一日目 夕方
夕陽に照らされた十階建てのマンションが、黒い影を伸ばしていた。
駐車場を覆った大きな影を踏んで、僕は入り口へと向かう。
いつも自転車が無秩序に並んでいる駐輪場を横目に見ると、その横には、か細い桜の木がある。
曲がりくねって空へと広がった枝のあちこちに、小さなつぼみが膨らんでいた。
僕はふと立ち止まり、どこか頼りない桜の木を眺めた。
もう、春か……。
ここへ引っ越してきてたとき、娘の早苗はまだ三才だった。
月日が経つのは本当に早い。
来年の今頃になれば、あの子ももう小学一年生。
いろいろ大変なこともあったが、過ぎてみれば、あっという間だ。
いま、妻の君世と僕の実家のどっちが孫のランドセルを買うかで静かに火花を散らしている。
なんともありがたい話だが、孫を挟んで家同士がモメるのだけは勘弁して欲しい。
軽い溜息をついて、僕はまたマンションの入り口へ足を向けた。
今日は珍しく定時で仕事が終わったから、急いで帰ってきたのだが、君世と早苗は驚くだろうか。
マンションは入って正面に階段があり、その横にはエレベーターがある。
僕の家は五階。
だけど、健康のために階段を利用することにしている。
病気やケガを防ぐためにも程よい運動が必要だ。
サラリーマンは身体が資本。
コツコツと頑張って、早苗が高校生になる頃までにマイホームを持つのが僕ら夫婦の夢だ。
不意に横のエレベーターがチンと鳴った。
ちょうど誰かが降りてきたらしい。
重そうなドアが横にスライドして、ふわりと静かに開く。
狭いエレベーターの中には、髪の長い女性が一人。
しかし、その恰好が奇抜だった。
キラキラした黒いスカジャンの下から覗く、妙にリアルな三毛猫のデカい顔。
ファッションとは思えないほどダメージ多めのジーンズに、おっさんみたいなサンダル履き。
ぎょっとなった僕は、トレーナーにプリントされた猫と思わず目が合った。
そんなこちらの振る舞いをどう取ったのか、その人は軽く頭を下げると、僕の横をすり抜けて外へ出ていった。
ついつい目で追うと、スカジャンの背中に垂れた長い髪に一条だけ白髪がある。
はて?
いままでこんな人見かけたことないけど、住人を訪ねてきた知り合いなのかな。
彼女はポケットからスマホを取り出すと、歩きながら誰かと電話で話し出す。
「もしもし。わたしだけど。ああ、うん。いま、出たとこ」
これから誰かと待ち合わせでもしてるんだろうか。
歩み去っていく彼女はふと立ち止まると、ちらりとこちらを横目で見た。
どうやら、じろじろと見過ぎていたらしい。
知らない女性相手に失礼な真似をしてしまった……。
僕は何気ないふりをして視線を逸らすと、キレイな妻とカワイイ娘が待つ五階の我が家を目指して階段をのぼり始めた。