三日目 夕方
夕方。マンションの影。駐車場。僕、ひとり。
またまた、なぜか定時で帰宅。まだ慣れない。
連続で定時に終わるほど仕事が無いなんて、うちの会社は大丈夫なんだろうか。
そういえば、今の会社の業績は……。
思い出そうとすると、なにかが頭にひっかかって邪魔をする。
なにかが、おかしい。
あのおとなりさん。
隣に住んでいる女性とすれ違ってから、ずっとだ。
何がどうおかしいのか、言葉で上手く言い表せない。
だが、何かこう、違和感のようなものがある。
漠然とした不安のような、もやもやとした落ち着かない、なにかが。
こんなときは気分を変えて、エレベーターにでも乗ろうか。
でも、おとなりさんが急に走り込んできて、一緒になったらと思うと。
見回してみたが、あたりに人はいない。
大丈夫、かな?
……いや。やっぱり、いつも通りに階段で行こう。
一階、二階、三階と僕の足音だけが階段に響く。
四階まで来た。
いまのところ特に問題はない。
気にし過ぎだろうか?
ただのおとなりさんというだけかもしれない相手に。
早く帰らないと――。
そう思いながら、気が重い。そして、足まで重くなる。
五階。
僕の住まいのあるフロア。
人影はない。
いや、それどころか、人の気配がまるで感じられない。
どこかから生活音がしたって別におかしくはないのに。
気のせいか?
本当に、僕の気のせいなのか?
眩暈がしてきた。
手すりを左手で掴んで体勢を立て直す。
その拍子に、下の駐車場が目に入った。
……あれ?
僕の車が見当たらない。
いつもの場所に停めてあるはずの、僕の車の姿がない。
違う場所に停めたんだっけ……?
思い出そうとして、後頭部を右手でぼりぼり掻いた。
うん……? 僕の鞄はどこだ?
仕事帰りなのに、僕は鞄を持っていない。
車に置き忘れてきたのか?
でも、その車も見当たらない。
車も鞄も、どこにあるんだ?
やっぱり、なにかがおかしい。
いま、手が届く確かなもの。
それは、妻と子が、君世と早苗が待っている502号室だけだ。
急がないと。急いで帰らないと。
重い体を引きずるようにして、やっとドアの前まで来た。
くすんだ銀色のドアノブに手を伸ばし、握ろうとしたその瞬間。
ドアノブが勝手に回り出し、内側からドアは開かれた。
黒いスカジャンの胸元から覗く、三毛猫の真剣な表情。
ドアを開けてくれたのは、あのおとなりさんだった。
僕の、家の玄関に?
どうして、僕の家にこの人が?
いや、それより、こんなに殺風景だったろうか。僕の家は。
生活感がないどころじゃない。
これじゃあ、まるで空き室じゃないか。
呆然となった僕を見ると、おとなりさんは振り返り、奥の方へ声をかけた。
「来たよ」
奥にあるリビングのドア、はめ込まれた化粧ガラスの向こうに人影がみえる。
ドアはこちらに向かって開いた。
小走りで近付いてくる。
制服姿の女の子が。
誰だろう。
ちょっと幼く見えるけど、高校生くらいだろうか。
いや、見覚えがあるような気がする。
どこかで。
どこで? どこだったろうか?
女子高生がすぐそこまで来た。
おとなりさんは横の壁に背を預けて、その子と僕の間から退いた。
胸元で両手を握り、女の子が口を開く。
「……お父さん!」
……え? 僕にこんな大きい子供はいない。
誰かと間違えてるのかな?
まだ幼稚園に通っているうちの子は、来年やっと小学校に……。
いや、違う。
見覚えがあるんじゃない。
この子にあるのは面影だ。
「……早苗」
僕の声は震えていて、いまにも消え入りそうだった。
「おかえりなさい。お父さん」
すっかり大きくなって見違えた、僕の愛娘は泣いていた。
僕の記憶にある幼いときと同じように、大きくしゃくりあげながら。
「ただいま」
言いたいことがいっぱいあった。
でも、僕に言えることは、それ以上もう何もなかった。