十 麓の村
「――神話の魔物なんているわけないじゃない。本気なの?」
神話の話と現実が交差する中で、どう挑んで良いのかもわからない。皆が神妙な面持ちとなっていた。だが若く多感な花恵だけは魔物を畏怖することもなく、苛立ちを露わにした。
「信じられないのも解るの。でも、魔物を信じなくても今はまだ、里には戻らない方がいい。麓の村で当面生活できるように私が村長に話をつけてくるわ」
多少の困難を受け入れてほしい。山に戻れば困難どころでは済まされない。
「麓で暮らすなんていやよ! まずは里がどうなっているのか、確かめに行くわ!」
血気盛んに仲の良い友達の腕を取り相槌をかわすと、二人はさっさと山の方へと向かい歩き出す。
「待って!まだ山は危ないわ。やめなさい!」
「大丈夫よ。何でもなかったら、皆を呼びに来てあげるわよ」
ククの制止も虚しく、花恵は山に引き返してしまった。
神話の魔物と信じて残った者の中にも、花恵の挑発に気持ちが傾いている者もいるようだった。皆一様に半信半疑となり始めたが、何かが起こっていることは確信している。自発的な行動も恐ろしさの方が勝りできないでいた。
(――伝わらなかった。もし何かあったらどうすればいいの?)
自信を無くし落ち込むククに、山の女たちは気付いていたが、手助けする勇気のある者は一人もいなかった。
「山は危ない」その意味を確実に理解しているのはいまだ、ククだけなのだ。
ククは里長として、悔んでいる暇など無かった。
一晩中、義姉を背負って山を下りた身体はもう限界に近かった。膝が笑って動けない。喉も痛く呼吸も苦しい。それでも、仲間と瀕死の義姉の為に身を置く場所を何が何でも探さなければならない。
ククは女たちを待たせ、早速村長の屋敷へ足を運んだのだった。
臨む山に朝日が照らし始めた。山はもの言いたげに沈黙している。
雨風に掻き回された山はじわりと蒸した緑の匂いを濃く漂わせ、じっと山の民たちの様子を見守っているようだった。
***
名士であり豪農でもある村長とククは顔なじみだった。
麓の村は田舎ではあったが街道が通り栄えていた。椿油や和紙を売り歩けば、よく売れ、村長も贔屓にしてくれていた。商売の事だけではなく、ククの父が長だったころから、村同士の交流もあり、お互い協力し合い、山の里と麓の村を守っていた。五年前に村々の戦が起こり、山の男たちはこの麓の村の義勇兵として参戦し激しい戦いの末、皆命を落としたのだった。それ以来、村長は山の民に義理堅く、世俗を離れて暮らすことにも理解をもって接してくれていた。
村長の屋敷は類を見ない豪邸で、使用人を多数抱えている。早朝の訪問にもかかわらず、既に門番が立っていたため、火急の用だと告げ取り次いでもらった。
村長はククを待たすことなく、早急に話を聞いてくれた。泥まみれでくたくたのククを見て何事かと心配してくれた。
魔物については当然懐疑的だった。奇天烈なことを言いすぎれば、訳の分からない山の民だと呆れられ、支援が受けられなくなる。そう思うと、ククは『魔物』についてはそれ以上語らず胸の内にしまい込んだ。
村長は今回の災難を地震が起き土砂に飲み込まれたのだろうと結論付けた。恥を忍んで当面の救済を願い出れば、嫌味を言うこともなく、快く引き受けてくれた。
「村外れに数軒空き家がある。まずは被災した民はそこに住んでくれ。後に、大工を入れてやろう。困ったときはお互い様だ。お前さんの親父さんにも世話になった」
村長の言葉にククは感謝仕切りとなった。良識ある人で良かったと心から安堵した。だが、名士として名高い彼は、知恵者でもあった。人情だけで済む話ではなく、取引も忘れなかった。
「助ける代わりと言っては何だが、椿油の製造をこの村の特産にさせてくれよ?」
取引をして移り住むのであれば、山の女たちが肩身の狭い生活を強いられることも無くなる。もしかしたら、売り上げの半分は収めなくてはいけなくなるかもしれないが、取引を悠長に交渉している暇もない。ククはこの条件に素直に頷いた。
「ええ、分かりました。追々詳しいことをお話しさせてください」
楽観的に、ひとまず話が整ったと喜んだのも束の間だった。
終始、にこやかに話す村長の横で、厳しい目で冷静に話を聞いていた奥方が、口を開いた。
先程、目通りが叶い、部屋で待つククを見て「汚い山猿が厄介事を持って現れた」と皮肉を言う奥方だっただけに、一筋縄ではいかないだろうとククも想像がついていた。
案の情、彼女は受け入れにひどく反対した。
「山の民と言ってもその集落の場所を知る者はいないのでしょう? 山の民の男が義勇兵として助けてくれたとおっしゃいますが、自分の山まで攻め入れられては困ると思ったから、戦いに出ただけの事でしょう? 魔物なんて珍妙な話を持ち出し急に山から下りて来た女たちを助けるなんて見通しが甘く無鉄砲すぎるのではございませんか? 椿油なんぞ儲かりませぬ」
目を吊り上げ、言い放ち村長を唸らせた。
長は奥方には頭が上がらないらしく、今一度考えを巡らせ始めた。奥方は自分に従うであろう夫に判断を任せると、ククを睨みつけ高い頬骨をピクリとさせ鼻で笑うのだった。
「それにこの女は男の目を引くと、商人や百姓たちの間では評判だとか。色目を使い、男を惑わす下賤な女など虫唾が走ります」
