の前で恐怖に震えるだけだった。

だが男はそんなククが大そう気に入ったらしい。村長と話もまとまり、帰り際にはまた来ると言い残し、帰って行ったそうだ。


この日、ククは家に帰ることは出来なかった。寝床を出て、真っ暗なあぜ道を山に向かって歩いていた。心に反して身体が逃げ出した。それでも山に登る手前の河原で思いとどまり、冷たい川に浸かり身を清めた後また村の家に帰ったのだった。


村長は初めこそククを労わっていたが、見返りの味を占めたらしくそれ以来客人が来れば、同じようなことをククに命じた。

村長の息子はククを妾にしたものの、女房の嫉妬が激しく、思うように囲うことができず苛立っていた。妾というがククに対して愛情もなく優しい言葉もない。喜ぶ土産や花など送ることもなく、ただ、接待用に派手な小袖を数点与えただけだった。


そんな日常を送れば、心はすっかり疲弊した。

やさしさに触れることなく、全ての男を恐ろしいと思うようになった。男の荒げる声には心臓が握りつぶされるほどの恐怖を感じるようになってしまった。


客人が帰れば、村長は「上手くいった」と、律義に礼を言いに来た。奥方は益々蔑み、目も合わすことなく言い立ち去る。息子の奥方には汚いと罵られ、外に投げ出され、頭から冷水を浴びせられた。


自分自身でも自分が汚く感じていたククは、その仕打ちも当然だとも思ってしまうのだった。


心だけは屈しない。そう思ってこの非情な取引にも臨んでいたククだったが、その実、心など既に砕けて無くなっていた。


今晩もまた、見知らぬ男の閨に引きずり込まれた。男が寝たのを見計らい、床を抜け出し満月の下を裸足で歩く。

夜闇に紛れ冷たい井戸水で身体を洗い流し、その上凍った身体を風に晒す。そうすると、乱れた身体が何も反応しなくなり、心が楽になるのだった。


それでも夜露に濡れた草むらを踏みしめれば、足裏は草の柔らかい温もりを感じ、まだ(せい)があるのだと実感した。


村の女たちを引き連れて来たのは自分だった。信じてついてきた仲間を大切に思う。子供たちには、麓の村で学を付けさせたいとも思っている。

瀕死の義姉も一命を取り留め、今は粥を啜れるようになった。


――暗闇で足掻いているわけではない、前に進んでいる。そう自分に言い聞かせた。


「――何ともない……」


白み始めた空を溜息とともに仰ぐ。

頬を撫でる暁風の匂いに胸の奥がツキンと痛む。

この時間はいつも、男の容態を案じながら山を歩いていた。

山はいつも清々しかった。自分の心が清々しかったのかもしれない。初めて感じた胸の高鳴りが既にもう懐かしく感じる。あの頃は実に無垢だったとも。

純粋で美しい時に出会えてよかった。それが唯一の救いだった。

大きな体躯に秀麗な顔立ち。凛々しい眉に鋭い双眸は一見強面だが、笑うと目尻に皺が寄る優しい人だった。


『――あなたは美しい人だ。思いやりもあり、朗らかだ』


低い声が耳に残っている。その響きを大切にしまい込んでいる自分に虚しさが募る。


(――今の私は見せられないわ)


群青から薄紫へ変化してゆく空に手を伸ばす。


「――サワ殿」


名を呼べば、彼が手を取り、微笑んでくれる。

手の甲を撫でて「大丈夫だ」と言ってくれる。

そんな想像をすれば、余計に胸が痛くなる。

自分の存在など顧みられるはずもない。

サワには然るべき許嫁がいるのだから。

ならばせめて、彼が幸せであってほしいと祈るしかない。


(無事にお郷に帰り、姫様に会えたかしら……)


空を掻いた手で、つるつると流れてくる涙を拭い、痛む心に堪えるのだった。


「――大丈夫よ」


女としての将来を投げ捨ててしまった深い劣等感がククを苛む。





地に落ちた美しい椿は、茶色く腐食し誰の目にも止まることは無い。






















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