女の妬みが終始ククを蔑んでいるようだった。
ククは自分が美しいなんて思ったこともなかった。色目を使えるほど世渡り上手でもない。いつも同じ着物を着て洒落こむことも忘れてしまった。同年代の娘たちの中には山を離れ村の男に嫁ぐ者もいたが、ククは父の代わりに仕事だけに精を出し、いつの間にか婚期も逃してしまっている。
反発して出そうになる言葉を飲み込み耐えた。
朝餉の支度の匂いや女中たちの声で屋敷が起き始めた。話ももう終いにして次を当たらなければならないとククは内心諦め始めていた。
だがその時、『若旦那様、おはようございます』と女中たちの明るい声と共に襖を開けた人物がいた。
奥方の少々荒げた声を聞きつけ、起き抜けの息子が興味本位で話しに混ざってきたのだった。
息子といっても既に中年であり、実質、村を取り仕切っているのがこの『若旦那』らしかった。男は垢抜けた鼠色の着流しを羽織り目を擦りながら入って来た。年相応の威厳もなく、ククを見るなりへらへらとした態度で接してくる。
挨拶もなしに、ククの目の前に座り込む男の登場に、ククは嫌な予感を覚えた。
「――ほぉ、身なりは汚いが、男を惑わすのも納得だなぁ」
そういうなり、男はククを舐めまわすように見詰めて、いやらしい笑みを浮かべるのだった。
奥方も自分同様にククを蔑む息子に期待の目を向け、機嫌が良くなる。追い払うための一撃を待っているようだった。
「そうだなあ、椿油ともう一つ取引だ」
こんな軽率な男とまともな取引が出来るのか不安だったが、ククは真面目に男と向き合った。
男はドングリのような小さな目を細め、同意を求めるようにじっと視線を合わせて来た。
「お前さんは儂の妾になれ」
驚きに言葉を失うククの返答より早く、村長の叱責が飛んだ。
「何を言うのだ! お前には女房がいるだろう。バカなことを言うな! そんな取引があるか、みっともない!」
だが息子は、村長である父親をチラリと見て小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
老齢の父を尻目に懸ける息子に、奥方も開いた口がふさがらないでいた。
「いいえ、父上。私の妾にして、客人の接待などにも侍らせましょう。明後日にも近隣領主の集まりがあります。美しい女の接待は喜ばれ、様々な面でも良い返事が得られるでしょう」
戦になど、出兵したことのない放蕩息子のようだったが、所領は大切という考えはあるようだ。刀を交えぬ解決策を模索しているのだと豪語する。それを踏まえ遠方から来る領主達の接待と聞けば村長も考え込んだ。
ククの意思など関係なく話が進んでゆく。
「ま、待ってください! そんな不埒なことを……私には……」
男は戸惑う哀れな女を見て愉快そうに笑っていた。
「なんだ、亭主はいないのだろう?」
亭主が居なければ……、女をなぜこんなにもぞんざいに扱うのか……。見ず知らずの男の妾などどう堪えればいいのか。
怒りで煮えたぎる頭に、苦しむ義姉の姿がよぎり、席を立つのを留まらせる。
「……っ」
こんな非情な条件にすら、今のククには反発できないのだ。
ククはただ、目の前で笑う卑怯な男を睨みつけるより他なかった。
「気に入らぬのなら、また山に戻れ。皆で魔物を対峙し暮らすか、死ぬかのどちらかだろう?」
腐った男だった。
死ぬよりはましということだ。山の民の長として皆を守るためには従うしかない。
「――客人の接待とは?」
睨みつけて問うククに男は鼻で笑う。
「身を売ることもあるかもなぁ」
そう平然と言われククは気が遠くなった。貧しく幼い頃に売られ、身を売って生活する女はいる。そうならないために、男たちがいなくなり、里の皆をその道に進ませないために、一生懸命働いてきたはずだった。それなのに……。
押し黙るククに村長の息子は追い打ちをかけた。
「条件を飲まなければ、すぐさま山の民を追い出しましょう。瀕死の女の病状を疫病と皆に知らせれば、山の民は黙っていても村の者たちに殺されるでしょう」
男はどこまでも卑しかった。
「……なんてっ!」
先程まで良心的だった村長さえも、目を逸らす。ククは欲深い親子が仕掛けた無情の蟻地獄に落ちてしまい這い上がれなくなってしまった。だが、言いなりのまま死ねない。
「私がその条件を飲めば、山の女たちには何も条件を与えないとお約束願いたい。村長の言った通り、当面の援助と、集落を構える手伝いをお約束ください。義姉に医者を付け、助けるとお約束ください。どうか、そのことをお守りください」
村長は息子に呆れ果てながらも、心中思惑があり息子の条件を覆すことなくククの申し出を了承した。
「分かった。そんなに睨みつけるな。双方の村の為だ。お前さんには酷かもしれないが、それこそ山の民にも援助してくれる領主が他にも現れるかもしれん」
そう言い、先程とは打って変わってにんまりと、息子と同じ笑みをククに向けるのだった。
「ばからしい! 役に立つものですか。こんな年増の女!」
奥方は啖呵を切り、バサバサと着物の裾を払いながらククの前を立ち去って行った。
悔しかった。
一瞬先は闇。既にその一瞬先にククはいたのだった。
 




